第10章 Sonntag - Morgen
ゾネは動かない。デア・モントが彼女を見つめている。その身に紫色の光を纏い、彼女に猶予を与えているように見えた。
エアデはゾネの傍に近寄る。
「……ゾネ、それって……」
エアデの言葉を遮って、ゾネは言った。
「ずっと隠していて、ごめんなさい」謝っているのに、彼女は彼に笑いかけた。「怖くて、言えなかったんです」
ゾネの表情を見て、エアデは一歩後退した。
「なんで……」彼は言葉を漏らす。「……だって、僕に手助けしてほしいって、そう言ったじゃないか」
「手助けというのは、そういう意味だったということだ」唐突にデア・モントが口を挟んだ。「創造主といえども、自身のエネルギーを失っては活動できないからな。何よりも多くのエネルギーを持った、恒星という存在でも、永遠に持続する力を手にすることはできない。力が足りないのなら奪えばよいのだ。……生命の一つや二つ、減っても何も困ることはない」
ゾネは月の精霊を見る。
「だが、お前は一歩遅かったようだ。なぜ、躊躇した? 創造主たる貴様が、なぜ、生命の一つくらい、簡単に自身の糧にすることができなかった? それが、貴様の創造主としての限界だ。新たな世界を生み出す存在として、貴様は相応しくないのだ。これでよく分かっただろう?」
ゾネは沈黙している。
暫くしてから、彼女は顔を上げてエアデを見た。
「エアデさん。私は、貴方と一緒にいられて楽しかったです」小さな声だが、はっきりとした口調で彼女は言った。「自分の生み出した生命と触れ合うのは、これが初めてのことでした。こんなにも輝いていて、一生懸命な生命の姿を見られたことは、私にとって幸せでした」
エアデは困惑し、彼女の顔をじっと見つめることしかできなかった。
「エアデさんは強い方です。私に出会う前は、色々と悩むことがあったのかもしれませんが、貴方は私のために力を尽くしてくれました。その気持ちが私は嬉しかった。その力が、貴方の中にはもとより備わっているのです。だから、誰よりも強い明かりをこの世界に示すことができたのです」
「ゾネ、何を言って……」
「お別れです、エアデさん」ゾネは笑った。「ありがとう。そして、また……」
言い終わらない内に、ゾネはエアデに背を向けると、自身の身に橙色の光を纏い始めた。
自分の方に来ると思っていた。
デア・モントが言っていたように、自分が彼女の贄になるのだと、そう思っていた。
でも。
ゾネは行ってしまう。
まるで、時間が止まったかのように、エアデにはその光景が見えた。
今、一歩足を踏み出せば、それだけで彼女に届く。
かつての自分には、それができなかった。
また、ここでチャンスを失うのか?
まだ、何一つとして成長できていなかったのか?
