赤ワインと元社畜~異世界の美少女たちを添えて~
青波精真
序幕 新生児編
第1話 たこつぼより愛を込めて
「自由だ……」
周回遅れのスペックにお洒落な名前をつけて、オトク感を割増しした愛用スマホの圏外表示を見て、俺――今の気分では名前すらない――は万感の思いでつぶやいた。スマホから目を開ければ一面の海面。俺が立つのは小さなボート。むろん、レンタル。
世はまさに大引きこもり時代。疫病だか伝染病だかウイルスだか、なんでもいいが人類がここまで引きこもっているのは有史以来初めてなんじゃないのか、知らんけど。
こうした世情のせいで、実在すら怪しいリア充――俺は自分で観測したものしか信じない主義だ――なる人種は孤独と不自由で苦しんでいるらしい。しかし、根っからの引きこもりたる俺の苦しみはそうではない。
社会人になって十数年、自宅で誰にも会わずに仕事ができるなんて素晴らしい、そんな風に思っていた時期が俺にもありました。だが現実はどうだ。四六時中、トゥウェンティーフォーアワーズ、通知がなりやまない私物PC。ちょっとでも反応が遅れれば途端に鳴り出すスマホ。休みの日だってお構いなしだ。
そんな
もちろん、小さな操舵室の中でぼーっとしているだけでは暇だから、にやつく笑顔のロゴが腹立つ通販サイトで釣り具一式そろえて、見よう見まねで竿ボロンしてみたが、まあ、釣れる気配はない。でもいいんだ、自由だから。
釣れねぇなぁと言って水平線に目をやれば、彼方に一艘、船がぽつんと。ありゃあどっかの国の密入国船か、密出国船か。そんなことを考えながら、我ながら腹の立つにやつく笑顔をしていたら、手にした竿に急な「引き」が!
いや、「引き」なんてもんじゃない、たとえるなら朝のラッシュの満員電車に乗り遅れかけて鞄を扉に挟んだらそのまま持って行かれたような、そんな抗いがたい力でもって、竿が「ひったくられた」。
どくん、と心臓が嫌な感じに高鳴る。PCが青画面の後、何度再起動してもBIOS画面に行ったときのような、大嫌いな役員に肩を叩かれたような、原チャの真横を法定速度をぶっちぎった大型トレーラーが通って行くような、嫌な心臓の高鳴り。俺は慌てて船のヘリにしがみついて、海面――つまり、竿が持って行かれた先を見た。
そこには誰もいませんよ。
いたのは、その遥か……下。海中であることは間違いないが、どれだけ深いかは分からないところに、のたくる「し」の字や、「S」の字が咄嗟には数え切れないほどにある。たぶん、哀れ俺の竿・リール・針と糸のワンセット5899円はそいつにもっていかれた。
そして、巨大なうねうねとは別に、何か別の大きな影――たとえるなら、鼻が伸びる児童向け映画に出て来たクジラみたいなもんか――がある。よく分からないが、水中で怪獣大戦争でもしているのか?
逆に、分かっていることが一つある。ここから逃げなきゃいけないことだ。あんなでかい奴らが海をひっかき回したら、こんな小さな船はあっという間にひっくり返っちまう。そんなことはお風呂に入ったことがあれば赤ん坊だって分かる。
ただ、残念ながら……、そんなことが分かっていたからって、逃げられると決まった訳じゃないことだ。舵輪にしがみついて、エンジンを再始動させたとき、目の前の海をかち割って、七色にてらてらと輝き、たこの吸盤の代わりにイソギンチャクの口のような器官を貼り付けた、不肖弊社の入る5階建ての雑居ビルほどの巨大さのある「し」がそびえたった。
かと思うと、それは限界まで伸びて切れた輪ゴムのようにしなって、俺の乗るボートを叩きつぶした。
痛いとかそういう感覚はなかった。いや、あったのかもしれないが筆舌につくしがたく、忘れたのかも知れない。とにかく、海に投げ出された勢いのままに深く沈んだ俺は、自分がどうなったのか、それすら分かっていなかった。初めてお風呂に入れられた赤ん坊みたいなもんだ。
ネットで見た知識で、暴れずに体が浮かび上がるのを待とうとしてみた。が、そんなものがムフフなお風呂で、おねーさんが桶の中でバチャバチャこねこねと混ぜているような海で何の役に立つってんだ? 俺はまさしく為す術もなく、渦の奥へと巻き込まれていった。
最後に記憶したのは不思議と小さい、赤く光る二つの目と、ムフフなお風呂なんかよりずっと気持ちのいい脱力感だったけど、そんなことがあるわけがない。そもそも、真っ暗な海水の中で、目を開けることもできなかったのだから。
そうして俺は、意識を失った。
――――
「どぅげっほげぼっ」
