第4章 Dienstag
次の日も学校に行って、帰ってきてから明かりを灯す練習をした。練習といっても、言葉を呟きながら指を立てるだけだ。けれど、そうした動作に意味があるのではないからこそ、練習する必要があった。勉強も、書いているだけでは身につかない。結局のところ、その動作をする個人が、主体的にどれだけ意識できるかが肝となる。
ゾネの指導は、厳しくも、甘くもなかった。すべきことを的確に指示し、その通りにやらせようとするだけだ。それが一番の近道であることは理解していたが、エアデはそうした単純な作業が嫌いだった。嫌いなことはやりたくないから、彼はすぐに投げ出しそうになったが、ゾネがそれを留まらせた。
「必ず、できるようになります」午後八時を迎えたリビングで、ゾネは言った。「何度も同じことを繰り返して下さい」
言われた通りにエアデは言葉を口にし、人差し指を立てる。昨日から通算して、もう数百回はその動作を行った。けれど、何の変化も訪れなかった。
疲れたと言って、エアデは椅子に座る。
ゾネは立ったまま彼を見下ろし、感情を窺わせない声で言った。
「そんなにすぐにできるようにはなりません。辛抱強く、何度も繰り返すしかありません」
「そんなこと、分かっているよ」
エアデはテーブルに両肘をつき、掌で額を押さえて沈黙する。
「どこか、具合が悪いのですか?」
口では答えずに、エアデは首を振るジェスチャーだけを返す。
仕方のない人ですねと言って、ゾネは一端彼のもとから離れた。硝子扉を開けてベランダに出ると、彼女はそのまま空を眺め始める。
エアデは、今まで、練習して成果を得られた経験をしたことがなかった。たぶん、それも学校をやめた理由とどこかで繋がっている。
練習する意味はもちろん理解している。それしか方法がないことも分かっている。けれど、だからといって、それだけで自分から主体的に練習に打ち込めるほど、彼は賢くなかった。もし彼がそういう人間だったら、きっとこんな生活はしていない。
「何で、こんなことしているんだ……」
別に、練習するという行為が辛いわけではなかった。言葉を口にして、指を少し動かすだけだ。全然疲れるようなことではないし、周囲の目を気にしながら学校で授業を受けている方が余程疲れる。問題はそこではなかった。ゾネの言っていることが理解できないという現実が、練習するほどに積もってやるせなかったのだ。
ベランダからゾネが戻ってくる。彼女はエアデの傍に立つと、彼の肩に軽く触れた。
「落ち着きましたか?」
エアデは再度首を振る。
ゾネは彼の肩から手を離し、その場に立ち尽くす。
「……もう少し、分かりやすく教えてほしい」呟くようにエアデは言った。「馬鹿な僕にも、分かるように」
「エアデさんは、馬鹿ではありません」ゾネが訂正する。
「そんなことはどうでもいいよ。……いや、自分で言ったんだから、どうでもよくはないのか」
「練習しようという気が、あるのでしょう?」
返事をするのに少し時間がかかった。
「……ないわけでは、ないけど……」
「それなら、必ずできるようになります」
ゾネの言葉を聞いて、エアデは溜め息を吐いた。
「もう一度、やってみませんか?」
ずっと下を向いたままなのが申し訳なくて、エアデはようやく顔を上げた。意外と近くにゾネの顔があって、彼は驚く。彼女は少しだけ困ったような顔をしていて、それでも笑みを浮かべていた。
「もう一度、頑張ってみましょう」
エアデは立ち上がり、また人差し指を立てる。
普通なら誰でもできることを、この歳になってもできないということに対する情けなさみたいなものは、どういうわけか彼にはなかった。たとえそれができて当たり前のことでも、できない人にはできないのだから、仕方がないというのが彼の認識だった。自分でもどうしてそんなふうに思えるのかは分からなかったが、もともと自分に期待していないからかもしれないと、ふと思いついた。
ゾネはエアデの指を真っ直ぐ見つめている。まるで、そこに自身の力を波及させるように、鋭い目つきで睨んでいる。
彼女がどうして自分にここまでしてくれるのか、エアデはずっと疑問だった。でも、彼女がそうした態度でいてくれることは、ありがたいと思っていた。彼女にはそうした優しさがあると、彼は疑いを持たずに信じられるようになっていた。けれど、いや、だからこそ、彼女の気持ちに答えられないのが、苦しくて仕方がなかったのだ。未来のことはまだ分からないが、練習してできるようになるとは思えないことが、やるせなくて苦痛だった。
