3.11
夏野彩葉
2011.3.11とその後のいろいろ
東日本大震災が発生したとき、私は関東に住む小学二年生だった。
五時間目の授業が終わり、ちょうど帰りの会が始まった頃だっただろうか。
地面が、揺れた。校内放送よりも先に、揺れた。私達は避難訓練のとおりに机の下に入った。
クラスの中は、今考えるとちょっとしたパニックになっていたのだと思う。泣き出す子もいれば、「これは訓練だな!」なんて叫ぶ、いつもふざけて先生に叱られている子もいた。
私はというと、実はよく覚えていない。その一月ほど前に起こったニュージーランドでの地震のこともあり、やはりパニックを起こしていたのだろう。通路を挟んで左隣の子の机に掛けてあった折り紙ケースが酷く揺れていたことは覚えている。本当の地震のときには、いつもは椅子の背に掛けてある防災頭巾も使わなければ、グラウンドに避難して点呼を取ることもないのだなとパニックを起こす中でぼんやり考えていたことを記憶している。
幸い私が住んでいた地域では大きな被害はなかったが、その日の六時間目に予定されていた高学年のクラブ活動は中止になり、通学路の途中まで先生が引率しての集団下校が行われた。一緒に下校した同じ社宅に住む同級生の女の子に「うちのママ達、今日出掛けてるよね?」と聞かれ、そのとき私は初めて母のこと思い出したのだった。
その日、私の母は同じ社宅に住む同級生のママ友と当時四歳になったばかりだった同級生の妹と共に、数ヶ月前に引っ越したママ友の元へと遊びに行っていた。三人は帰宅途中の車の中で地震に遭ったという。ひどい揺れだったが、すぐに収まりなんとか帰ってこられたそうだ。
家の中は、想像していたより荒れていた。玄関に置いていた動物の置物や写真立て(中にポストカードを入れていた)が倒れていたり、棚に置いていたデジタル時計が床に落ちていたりと、当時の私の感覚としては最悪の状態だった。大きな家具が倒れていなかったり観音開きの食器棚が閉まったままだったりしたのは、不幸中の幸いだろう。
私が母に言われたとおりに持ち出し用の荷物を準備している間、母は父や実家と連絡を取ろうとしていた。電話は通じない、メールなら時間はかかるけどちゃんと届くかも、としきりに言っていたのを覚えている。
結局父も帰ってこない、テレビを点けても地震か津波のニュースしか流れていなかったその日は、和室に母と私の布団を並べて、枕元に二人分の持ち出し用リュックとヘルメットを置いて眠った。
父は帰宅困難者だった。都内に勤めていて、会社の入っているビルで地震にあった。本人にも勤め先にも被害はなかったが、電車がストップしてそこから身動きが取れなくなった。途中までは歩いて帰ってきたらしいが、帰宅を断念して都内の実家へと向かったそうだ。帰宅できたのは翌日の昼になってからのことだった。後に「あの時は会社に泊まれば良かったんだ」と証言している。
週が明けた14日、学校では四時間授業が行われた。だが、給食は普段通りとは行かない。出てきたのはターメリックライスと牛乳だけ。関東でさえこれだ。給食嫌いの私ですら残さず食べた。家に帰ってきてから珍しく「お腹が空いた」と訴える小食の私に、母はおにぎりを握ってくれた。学校でターメリックライスを食べたのだから本当は米以外の物を食べたかったのだが、子供心に言うべきでないと思ったので黙って食べたものだった。
母の実家は被災三県などと呼ばれる太平洋に面した県にあったが、内陸側に位置していたため被害らしい被害は出なかった。買い物中に地震に遭った伯母も、その前年に手術を受けて家で静養していた祖母も、仕事中だった伯父も、家にいた祖父も、高校生だった従兄も、皆無事だった。しかし、海よりの地域で一人暮らしをしていた大学卒業を控えた母方の従兄は悲惨だった。本人は無事だったが、地震の影響でアパートのドアが歪み、閉まらなくなったのだという。昔、『一人暮らし』というものに興味があって、伯母に従兄のアパートがどんな所か聞いたことがある。「日当たりが良くて、きれいな所」とそのときは聞かされた。だが三月の東北、まだ関東ほど温かくはない。もうすぐそこを引き払うはずの大学生なので、食糧も大して用意していない。結局彼は予定より早くアパートを引き払い、両親(母の姉夫婦)の運転するワゴン車に必要な物だけ載せて、入社予定の企業の独身寮に入るまでの数日間を我が家で過ごすことになったのだった。
従兄と伯母夫妻が来た日、私と母は父に留守番を頼んで五人で買い出しのためにショッピングモールへ向かった。
しかし、物がないのだ。
野菜や肉、魚などの生鮮食品のコーナーは空っぽで、照明が落とされ、普段より暗く感じた。カップラーメンやインスタント食品のコーナーも、置いてある商品はまばらだった。小さいサイズのカップラーメンの詰め合わせが数袋残っていて、仕方なくそれを買った。米も具体的には思い出せないのだが、まばらにしか残っていなかったように思う。
やむを得ずその翌日、伯父のワゴン車で某倉庫型チェーン店へ行って必要な物を揃えたのだった。
伯母夫妻が東北へと帰った日、四国に住む幼馴染み(私は幼稚園の頃、四国の某県に住んでいた)の家から段ボール箱一杯の柑橘類の果物が届いた。ミカンではなかったのだが、何だったか思い出せない。黄色で、グレープフルーツくらいの大きさだった。そこには、幼馴染みの母からの、我が家と母方の実家を心配する手紙が添えられていた。果物は幼馴染みの母方の祖父母の家で穫れたものだった。
自分用に書き起こしたのだから、特にこれといった締めの言葉は用意していない。しかし、どうにかして忘れないでおきたい。今となっては笑い話となったことも少なくない。その中で、帰宅を諦めた父、寒い思いをした挙げ句バタバタしながら上京した従兄、心配してくれた幼馴染みの親子がいたこと――そして、関東の何でもない小学2年生のある女の子の日常が崩れた日があったことを、忘れないように、ここに留めておきたい。
3.11 夏野彩葉 @natsuiro-story
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