我ながらおっさん臭くなったなと思う激しい咳で俺は目覚めた。いつもは寝起きはちょっと息苦しいが、今日はそんなことはない。長引く引きこもり生活対策に、ボクシングゲームを続けていた成果だろうか。凄いぜ。でも、どことは言わないけど、トレーナーさんはたゆんたゆんして欲しい。
息苦しくはないが、喉が渇いている。三次会くらいまで飲みに飲みまくった翌朝のような渇きだ。知らない天井に感慨を覚える間もなく、軽く起き上がって左を見れば、ベッドサイドのテーブルにグラスに注がれた赤い液体と隣に濃緑のボトル。多分ワインだろう。迎え酒は体によくないが、渇きに耐えかねて俺はグラスをひったくると一気に飲み干した。
ヲタ仲間内で酒好きで通っている俺だが、実はワインの味はよく分からない。変に高いのより、500円の南米産の方が絶対旨いと思っている。そんな俺だが、このワインは高そうだけど旨かった。なんというか、ミネラル味? というのだろうか、濃厚な癖があってそれがアクセントになっていて実に旨い。さすが酒好きの俺。
「いや違うだろう」
トポトポとおかわりを注ぎながら、俺は声に出して自己ツッコミをした。いつもはそんなことはさすがにしない。単に声が出るか確認したかったのだ。
ついさっきまで、俺はレンタルボートで初のソロ竿ボロンに出ていたはずだ。そしてそこで泡泡大ピンチに陥っていたはずだ。少なくとも、三次会まで呑み会に出ていた訳じゃない。
しかし、救助された訳でも、自宅でストロングなメビウスリングを飲んで泥酔していた訳でもなさそうだ。俺の家はベッドではなく万年オフトゥンだし、病院が気を利かせてワインをボトルで置いとく、なんてことはない。
そして何よりこの部屋だ。余りの渇きにツッコミを忘れていたが、窓一つなく、総石造り……というか、石レンガというのか、いびつな直方体に切り出された石で壁も天井も柱も作られている。一応天井はアーチ状になっているが、鉄筋も入ってなさそうだし、石の間にセメントすらなさそうだし、震度6弱以上には耐えられなさそう。
床には絨毯が敷かれているから、寒々とした印象はないけども、本棚には蜘蛛の巣がかかっているし、衣装ダンスらしきいくつかの背の高い収納類には埃が積もっている。後は、あの旨いワインが入っていただろうボトルケースがある。残り11本。
窓がなくても、不自由なく部屋の様子が分かるのは、LEDライトがあるわけではもちろんなく、あちこちに蝋燭が立っていて火が着いているからだろう。計画性があるのかないのか、大体、一箇所当たりに3,4本がまとめて立てられている。あちこちにあるとはいえ、意外と明るいもんなんだな。
部屋の様子が分かれば気になるのは自分の体。両手はしっかりグラスとボトルを握りしめているから無事。体も何故か裸なのはともかく無事。足もある。ナニ、よしっ! グラスとボトルを置いて顔をぺたぺたしてみたが特に問題なさそうだ。髪も無事だ。まだハゲてない。
寝かされているベッドはいわゆるキングサイズで快適だが、ここで酒を飲んで二度寝に入るダメ人間の黄金パターンをする気にはなれない。何故ならつまみがないからだ。そして、さっきまで(実際のところ、どのくらい前かは分からないが)竿ボロンしていたとはいえ、肉団子までモロリしている状態で知らないところにいるのは、いささか不安だ。
部屋は掃除されていないようだが、ワインがあって蝋燭がついていたということは多分近くに人がいるはずだし、詳しくはその人に聞いてみることにして、とにかく俺は起き上がると衣装ダンスを開けて、中にある洋服をひっつかんで袖を通した。厚手で肌触りが柔らかい、ビロードとかコーデュロイとか言う生地の、なんだか高そうな服だ。勝手に着て怒られたら素直に謝ろう。
初めてお風呂に入れられた赤ん坊状態から、文明的な生活を送る人間の姿に変身した俺は、とりあえずベッドサイドのテーブルと一緒に置かれていた、彫刻のほどこされた椅子によっこらしょっと腰を下ろした。すると、まるで差し出されたかのように、俺の目に封筒が飛び込んできた。
どうするか少し悩んだものの、結局俺は蝋で封がされたそれの折り目を、俺は少し伸びた爪の角で切って開けると、中身を取り出して目を通した。そこには、知らない文字で――しかし内容は何故か分かる――、大体以下のようなことが書かれていた。
・巻き込んでしまって申し訳ない。
・訳あって、目が醒めるまで一緒にいられないが、いずれ姿を見せる。
・部屋のものは自由に使って構わない。
・君のいた世界やこれまでの人生と違うだろうが、まあ、頑張れ。
「なるほどょ~」