俗な言い方をすれば、ゾネだって暇ではない。
彼女は戦いの渦中にあって、ほかの人間に頼ることもできないわけではない。
でも、彼女はエアデを選んだ。
たとえそれが自分の都合だとしても、選んだ彼を大事に思ってくれることは、エアデにとって嬉しかったのだ。
だから……。
何もできない自分が、どうしようもなく嫌だった。
「Komm, mein Licht」
言葉の呟き方や指の立て方には、正確な方法はない。それは、誰一人としてまったく同じ個体が存在しない人間の中で、技術を共有するための方策だ。同じ声を持つ者はいないし、指の長さも一人一人異なる。だから、この方法で明かりを灯すためには、その者の内にある感覚という、幅を持った一定の基準に準拠するだけで良い。しかしながら、幅を持っているが故に明確な指標が存在せず、それが初めての者に困難だと感じさせることがある。
感覚……。
ゾネに言われたことを思い出しながら、エアデは何度も同じ言葉を口に出し、指を立てる。
練習を始めてから二時間が経った。
それでも、彼が明かりを灯せられるようになる気配はなかった。
エアデは椅子に腰を下ろす。
ずっと立ちっぱなしだったから、ごく自然な流れで腰が落ち着くと、もう二度と立てそうにない気がした。
彼は項垂れたまま沈黙する。
「やっぱり、無理だって……」下を向いてエアデは言った。
「無理ではありません」ゾネは彼の傍に立ち、柔和な声で告げる。「少しずつ、上達してきています」
彼女が優しさからそう言ってくれているのは分かっていたが、できない者にとっては、その言葉を聞くのは却って辛かった。なんとか感情が露呈しないように抑えようとするが、疲労からか頭が言うことを聞いてくれない。
「エアデさんは、充分頑張っています。努力は必ず報われます」
沈黙。
片手で額を押さえたまま、エアデは目を瞑って首を振る。
彼の仕草を見て、ゾネは口を閉じた。
沈黙。
沈黙。
沈黙、沈黙。
ベランダへと繋がる硝子扉から吹き込む風が、そっとエアデの額を撫でた。集中して熱を帯びていた頭が、ゆっくりと冷やされていく。でも、そうして冷やされるのは表面だけで、だから、感情はそのままに、それを論理的な思考で実現する方向へと、彼の意識は傾いてしまった。
「……できるなんて、無責任なこと言うなよ」
同じ姿勢のままエアデは呟く。
「必ずできるようになります」
「なんで、そんなことが分かるんだよ」
そう言いながら、エアデは勢いよく顔を上げた。
そうしてから、自分の声が荒れていることに気がついた。
でも、遅かった。
ゾネは無表情のまま彼を見つめている。
視線が合う。
それでも、感情の相互性は失われ、彼と彼女の間に開かれた情報の通信網は、今は完全に一方通行になっていた。
「僕にはできない」エアデは言葉を吐き出す。「今まで、できた試しなんてないさ。できないからここにいるんだ。できないから、こうやって、今も教えてもらっているんだ。僕はずっとできないままだよ。今までだって、ずっと変われなかったんだから」
エアデの言葉を聞き、ゾネは彼を見つめる目を鋭くする。
「……今までできなかったから、これからもできないと言うのですか?」
「だって、そうじゃないか」エアデは顔を背けた。「できないやつには分かるさ。希望なんてどこにもないんだ」
「……それが、貴方の答えですか?」
エアデは黙る。溜め息を吐き、何度も首を振った。
言葉は出てこなかった。
沈黙が下りる。
沈黙。
沈黙。
沈黙、沈黙。
「分かりました」暫くしてゾネの声が聞こえた。「私の認識不足でした。ごめんなさい、エアデさん」
エアデは、ゾネの顔を見ることができなかった。
「私は、エアデさんと一緒がよかったんです」彼女は小さな声で話す。「でも、それは私の一方的な願望だったのかもしれません」
エアデはまだ顔を上げない。
ゾネの声が聞こえる。
「……ほかの人を、探しますね」
さようなら、ありがとうという呟きが聞こえたかと思うと、彼女が遠ざかっていく気配があった。数秒遅れて顔を上げると、ゾネはベランダの柵に飛び乗り、翼を開いて飛び立っていくところだった。
あとには、ベランダから吹き込む冷たい風だけが残った。
エアデは溜め息を吐く。
一人で沈黙する。
沈黙。
沈黙。
沈黙、沈黙。
立ち上がり、硝子扉を閉めるためにベランダの方へ移動する。
扉の縁に手をかけたとき、足元に白い羽が落ちているのを見つけた。
