第3章 Montag

 目が覚めると、朝だった。でも、真っ暗だ。それはいつも通りで、いつも通りだな、と思ったが、いつも通りではないところがあった。


「起きましたか?」


 傍で声が聞こえて、エアデはそちらを見る。見ると、ワンピースに身を包んだ少女が、彼のことを見つめていた。彼女は今は無表情だ。その顔を思い出すのに数秒を要し、頭に浮かんだ情報は明らかに飽和していたが、エアデはなんとか平静を保つことができた。


「おはようございます」そう言って、ゾネは彼に微笑みかける。「よく、眠れましたか?」


 エアデは椅子から立ち上がる。よく眠れたはずなどなかった。昨日、夜ご飯を食べたあと、そのまま眠ってしまったようで、テーブルの上には食器が置いたままになっていた。そこに突っ伏して、眠ってしまったのだ。ゾネは彼の自室のベッドで眠っていた。


「私だけ、きちんと眠らせてもらってしまって、ごめんなさい」


 ゾネに早朝から謝られ、エアデは反応するのが大変だった。


「うん……、……そうだね、いや……」


 昨日風呂に入っていなかったから、彼はすぐに風呂場に向かった。二十分くらい入浴して、風呂から上がると、もう出かける時間だった。


 彼は、今日から学校に行くことになる。それがゾネとの約束だった。別に、学校に行くことに意味があるのではないが、彼女の手助けをするには必要なことだった。


 ゾネは一日中家にいるらしかった。一応、家の鍵はエアデ自身が持っておくことにした。彼が玄関の外に出ると、ゾネが見送ってくれた。


「いってらっしゃい」


 彼女に手を振られ、エアデもなんとなく振り返そうとする。どのくらいの角度で掌を左右に動かしたら良いのか分からなくて、迷っている内にドアは閉まってしまった。


 制服に身を包むのは久し振りだった。着慣れていなくて、歩くのが大変だった。鞄も背負わなくてはならないし、慣れていないことばかりだ。


 ずっと家にいる生活をしてきたから、今日一日を乗り越えられるか心配だった。でも、きっと、自分がへまをしてもそれに触れる者はいないから、そう思うと多少なりとも気が軽くなって、まあ、良いか、という気持ちになれた。


 朝には、街を歩く人々の姿が見える。


 その一員に自分が加わることに、エアデは異様な感じがした。


 朝は、この街が生きていることを、唯一実感できる時間だ。でも、その範囲は限られている。ほんの一時間ほどで、街の表面からは人の気配がなくなる。皆建物の中に篭もるからだ。外も、建物の中も、大した違いはないが、落ち着いて作業をすることができる場所は、外ではなく室内だという認識は、現代でも変わっていない。


 歩道を歩く学生の波に混ざりたくなくて、エアデはあえて道を外れた。わざと、遠回りして学校に行くことにした。


 本来なら、丘の上へと向かう坂道を進むのが学校への近道だが、彼は、昨日通った橋の方から向かうことにした。三倍くらいの距離になるから、その分歩くのが大変だが、歩く労力と、周囲の人々の視線を凌ぐ労力なら、前者の方が少なくて済むだろうと見積もった。結果だった。馬鹿な頭で考えたことだから、それが正しい保証はない。


 歩きながら、エアデは溜め息を吐く。


 空気は、どこか濁っていて、不味かった。


 橋の上から、昨日も見た町並みを眺める。別に何も変わるところはなかったが、この時間にここに来ることは稀だから、新鮮な感じがしないわけでもなかった。漂う空気が、微妙に違うような気がする。いつも行っている丘の上の公園とは、微妙に明暗の度合いが異なっている。それは、ゾネがまだ自らの活力を保っている証拠でもあった。


 橋を経由して、真っ直ぐ続く大通りをそのまま進む。彼の周囲には今は誰もいなかった。自動車も走っていない。真っ暗な道を、こつこつと足音を響かせながら歩く。その音を聞くのは自分だけだと知っていても、誰かに聞かれているような気がして、自然と慎重な足取りになってしまった。


「……何で、こんなことしているんだ」


 また、独り言を呟く。答えてくれる人はいない。


 と思ったが、突然上の方から声が聞こえて、エアデは驚いた。


「エアデさん、道を間違えていますよ」


 後ろを振り返ると、彼の頭の一メートルほど上を、ゾネが浮かんでいた。


 エアデは少々顔を顰める。


「……何で、ここにいるんだ」


 エアデの問いを受けて、ゾネは笑って答えた。


「心配だから、見に来ました」


「……家は?」


「すぐに戻るから、大丈夫です」


 エアデは周囲を見渡す。辺りの状況は変わらず、彼らを見ている者は誰もいなかった。


「誰かに見られたら、どうするんだ」


「誰も、いませんよ」


 エアデは溜め息を吐く。


「エアデさん」ふわふわと宙を泳ぎながら、ゾネは言った。「貴方の目的は、明かりを灯す術を身につけることです。そのためには、周囲との関わりを持つ必要があります。積極的にはたらきかける必要はありませんが、関わりの度合いがゼロではいけません。できる限り、周囲に自分以外の人間が存在するように、工夫して下さい」