俺は手紙を手に、輪郭がふにゃふにゃな声を出してしまった。あれだ、いわゆる異世界転生――に見せかけた身内のどっきり。もろもろの保険金であぶく銭ができたからって悪ふざけをしたんだろう。
なるほど、分かる分かる。俺は腕組みをして目を閉じ、頑固職人よろしくうんうんと頷いた。我が身内ながらろくでもない。しかし恐らくどっかにカメラを隠しているだろうから、迂闊なこともできない。びびってるようにも見せたくないし、最初から気付いてますよアピールもなんだかサムい。
そもそも大声で「どっきりでしょー?」とかアピールしてたら、ほぼそれはびびっている状態といえる。ここは余裕をもってこの部屋をもう少し調べて見てもいいかもしれない。そもそも、一つしかないドアがどこに続いているか、ちゃんと開くか確認するくらいはいいだろう。リアル脱出ゲームというパターンもある。
そう決めて立ち上がり、扉に手をかけてゆっくり押すと、「ぎぃぃぃ~」っと絞め殺されるカラスのような音を立てて開いた。それから、かすかに……。
「……助けて、誰か! 助けて!」
と、助けを呼ぶ若い女の声が聞こえてきた。
「はぁはぁ、なるほど。そういうパターンね」
俺は一旦扉を開く手を止めて、首肯する。
A. 助けに行く→若い女に釣られるエロ親父
B. 無視する→チキン、非情
どっちに転んでもディスられるというパターン。それならまだ、パターンA. の方がマシか。少なくともSNSでキモイ顔文字送るよりはただのエロ親父の方がマシ。
脳内選択肢を決めると、扉の先にあった階段を駆け上がり、行き止まりの落とし戸を跳ね上げる。出た先は、ホラーゲームよく出てくる感じの洋館といった風情。なかなかよく出来ていて雰囲気もいい。一旦足を止めて耳を澄ますと、助けを求める声は外から――正面の両開きの扉の向こうから聞こえてくるようだ。改めて駆けだして扉の掛け金を外し、俺は外に飛び出した。
果たしてそこは、丘の上のお屋敷といった感じか。地平線に太陽が沈み始める刻限で、俺の目が一瞬眩んだ。なだらかな丘陵地帯に広がっているのは何かの畑で、その手前にはオレンジの三角屋根と白い壁が集まった、如何にも村といった風情の集落。さらに手前には3, 4メートルほどの木立が並ぶ、未舗装の小径がある。そしてそこを、青いワンピースの上に白いエプロンをつけた、いわゆるエプロンドレスを着た、16, 7歳くらいの女の子が走ってきている。否、こちらに向かって逃げて来ている。
女の子の髪は綺麗なブロンドで、涙を浮かべた瞳の色はグリーン。頭にリボンをつけ、手には籐編みのバスケット。絵本の世界から飛び出してきたような美少女だ。
「ンン、合格ッ」
思わず指名なしで美人が当たったときのような唸り声を出してしまった。悪ふざけでもここまでしてくれれば御の字というもの。
「あっ、冒険者さん、たす、たすけ……」
少女は最早息絶え絶えといった感じで、俺の姿を見つけると最後の力を振り絞って駆け寄ってくる体を装った。しかし、俺には分かる。こんな高そうな生地の服を着た俺を一目見て、冒険者だといったことがこれがやらせである証拠だ。設定が先行しすぎて、台本でやらかしたな。
俺は心の中でにやりと笑い、しかし表面上は心配そうな気の毒そうな顔をした。普段はPC音痴の上司専用の表情筋の使い方だが、意外と便利なものである。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
「ご、ゴブリンが村に……、わたしはなんとか逃げて来たんですけど、追われてて……」
そういう少女の来た先からは、緑肌で顔がしわくちゃ、腹が風船のようにぽっこり膨れ、腰布をつけているが貧相なナニがぴえんでぱおんしている様がはっきりした、子どもくらいの背丈の人型生物が二匹、木の棒を振りかざして一目散に駆けてきている。
よくできてやがる。
俺は顔をしかめてつばを飲んだ。本当にいたずらか? と今になって思う。ただ一方、海の上で感じたような嫌な心臓の高鳴りがしない。だから、いたずらでなければ夢か何かか。
不安そうに俺の影に隠れる少女をちらっと見て、もう一度ゴブリンと呼ばれた緑肌を見据える。ゴブリンと言うより、昔の宗教画で見た餓鬼のように見える。武装しているが、そうは言ってもたかが木の棒でかなり小柄だ。
屋敷の中に逃げ帰る手もあるが……、エロ親父だっていい、こんな美少女の前でカッコ悪い真似はできない。
「俺はAを選んだぜ!」
低くつぶやいて、俺は唇を冷えた舌で一回、べろっと舐めた。
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