数秒見つめ、彼は手を伸ばしてそれを拾う。
人差し指と親指で根本を挟んで、くるくると回した。
羽は、空気抵抗を受けて、少しだけ広がる。
羽は、それ以上に小さいいくつもの羽で、構成されていた。
顔を上に向ける。
真っ暗な空が今日も広がっている。
昼も、夜も、変わらない世界。
同じように変われないのだと、エアデはそのとき悟った。
硝子扉を閉め、そのまま自室へと向かう。まだ風呂に入っていなかったが、そんなことはまったく気にならなかった。
彼女の残り香を感じたくなくて、エアデは床に横になるとそのまま目を閉じた。
疲れた身体には、床の冷たさが心地良かった。
ただ一つ、自身の内に潜む何かが、ずっと、熱を帯びていて、眠れなかった。
*
夜中に目が覚めた。時計を見ると、眠り始めてから二時間しか経っていなかった。身体を起こし、エアデは額を抑える。なんとなく頭が重たい気がした。ノンレム睡眠中に目覚めてしまったからかもしれない。
立ち上がって自室を出る。キッチンに入ってお茶を飲んだ。冷蔵されているわけではないから、お茶はいつも生ぬるい。保存食も取り出して一口食べたが、相変わらず味はしなかった。
リビングに向かい、なんとなくその場に佇んだ。別にすることなどなかった。自室に戻って眠れば良いだけだったが、なんとなく眠り直す気にはなれなかった。
ふと横を向き、ベランダへと視線を向ける。ほんの数時間前までそこに誰かが立っていたことを思い出して、頭が痛くなった。同時に、呼吸がしづらくなるのを感じた。不可解だった。誰かのことを思ってそんな状態になるのは初めてだった。また一つ、今までしたことのないことを経験した。
硝子扉を開けてベランダに出る。
眼下に広がる町並みに変化はなかった。昼間と何も変わらない。窓に明かりは灯っていないし、人の気配もない。皆、眠っているのだろう。それか、自分で明かりを灯して、何かしているのかもしれない。
エアデは、自分の人差し指を見る。
爪の伸びた、不器用そうな指が、暗闇の中にぼんやりと浮かんでいた。見つめていても何の変化もない。指は、指として、ただそこにあるだけだ。生まれたときからあるものだから、付き合いは長いが、だからといって、自分の指に対する愛着など彼にはなかった。
硝子扉を閉め、自室へと戻る。
自室にある勉強机の前に座って、エアデは暫くの間沈黙していた。この机が勉強をするために使われたことは、ほとんどなかった。自室という雰囲気を作るために、形だけここに存在するものだ。その在り方は自分と似ていたから、自分の指よりはエアデはその机に愛着を抱くことができた。
何をしているのだろうと、以前も抱いた問いをまた抱く。
けれど、その意味が前とは随分違うような気がした。
その原因は、たぶん……。
……。
考えなくても分かっていた。
でも、今は分からないことにした。
そうしないと、やっていけないように思えたからだ。
顔を横に向けると、学校に行くときに使っている鞄が、床に放ってあるのが見えた。椅子に座ったまま手を伸ばし、彼はその鞄を持ち上げる。開いて中を見ると、テキストが何冊か入っていた。筆記用具もある。ノートもあった。それらを机の上に並べ、彼はなんとなくそれらを眺めた。
この自室にはスタンドライトが一つだけある。それは、彼の親が、彼に残したただ一つの遺品だった。顔も覚えていないのに、何かを残してくれたというだけで、エアデは彼らのことを知っているような気がした。
そのスタンドライトは、ハンドルが付いていて、それを回すことで内部のモーターが回転し、発電する仕組みになっている。酷く原始的な機構だが、明かりを灯せない者にはこれに頼るしかなかった。だから、このスタンドライトがこのときのためにあるように思えて、そんな幻想を抱いた自分が惨めだった。
どうしようかと迷った。ここでライトを使えば、あの少女に無責任な発言をしたことを、認めなくてはならないことになる。
でも、考えている内に、自然と手はハンドルを握って、それを回していた。
モーターが回転する手応えが、掌を通して伝わってくる。
奇妙な感覚だった。ライトは自分の身体の一部ではないのに、その感覚は確かに手の中に伝わってくるのだ。
一定時間回し終えて、エアデはそれを机の上に置く。
スライド式のスイッチを入れると、ライトは煌々と彼の周囲を照らし出した。
眩しかった。
目が痛かった。
人工的な明かりだが、それでも温もりに満ちているように思えた。
