第6話『釜揚げしらすの卵雑炊』

 あの界隈と言う場所に行ってから、三日が経った。


 相変わらず、仕事は雑務ばかりで変わりばえはなかったが、美兎みうの仕事に取り組む姿勢が変わったのだ。


 打ち合わせでの、飲み物の配膳。


 書類をコピーしてから製本。


 打ち合わせが自由に使えるフリースペースでなら配置などのセッティングを。


 ひとりではなく、同期入社した仲間とも一緒にやっていったりするうちに……あれだけ無駄だと思っていた仕事が違っているように見えたのだ。雑務だが、無駄ではない。終わった後、小さい出来事でも達成感を得られたような感じになるくらい。


 先輩や上司からも、終わったら『良かった』と褒められるのだ。



「いやー、湖沼こぬまさん。気が利いてくれて助かったよ。まだ研修が続くけど、この調子で仕事を覚えて行きなさい? 研修が終わってから、どの部署につくかは、まず僕らが決めてしまうけど」

「は、はい! わかりました」



 宝来ほうらい火坑かきょうの言う通りだった。


 いきなり難しい仕事から新人に任せるわけがない。


 無駄な仕事はひとつもないのだ。だから、小さなことから、先輩や上司の仕事風景を見つつ、細かいところまで真似しながら覚えていく。


 そのひとつ一つの観察だけでも、充分自分の力になった。


 これが、研修なんだと今更ながらわかったくらい。あとは、あの自棄酒の日に彼らと出会えたお陰だと今では感謝してもしきれないでいた。


 けれども、まだこれは序盤だ。


 研修もあと少しで終わるので、彼らにお礼を言いにいくのはもう少し後にしようと思う。宝来がくれた、あのビー玉の吉夢きちむとやらがどう作用しているかわからないからだ。今でも、充分刺激は受けているけれど。



「お疲れ様でした」



 そして、終業時間になると。飲みに誘われることもなかったので、今日は大人しく自宅に帰ることにした。


 気力も体力も程よく消費したため、一人暮らしの家の近所のスーパーで夕飯の材料を買ったら帰宅。


 三日前に、火坑に教わった雑炊おじやを作るためだ。気分的に、今日はあの優しい味わいを口にしたいと思ったので。



「えーっと。普通の顆粒だしでもいいから」



 吸い地を少し濃い目の出汁にして。解凍させた米のぬめりを流水で洗い流し。ザルで水気を切ったら、温めた出汁に浸す。



「卵は混ぜ過ぎない。薬味の小ネギは煮てもそのままでもお好みで」



 米が温まってきて、出汁の縁にあぶくがたったら、溶いた卵を加えて……ここからが勝負だ。



「菜箸でこれでもかとかき混ぜる!」



 ぐちゃぐちゃになるまでかき混ぜると、空気が含まれて卵もふわふわに仕上がるのだとか。はじめは美兎も信じられなかったが、あの猫人の手によって本当になったのだ。


 ちなみに、その時の雑炊おじやは宝来の胃袋に入った。



「火坑さんに教わったトッピングもかけちゃって」



 一人暮らしなので火坑の店にあったような器はないが、白い小ぶりの陶器に盛り付けて。仕上げに小ネギと白ゴマ、釜揚げしらすをたっぷり乗せれば。



「釜揚げしらすの卵雑炊おじや!」



 他に用意したのは、スーパーのお惣菜だがたまにはいいだろう。


 さあ、食べようと手を合わせたらドアの方からチャイムの音が響いてきた。




 ピンポーン。




 郵便か宅配か。そう思って、覗き窓を見るとそのどちらでもなく、兄がドアの前に立っていた。



「お兄ちゃん、どうしたの!?」



 美兎が慌てて開ければ、兄の海峰斗みほとは困ったような笑顔を浮かべながら、足元にある段ボールを指した。



「親父と母さんがさ? 美兎の部屋の物色々まとめたんだよ。なんか息詰まってそうな気がしたから、今のうちに渡して来いって」

「まーた、お母さんの心配性……」

「まあ、居てよかったよ。ちょっと重いから部屋入っていいか?」

「うん。あ、お兄ちゃんご飯作ったんだけど、食べる?」

「お、マジか?」



 そして、久しぶりの兄妹水いらずで釜揚げしらす入りの卵雑炊おじやを完食し、海峰斗からも美味しい美味しいと言ってもらえて美兎はほっと出来た。


 美兎も食べたが、あの時味見した時よりは濃いめの味付けだったけれど、ふわとろの卵の固さは上出来だった。


 そして週末まで、海峰斗が持ってきた荷物には手をつけられなかったが。開けた時に、一番に目に入っていたものと添え書きに美兎はまた涙を流しそうになった。



「無くしたつもりでいたんだ……。ずっと、あったんだ……!」



 楽庵らくあんで見せられたのと、同じ。いや、だいぶ色あせてはいるが同じようなゾウ柄の缶バッジが入っていた。


 どうやら、父か母が見つけてくれて、荷物と一緒にしてくれたらしい。添書きには、『美兎ファイト!』と母の字で書いてあった。



「……よし! 植田うえだに行ってお菓子買ったら、楽庵に行ってみよう!」



 その決意を胸に。また仕事に励んでから数日後。


 宝来からもらった吉夢とやらが現実になった。



「嘘……!」



 研修期間の終了後、配属された美兎の部署は。


 希望通りの広告デザインのところであった。あの吉夢のお陰かどうかはわからないが、美兎にとっては夢のようで。


 嬉しくて飛び上がりそうになったのを堪えたが、植田よりも名古屋駅に出向いてデパートで高級なお菓子を買おうと決めてから。美兎は再び夜のにしき町に足を運んだ。



「……進んで、角を二回曲がって」



 その単純なルートひとつで、美兎はあの妖怪達がたむろする界隈に出た。それから、宝来に送ってもらったルートをそのまま歩いてみたら。


やがて、『楽庵』と書かれた小さな雑居ビルの看板が見えた。あの猫人が入り口前で掃除をしていたのですぐにわかったのもあるが。



「火坑さん!」

「おや、湖沼さん少しぶりですね?」



 たどり着けた美兎は、菓子を渡してから自分の心の欠片​──原点だったあの缶バッジを見せながら、火坑の料理を楽しむことにした。

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