いや……。
それは違う。
今しなければならない。
未来の自分には、過去の自分を書き換えることはできないのだ。
「駄目だ、ゾネ!」
足に力を入れて、エアデは一歩踏み出した。
それは、今までの累積だった。
彼女と一緒にいたから変われたことだった。
自分一人では成しえられなかった。
だから……。
「行っちゃ駄目だ!」
彼女に、最後まで傍にいてほしかった。
突然腕を引っ張られたことに驚いて、ゾネは後ろを振り返る。彼女は自分の腕を掴むエアデの腕を辿り、彼の顔を見た。
「……エアデさん」
「あいつの言っていることは、嘘だ」エアデは言った。思いを吐き出すように、それは力の籠もった声だった。「君は約束してくれたはずだ。もう一度、海に一緒に行くって。この星の本当の姿を見せてくれるって、約束したじゃないか」
泣くのは初めてだった。
泣きたくなったことは、今までもあった。
でも、今、彼女に泣き顔を見られるのは、恥ずかしくなかった。
「君は、僕を守ろうとしてくれているんだ。そうだろう?」涙を零しながらエアデは言った。「君は、僕を贄にしようとしているんじゃない。君は絶対にそんなことはしない。君は、自分自身を贄として、この星を救おうとしているんだ」
ゾネは何も言わなかった。
ただずっと、エアデのことを見つめていた。
「でも、それじゃ駄目だ。この星は君がいなければ成り立たない。君が照らしてくれなければ、この星はずっと暗いままだ」
光を纏った腕に直接触れていることで、エアデの手は少しずつ焼けていく。
煙が上る。
痛みは感じなかった。
それよりも、彼女と別れる方が余程辛かった。
「……一緒に、この戦いに勝つんだ」
いつの間にか、ゾネの目からも涙が溢れていた。それは下へと零れて、自身の腕の上へ落ちていく。彼女の身体を覆う橙色の光に触れて、それは少しずつ、エアデの焼けた手を癒やしていく。黒い煙が立ち上り、音を立てながら焦げた皮膚を冷ましていった。
光が消えた手で、ゾネは目もとを擦る。
涙が出なくなってから、彼女は笑顔で頷いた。
「はい、エアデさん」
掴んでいた位置を下にずらして、エアデはゾネの手を握る。彼女も彼の手を握り返した。
二人で後ろを振り返る。
「なるほど」二人の姿を見て、デア・モントは言った。「創造主としての座を捨て、自ら生み出した生命と与するというのか」
「貴方が思っているほど、この星の生命は無力ではありません」口調を強めてゾネは告げる。
「それはどうだか」月の精霊は首を傾げた。「もう、貴様の力は残されてはいまい。その身体で、どうやって戦うというのだ?」
「彼と二人で、戦います」
「不可能だ」デア・モントは笑った。「まあ、よいだろう。創造主の恥晒しの最期、見届けてやるとしよう」
そう言うと、月の精霊は自身の身体に纏う光をより一層強める。紫色の稲光が轟き、辺りの空気を震え上がらせた。
「エアデさん」ゾネが言った。「もう一度、先ほどと同じ作戦でいきます。私が彼を引きつけたら、貴方の明かりで彼を撃退して下さい」
彼女を見て、エアデは尋ねる。
「そんな身体で、大丈夫なのか?」
「大丈夫ではありませんが、やってみます」ゾネは笑った。「できると思えば、できますから」
彼女の笑顔を見て、エアデは頷いた。
「行きましょう、エアデさん」
そう言って、ゾネはエアデの手を離す。けれど、もう名残惜しさはどこにもなかった。
飛来するゾネに向けて、デア・モントが紫色の光線を放つ。ゾネはそれを自身の光の束でガードし、自らも橙色の光を放って彼に反撃する。
「見損なったよ、ディ・ゾネ」
躯体に接触してきたゾネを、デア・モントは光線を器用に操って防ぐ。
力押しだが、ゾネは自身のエネルギーを集中させて、彼にそれをぶつけた。
「創造主の恥晒しは、貴方です」ゾネは言った。「自ら生み出した生命を理解しようとせず、自身の理想通りにならなければ捨てようとする。それでは、いつになっても理想を実現することはできません。今ある現実から目を背け続ける限り、貴方に成長はありえません」