テキストとノートを開き、エアデはペンを握る。勇気を求められる行動だったが、彼の気持ちは落ち着いていた。
自分でも、どうしてそうしようと思ったのか分からなかった。けれど、分からないことは分からないままで良いと、そう思うことができた。分からないことは、きっといつか分かるようになる。それもたぶん幻想だ。分かるようになるかは分からない。分からないことだらけのこの世界で、いつか分かるようになると断言することはできない。
同じようなことを、ついさっき考えたような気がした。
……彼女が言いたかったことが、少しだけ分かったような気もした。
でも、それも、やはり、幻想……。
ノートに文字を書きながら、エアデは黙って首を振る。
(幻想でも、いいじゃないか)
いつか、できるようになる。きっと、できるようになる。必ず、できるようになる。
それが本当かどうか分からなくても、たぶん……。
不思議と眠気は起こらず、気がつくと朝になっていた。スタンドライトの電源を切り、彼は椅子から立ち上がる。
着替えを済ませて洗面所で顔を洗い、リビングに行って食事をすると、エアデは家を出た。外に出ると雨が降っていた。太陽の光がない現代では、雨が降ることは珍しい。水分の蒸発が起こらないが故に、上空に雨雲が蓄えられるのに時間がかかるからだ。
一度玄関の中に戻り、傘を手に取って再び外に出る。廊下を進み、自動ドアを抜けて学校へ向かった。
今日はいつもより早く家を出た。遠回りしなくても、ほかの生徒よりも先に行けば良いと思ったからだ。
坂道を上ったところで道を逸れて、エアデは丘の上にある公園に入った。
この公園に遊具は最低限のものしかない。そして、どれも廃れていて、安全に使えるとは言いがたい状態だった。エアデはそれらの遊具で遊んだことがない。ここまで来てなんとなく空を眺められれば、それで良かった。
土の地面に雨水の通り道が形成されている。それは途中で大きな水溜りへと至り、そこに水を注いでいる。
ただでさえ力のない芝生が、雨に打たれて項垂れていた。それらに力を加えないように気をつけながら斜面を上り、公園の中で一番高い所まで来る。
分かっていたことだが、その地面には巨大な穴が開いていた。
それは、あの少女が落ちてきたときにできたものだ。
彼女と出会ったのは、つい数日前のことだった。けれど、彼女との出会いを裏づける証拠を見て、それが酷く遠い昔のことのように思えた。どうしてそんなふうに思えるのか、エアデには分からなかった。しかし、そう思いたい理由なら少しは分かる気がした。
巨大な穴の底には水が溜まっている。彼はベランダで拾った羽を上着のポケットから取り出すと、その穴にそれを落とした。羽は空気抵抗を受けて落下し、重力を感じさせない挙動で水面に浮かんだ。
エアデは顔を上げる。
真っ暗な空、その向こう側に彼女がいる気がした。
雨音が、彼の気持ちを落ち着かせる。自分が悪いと認めても、良いような気分になる。
でも、今はそうはしなかった。
それは、もう少しあとでも良いと、そう思った。いや、思いたかった。
まずは、今日という一日を過ごさなくてはならない。
それが、彼女と交わした約束だった。
*
授業は相変わらず退屈だったが、エアデが居眠りをすることはなかった。意味があるのか分からなくても、とりあえず板書をノートに写すくらいのことはしておいた。後々意味があると思うようになるかもしれないし、未来のことは分からないと考えたからだ。
休憩時間になって、教室の明かりが消え、周囲の生徒が自身の力で明かりを灯し始めても、彼はその場から立ち去ることはしなかった。雨だから屋上には行けないというのが表向きの理由だったが、本当は違うような気もしないわけではなかった。ただ、彼らがどのように明かりを灯し、そして、それをどのように維持しているのか、遠目から観察しようと思った。観察しても分かることはほとんどなかったが、観察することに意味があるように思えた。だから、その場に留まることができた。
授業で唐突に課されたテストでは、答えられる問題などないと分かっていても、問題には一通り目を通した。そして、やはりどれも分からなかったが、その問題がどういう答えを想定して問われているのか、それを想像するくらいのことはした。それは、今後の学習の方針を立てるためにも、ある程度役に立つのではないかと思った。
放課後になって、雨が上がった。
彼は、教室に残った。
生徒はほかに誰もいなかった。