「……何で、そんな必要があるんだ?」


「明かりを灯すには、ほかの人がどのように生命を使っているのか、知る必要があるからです」ゾネは言った。「明かりは、自身の生命を削って灯すものです。ですから、その度合いが大きすぎても、小さすぎてもよくありません。ほかの人の生き方を参考にして、適切な度合いを身につける必要があります」


 エアデは顔を背ける。


「……いきなりなんて、無理だよ」


「無理をしなくても構いません。できるだけというスタンスで、お願いします」


 それだけ言うと、ゾネは彼に手を振り、高度を上げて家がある方へと戻っていった。


 彼女の姿が完全に消えるのを確認してから、エアデは再び歩き出す。


 朝から気持ちが掻き回されすぎで、今日一日を安泰に過ごせる自信がなくなった。そんなものは初めからなかったが、マイナスだったものに、マイナスが加算されたような気分になった。


 遠回りをしたものの、学校にはすぐに着いた。当然、ほかの生徒も多くいる。でも、雰囲気は閑散としていた。それは、この街のどこにいても感じることだ。むしろ、学校のように人が集まる場所の方が珍しい。


 彼が通う学校は昇降口が三階にある。地下に一階と二階がある構造だが、それはこの学校の立地条件と関係している。実際には、一階は地上にあり、その上に二階がある。要するに、坂道を上ってきた分下方向に空間が余るから、そこを一階と二階にして、丘の上に三階を当てたということだ。上ってきた坂は、建物の一階と二階分の高度ということになるが、この学校の場合、各フロアの天井は一般的な建物と比べるとかなり高かった。これは、照明を効率良く使うための工夫らしい。天井を高くすることで、照明を使って照らせる範囲を広くしているということだ。


 昇降口で靴を履き替え、階段を上がってエアデはさらに上階へと向かう。学校は全部で四階建てだった。


 生徒はいるが、喧騒は感じられなかった。誰も口を開いていない。まるで世紀末のように、皆暗い顔をしているように見える。でも、きっと本当はそんなことはない。自分にだけそう見えているのかもしれないと、エアデはそう思うことにした。


 この星が太陽の光に照らされていた時代は、学校とはどんな場所だったのだろうと、彼はふと思う。それは単なる思いつきで、だから答えなど求めていなかった。なんとなく、そんな世界を見てみたいような気はするが、知ったところでどうなるわけでもないだろうと、彼は思ってしまう。


 けれど、その考えは通用しなくなる。


 これから変わる、いや、変えなくてはならない。


 ゾネと一緒にいれば、彼女と一緒に戦えば、何か変わるかもしれない。


 この星を守り、そして、青い空を見ることが、できるかも、しれない。


 考え事をしながら歩いていたから、前方から来た女子生徒とぶつかった。何も言わずに、彼のことを軽く睨むと、女子生徒は足早に立ち去っていった。


 ずっと来ていなかったのに、自分の教室がどこにあるのか、エアデは覚えていた。というよりも、歩いている内に自然と思い出した。人間の記憶とはそういうものだが、連続した営みを経てきても、この星のかつての姿を知る者はいない。


 教室の扉を開く。


 先に来ていた生徒の一部が、彼の方を見た。


 そして、彼らの内のほとんどが、数秒間、固まった。


 誰かが、何か、呟くかと思った。


 けれど、それだけだった。


 扉を開けるまで、エアデは緊張していた。


 しかし、その緊張に意味がなかったことを彼は知った。


 教室の中を進み、自分のブースに着く。机と椅子は固定式だから、いつも同じ席だ。エアデは、自分の隣に誰がいるのか、覚えていなかった。昔から、他人に興味がなかったからだ。それに反して、そこに座ると教室がどんなふうに見えるのか、それだけは覚えていた。他人の目を気にしなくて済むように、いつも景色に縋っていたからだろう。


 教室は、彼がいてもいなくても、いつもと同じだった。


 彼は、それを知った。


 溜め息は出てこなかった。


 別に、何の感慨も抱かなかった。


 でも、脳裏に、一人の少女の姿が浮かんだ。


 背中から翼を生やした、空を自在に駆る少女だ。


 ……?


 自分は、どうしてそんなことを考えているのだろう?