「成長など必要ないのだよ」デア・モントは笑った。「我は、すでに完成された存在なのだからな」
ゾネは彼を睨みつける。
「私は、自分以外の存在と出会ったことで、成長を遂げた一人の少年を知っています。私たちもまた、彼らから影響を受けて、成長していくべきなのです」
「その考えが甘いのだ」月の精霊はゾネの攻撃を撥ね退けた。そして、不敵に笑い、纏う光をさらに活性化させる。「……この星の生命は、すでに我の手の中にある」
デア・モントの手振りに合わせて、周囲にある木々がアスファルトから抜け出し、形を変形させながらゾネへと迫る。彼女は上空へと飛翔し、それらとの衝突を避ける。木々は互いにぶつかり合って粉砕され、眼下にその残骸だけが残った。
「私は、貴方を許しません」ゾネは言った。「この星の未来を照らすのは、私一人で充分です」
上空に舞う二つの閃光を、エアデは地上から眺めていた。
もう、彼の中に残された力は僅かだった。明かりを灯す行為は、自身の生命を削るからだ。でも、ゾネがどうしてその術を人間に託したのか、今なら分かるような気がした。明かりは、たとえ見えなくても、それぞれの中に等しく灯っている。それを目にすれば、生きているというのがどういうことなのか分かる。だから、かつての自分は、明かりを灯せられる人々との関係を避けていたのだと、エアデは気がついた。彼らが力強く生きていることを実感させられるのが、悔しかったのだ。
彼の生きる意味は、まだない。
けれど、それはこれから探していけば良い。
誰かと一緒に海を見に行く。
そのために生きていると、それが生きる目的だと決めるのも自由だ。
そうやって、自分の生きる目的を考えては、またそれは違うかもしれないと苦悩し、それでも生きることを続けていく。
それが、ゾネが教えてくれた人間としての生き方だ。
上空で踊る橙色の光が、こちらに向けて接近しつつあった。エアデは目を閉じ、人差し指をそっと立てる。
彼の中には色々なイメージが渦巻いていた。ゾネとの出会い、学校での苦痛、練習の意義、別れの寂しさ、草木の香り、繰り返す波の音……。
そのどれもが、生きているからこそ分かるものだと、そう感じた。
そのイメージを、自分の中で確固たるものへと変換させる。
真っ暗な胸の中に、大きな明かりが灯った。
それは、先のことなど何一つとして分からない絶望的な世界に、未来を示す希望の光だった。
「エアデさん!」
上空からゾネの声が聞こえた。
「貴方の生命の在り方を示して下さい」
目を開けると、橙色の光がすぐ傍で彼に笑いかけていた。
それが視界から消える。
その向こうから、紫色の光がこちらに向かって迫ってきた。
きっと、ここで彼に負ければ、自分は消え、その輝きは永遠に示せなくなる。
だから精一杯の力を込めて、エアデは大きな声で叫んだ。
「Komm, mein Licht」
かつて何もできなかった少年は、自身の内に灯る明かりを、生命が燃やす炎を、この世界に提示する。
その日、闇に包まれていたこの星は、再び強大な明かりに照らされた。
紫色の光は飲み込まれ、すべてが終わり、そして、すべてがここから始まる。
星は輝きを取り戻し、歯車を一つ隣へと動かした。
突如として現れた強大な明かりに飲み込まれて、月の精霊はその場に崩折れた。
「そんな、ことが……」
デア・モントの躯体には亀裂が入り、少しずつ形を崩し始めている。地面に落ちた破片は灰のように細かい粒子となり、天に向かって昇っていっていた。
「創造主たる、我、が……」
反動を受けて倒れたエアデに手を貸し、ゾネは彼を立ち上がらせる。彼女の全身もぼろぼろだったが、致命的な怪我はなさそうだった。
「大丈夫ですか、エアデさん」
ゾネに問われ、エアデは頷く。
「うん、なんとか……」
「努力が報われて、よかったですね」そう言って、彼女は彼に微笑みかける。
彼女の笑顔を見て、エアデは笑った。