特に何をするつもりでもなかった。ただ、家に帰るのが億劫だっただけだ。億劫というのは少し違うかもしれないが、とにかく、どこにいても変わらないのだから、ここにいても良いだろうと考えて、そこにいることにした。明かりの消えた教室はどこか陰湿で、けれど自分しかいないという状況が彼を落ち着かせた。もし誰かが来ても、彼らは明かりを灯しているだろうから、すぐに分かる。
自分の席に座ったまま、身体だけを窓の方に向けて、なんとなく、エアデは人差し指を立てた。
そして、ごく自然な流れで言葉を口にした。
「Komm, mein Licht」
呟くように言っただけで、自分でも無意識だったから、何の期待もなかった。だから、結果的に何の変化がなくても、落ち込んだりしなくて良かった。
今まで、考えすぎだったのかもしれないと、不意にそう思った。まずは、形から始めることが必要だったのかもしれない。どうして、あそこまで意識的にやろうとしていたのかと、かつての自分がおかしく思えた。……そして、あの少女が何をさせようとしていたのかも、なんとなく分かるような気がした。
教室から出て、彼は校舎の中を歩き回った。彼はずっと落ち着いていたから、それは気持ちを落ち着かせるための散歩ではなかった。
階段を下りて一階に至り、硝子張りの休憩スペースを見つけた。今まで来たことのない場所だった。外に出られるように、硝子窓の一部が扉になっていて、どういうわけか、鍵はかかっていなかった。その先には中庭が広がっている。エアデは扉を開いてその先へと向かった。
周囲は校舎に囲まれていて、木が至る所に一本ずつ立てられており、その周囲を円形のベンチが囲んでいた。まるで箱庭のように、夜空が切り取られている。夜空……。昼間と何も変わらない、夜空。ただ、少しだけ空気は澄んでいる。よく分からない、機械の駆動音が聞こえた。生き物の気配はしない。
「こんな所が、あったんだな……」
学校に通っていた期間は長くないから、自分の知らない場所があってもおかしくはなかった。でも、彼が驚いたのはそこではない。それは学校の外でも同じだと思ったのだ。
……あの少女は、今、どこにいて、何をしているだろう?
一人で、戦っているのだろうか?
それとも、別れ際に言っていたように、自分の代わりになる誰かを、探しているのだろうか?
だとしたら、それはどんな人だろう?
彼女は、どんな力を求めているのだろう?
知らないことは沢山ある。この街で生まれて、ほかの場所に行ったことはない。あの街も、ここと同じように、小さな箱庭に変わりはない。その箱庭の中で、起きて、ご飯を食べて、丘の上の公園に向かって、風呂に入って、眠って……。
そして、彼女と出会った。
ゾネと出会ったことで、何かが変わると思った。
自分がそう思ったと、今、そう思った。
何かできるかもしれない。これから、何かできるようになるかもしれない。
この星にとって、プラスになることが、できるかもしれない。
できる、とはいえない。
できる、かもしれないのだ。
そのためには、やるしかない。
ゾネは、今、それをやっている。
その彼女は、今、ここにはいない。
でも、どこかにいる。
だとしたら、どうしたら良い?
そんなことは、初めから決まっている。
「……探し出す以外に、ないじゃないか」
周囲はしんと静まり返っていた。それは、この星の未来のように思えて、不気味だった。
エアデは立ち上がる。校舎の中には戻らずに、外壁に巡らされた階段を上って、昇降口まで来た。靴を履き替え、彼は走り出す。
帰り道は下り坂だから、行きよりも遥かに楽だった。でも、足が軽く感じられるのは、それだけではないような気がした。
眼下に街が見える。
自分が今まで過ごしてきた街だ。
そして、彼女と出会った街でもある。
この街に住んでいたから、彼女に出会えたのかもしれない。
自分が住むマンションまで戻ってきて、エアデはすぐに着替えを済ませた。制服から動きやすい服装に変え、学校に行くときに使っているのとは別のリュックを取り出して、そこに荷物を入れる。特に持っていくものはなかったが、飲み物と、保存食と、学校で使っているテキストを、その中に適当に放り込んだ。
鍵をかけ、家を出る。
自動ドアを抜けると、左右に大通りが続いていた。
どちらに進むべきだろう?
「いや……。まずは、あの、丘の上だ」
彼は走り出す。
坂道が、上りでも、彼の足はよく動いた。
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