「これで、よかったのか?」
「ええ……。あとは時間の問題です」
ゾネは後ろを振り返ると、崩れ行くデア・モントの傍へと近寄った。
「これが、この星に生きる生命の力です」彼女は諭すように言った。「貴方の思惑通りにならなくて、よかったです」
「我を、見捨てるというのか」
デア・モントの全身は、今も光に包まれている。けれどそれは、もう彼の意思では制御できないようで、悲鳴を上げながら彼自身を締めつけていた。
「いいえ、見捨てはしません」
「……我の、力を、返してくれ」月の精霊は言った。「……このままでは、消えて、なくなって、しまう」
「では、すべての権限を私に委ねて下さい」ゾネはデア・モントに告げた。「貴方の力は失うには惜しいものです。ですが、その力を濫用した罪は、決して許されるものではありません。貴方の存在は一時的に封印し、その力は私が使わせてもらいます。この星の修復と再建のために、必要なものですから」
「……ディ・ゾネ」月の精霊は僅かに顔を上げ、彼女に薄く笑いかけた。「貴様が生み出した生命は、我の存在をも上回ったようだな」
デア・モントの四肢はすでに崩壊している。ゾネは彼に掌を向け、そのエネルギーを自身の内へと取り込だ。
「いいえ、それは違います」彼女は首を振った。「彼らは、私と、貴方の二人で生み出したものです。……貴方だって、本当は彼らを愛していたはずです。いえ、愛したかったはず……。……どこで、道を踏み誤りましたか?」
ゾネの言葉を受けて、デア・モントは声を上げて笑った。消え行く中、その表情だけが最後まで残っていた。
「そうだな……。……我は、きっと、この星を……」
言葉は続かなかった。
やがて、月の精霊は完全に消失した。
彼の力を一通り取り込み終えると、ゾネはエアデの方を振り返った。
「これで、この星はもとの姿に戻ります」彼女は言った。「いえ……。……まだ暫くは今の状態が続くでしょう。でも、安心して下さい。この星はかつての輝きを取り戻します。いつか必ず、青い空と海を見せるようになるでしょう」
ゾネの笑顔を見て、エアデは力が抜けた。そのまま後ろに体重を預けると、彼は地べたに座り込んでしまった。
「……本当に、終わったんだな」
「ええ、何もかも」ゾネも彼の前に座り込む。「エアデさん、本当にありがとう」
そう言うと、ゾネはそのまま身体を前に倒して、エアデを正面から抱き締めた。突然のことで、彼は盛大に戸惑ってしまった。
軽いがきちんと体重を感じられる身体が、彼の上半身にかかってくる。首を通して後ろに回された両手が、彼の背中に触れていた。ゾネの頰が、自分の頰のすぐ傍にある。そして、柔らかな髪が首もとに触れて、少しだけ擽ったかった。
生暖かい水が肩に零れてきて、エアデは息を呑む。
ゾネは、泣いていた。
その涙が何を意味するのか、エアデには分からなかったが、とりあえず、彼も腕を回して、彼女の体重を支えることにした。
「辛かったのか?」
何を言ったら良いのか分からなくて、とにかく彼女とコミュニケーションをとるために、エアデは思いついたことをそのまま尋ねた。
「ええ、とても、辛かったです」震えた声でゾネは言った。
「……ずっと、僕たちを守ってくれていたんだもんな」
彼女は首を一度上下に動かす。髪の感触が頰に伝わってきた。
ゾネの肩越しに、その向こう側に広がる空が見える。未だかつてないほど暗くなっていた空は、少しずついつもの明るさを取り戻していた。けれど、暫くすると、上空から大粒の雨が降ってきた。それは冷たくて、当たると少し痛かったが、戦いのあとだから妙に清々しく感じられた。
ゾネを抱き締めたまま、エアデは顔を横に向ける。
橋のその向こう。
広がる町並み。
そのずっと先の方に、今まで見たことのない何かが煌めいていた。
それはカーブして、半円のような形状をしている。
雨の影響を受けてきらきらと輝くそれは、七色の色彩を伴っているようにエアデには見えた。
「エアデさん、どうもありがとう」首の向こう側から、ゾネの声が聞こえた。「これで、お別れです」
彼女の言葉を聞いて、エアデは声を漏らす。
「……え?」
ゾネは背中に回していた手を解き、顔を上げて彼を見つめる。まだ目もとには涙が浮かんでいたが、彼女の表情は全体的に柔和だった。
「私は、帰らなくてはなりません」
「……帰るって、どこへ?」
「宇宙です」
エアデはゾネをじっと見つめる。
彼女が嘘を吐くことなど、ないと分かっていた。
彼女の表情があまりにも綺麗だったから、彼は何も言えなくなった。
「私は、この星を未来へと存続させるために、自分の役割を全うしなくてはなりません。そのためには、まずは自分の力を取り戻す必要があります。かつての自分がそうしていたように、太陽としてこの星を照らす準備をしなくてはならないのです」
「……精霊としての姿を、失うのか?」
「いいえ」ゾネは静かに首を振る。「姿を失うわけではありません。でも、太陽として、この系を支えなくてはならないので、暫くの間この姿を維持することはできなくなります。生命としての姿を維持するには、ある程度のエネルギーが必要だからです。今までは、月の精霊との戦いのために、この姿になっていたのです。でも、彼を倒してその必要はなくなりました」
エアデは思わず顔を逸らす。下を向いていると、ゾネの手が伸びてきて、彼の手に触れた。
エアデは顔を上げる。
「……また、会えるのか?」
どうしようもなくて、エアデは涙が零れるのを堪えることができなかった。今泣くのを我慢すれば、この先一生、彼女のために泣くことはできないと思った。
「会えると、信じましょう」ゾネは答えた。「……自分の役割を充分に果たせるようになるのに、どれくらいかかるか分かりません。こんな状況になったことはないので、私にとっても未知なのです。この星が生まれてから、いえ、それよりずっと前から、私はこの系を見てきましたが、それよりも長い時間がかかるかもしれません」
ゾネはエアデにずっと笑顔を向けている。
「……約束」
彼がそう呟くと、ゾネは困ったような表情になって、首を傾げた。
「ええ、そうですね」ゾネは、彼の手を握ったまま立ち上がる。エアデもそれに伴って、その場に立った。「約束は、果たさなくてはなりません。一緒に、海を見るのでしたね」
ゾネの笑顔を見て、エアデは少し申し訳なくなる。だから、辛かったが、自分から言葉を放った。
「でも、やっぱり、いいよ」彼は言った。「いや……。会えなくなるのは寂しいけど、僕たちのために、ゾネは頑張ってくれるんだろ? ……なら、僕との約束は二の次だ。必ず果たすなんて、言ってくれなくても、大丈夫だよ」
だが、ゾネはエアデの提案を一蹴した。
「それはできません」彼女は首を振る。「必ず、果たしてみせます」
「でも……」
「青い空の下に広がる、同じくらい青い海の姿は、とても綺麗なものです。それを大切な人と一緒に見られないのは、私にとっても寂しいことです。ですから、必ず果たすとお約束します。それに……」
ゾネは、一度顔を下に向ける。
それから彼女はまた顔を上げて、にっこりと笑って彼に言った。
「まだ、大事なことを言ってもらってませんから」
ゾネが言ったことを、エアデはすぐには理解できなかった。けれど、考えている内に、頭の中で何かが引っかかるのを感じた。
そう……。
彼は、自分の記憶が一部抜けていたことを思い出した。それは、彼が初めて明かりを灯すことに成功した、あの日のこと。ゾネと再会する前に、彼はヴェルト・アルと名乗る一人のロボットの少女と出会っていた。そして彼女は、彼にあることを提案した。
……もし自分が意識を失っている間、ヴェルト・アルがゾネにそのことを伝えていたとしたら……。
途端に恥ずかしくなって、エアデは一心不乱に下を向いた。赤く染まった顔をゾネに見られたくなくて、首が折れるほど顔を下に向けたが、そんな彼を見て面白そうに笑った彼女に、下から思いきり顔を覗き込まれてしまった。
「どうか、しましたか?」ゾネは薄く笑っている。
「いや……」下は駄目だと、今度は顔を横に向けて、エアデは答える。
ゾネはそっと、エアデの手を離す。感触の乖離を認識して、エアデは顔を正面に戻した。
「楽しみにしていますね、エアデさん」真っ直ぐ立ったまま、ゾネは言った。「また、いつか会える日を。そして、そのときに、貴方が言ってくれるであろう言葉を」
エアデは彼女を見つめる。
「本当に、行っちゃうんだな」
「ええ、私はそうあるべきなので」
「大切なことを教えてくれて、ありがとう」
「いいえ、こちらこそ」ゾネは首を傾げる。「自分が生み出した生命と、こんなふうに一緒にいられて、私も楽しかったです」
そう言うと、ゾネはエアデに背を向け、勢い良く天に向かって昇っていった。
いつか見た光景と逆だった。
橙色の軌跡が、空に向かって上っていく。
真っ黒な空に、それはよく映える。
間もなく、橙色の光は完全に消失した。
彼女が消えていった空に背を向け、エアデは歩き始める。
この星は、かつての輝きを取り戻す。
いや、これから生まれ変わるのだ。
その一歩を、彼女と一緒に踏み出せたことが、彼は誇らしかった。
エアデは歩みを止めない。
人間として、そして人間らしく、彼は生きていく。
*
宇宙は広く、どこまでも広がっていた。
かつて彼女が話したように、それを証明することはできない。けれど、一度ここに来れば、それが本当のことだと実感する。それほどまでに宇宙は広大で、そんな空間に彼女は一人で浮かんでいる。
眼下には一つの惑星があった。その星は輝きを失い、長い間沈黙している。けれど、その輝きを失わせた戦いはもう終わった。これからは、またかつての色彩を取り戻す方へと向かっていく。彼女がその星を照らし、未来へと導く道標となるのだ。
彼女の隣には巨大な岩石の塊があった。その表面には幾数もの亀裂が入り、所々が砕け、徐々に小さな粒子へと還元されつつある。彼女は自身の手に橙色の光を灯し、それをその岩石の塊へと向けた。分裂した粒子は彼女が灯した光の方へと集まり、少しずつ形を変えて大きな球体になっていく。それは一つの星の起源であり、新しい世界の始まりでもあった。
彼女の眼下にある星は、彼女ともう一人の彼が作り出したものだった。だから、彼がどれほど自身の理想に飲み込まれ、愚かな存在になろうと、彼を見捨てることはできなかった。その星を再建するには、彼の力が必要だからだ。この宇宙に定められた掟を破った彼に与えられるべき罰は、暫くの沈黙と、彼女への全権の譲渡だ。また彼女には、彼が再び同じ過ちを繰り返さないように、彼を監視する必要もあった。
生命は尊い。
それらを生み出すことができたのは、奇跡も同然だ。
まだ、ほかの星で成功した例はない。
たとえ彼がもう一度初めからやり直そうとしても、それが成功する保証はどこにもない。
岩石の粒子を一通り集め終えた彼女は、自身を昇華させ、粒子を集めてできた球体の中へ入っていく。姿を失う前に、彼女はもう一度眼下に浮かぶ星に目をやった。
その星に住むあの少年なら、きっと精一杯生きてくれるだろうと思った。
彼は強い。
彼は、生命の輝きを見せてくれた。
彼女は、それが嬉しかった。
彼女はこれから、本来の使命を全うする。そのためには、長い時間が必要になる。けれど、一時一時に生命を燃やす彼らの姿を思い浮かべれば、自分もまだまだ頑張れると思った。
創造主は万物を支配するのではない。
生み出したものに影響を与え、同様に、生み出したものから影響を受ける。
彼らを支配することはできない。
それが、自身と生命の関係として最も相応しい。
彼女が出会ったあの少年は、それを証明してくれた。
彼女は沈黙する。
長い知の旅の果てに、彼にもう一度会えることを願った。
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