 教室の扉が再び開いて、教師が姿を現す。いつもは空の席に見窄らしい男子生徒が座っていても、彼は眼鏡の縁を軽く持ち上げてそちらを一瞥しただけで、特に何のコメントも口にしなかった。


(これが、現実か)


 心の中で、エアデはテンプレートのような言葉を呟く。現実が何か、分かっていない者の言葉だった。


 午前中は三時間授業があったが、どれも退屈なものだった。この星の生活に関わるものから、エネルギー効率に関するもの、現在存在する企業の仕組みを学ぶものなど、色々な科目がある。そのどれもが、彼らの将来に関係しているし、それらを学ばなければ、彼らは生きていくことができない。


 星全体のエネルギーは、過去に比べると圧倒的に少なくなっている。減少が始まった頃には、まず食料的な問題が起こった。それが原因で各地で紛争が発生し、暫くの間惑星規模での内乱が続いたが、根本的な食糧不足と、その結果起こった紛争の影響を受けて、間もなく人類はかつての三分の一まで減少し、それ以降その数字が推移することはなくなった。その数が、現在のこの星の状況に最も見合ったものだったからだ。


 エネルギーを生み出す方法は数多くあるが、その内最も効率的なものは、やはり原子力を使うものだった。その認識は過去からずっと変わっていないし、それ以上の技術を生み出すことは人間にはまだできていない。かつては、太陽光からエネルギーを取り出すための研究が盛んに行われていたが、肝心な太陽そのものが消失してしまっては、その研究を続ける意味はなくなった。技術で世界を変えているように思えても、その技術は環境に従属している。どれほど時間が経っても、どれほど技術が進歩しても、人間には自然に逆らうことはできない。自然に対抗できるのは、同じ自然でしかないからだ。そうやって根源的なルールに従った末に、人間は生まれたのだ。人間という存在も、やはり自然の一部にすぎない。


 そんなことをずっと勉強して、エアデは反吐が出そうになった。やはり、興味がないものは、面白くなかった。面白く感じるように努力することなどできなかった。


 午前中の授業が終わり、昼休みになると、皆、昼食の準備を始めた。


 教室内でも幾人かのグループが作られて、彼らは思い思いにエネルギーの補給をし始める。


 その際に、教室内の明かりが消えた。


 そして、それを予期していたかのように、エアデ以外のすべての生徒が、人差し指を立てて同じ言葉を口にした。



 ”Komm, mein Licht.”



 学校と企業は、星で生み出されるエネルギーの内の数パーセントを、明かりを灯すことに使って良いとされた数少ない場所だが、それは必要最小限に収めなくてはならないことになっている。だから、授業以外の時間では、生徒も、そして教員も、自らの力で明かりを灯すことが求められた。全員、そのための技術はすでに身につけている。どれほど成績が悪い生徒でも、それくらいのことはできて当然だった。自分で着替えをするのと同じだ。それができなくては生活が成り立たない。


 そして、この教室にいる、何百日かぶりに姿を現した一人の男子生徒は、驚くべきことにそれができなかった。


 エアデは立ち上がり、教室から出る。


 とても、その場にいる気にはなれなかった。


 食事を用意してこなかったから、購買で適当にパンを一つ買った。それをどこで食べようかと考えて、人気のない屋上に向かうことにした。


 階段を上って上階へと向かう。


 金属製の、しかし鍵のかかっていない扉を開いて、エアデは屋上に出た。


 彼はマンションに住んでいるから、高い所には慣れている。だから、遠くの方まで景色が見えても何の感動も覚えないし、清々しいとも思わない。柵の傍に寄ってその向こうを見下ろしてみたが、三階にある昇降口のさらに下にあるフロアの辺りは、照度が足りなくてよく見えなかった。広がる街は、それなりに遠くまで見渡すことができる。少し先に彼がよく行く公園が、そしてそのさらに先に彼の住むマンションが見えた。


 柵に背を預けて座り込み、ラップに包まれたパンを一口齧ると、背後から声が聞こえて、エアデは振り返った。


「学校は、どうですか?」


 翼を休めるように屋上の柵に座ったゾネが、彼を見下ろしてにっこり笑っていた。


「何で、いるんだよ」エアデは反応する。


「心配だったので、見に来ました」


「だから、誰かに見られたら……」


「迷彩効果を付与しているので、見られる心配はありません」ゾネはなんともないような口調で話す。「光の操作は、私の得意分野です」


 ゾネの言葉を聞いて、エアデは何も言えなくなる。そうとだけ呟いて、彼は正面に向き直った。


 生暖かい風が吹く。髪が少しだけ宙に浮いて、パンを包むラップがかさかさと音を立てた。


 彼は少しだけ首を後ろに向け、ゾネの姿を確認する。クリーム色の髪が艶やかに揺れて、またもとの位置に戻った。


 ゾネは、閉じかけていた目を開くと、そのままじっとエアデを見つめ返す。


 なんとなく気まずくて、エアデは目を逸らした。


「……怪我、大丈夫なのか?」ほかに何も思いつかなかったから、エアデは当たり障りのない質問をした。


「……まだ、長時間飛行することはできません」ゾネは答える。「治るまで、もう暫くかかりそうです」


「一週間で、間に合うのか?」


「それは、エアデさん次第ではありませんか?」


 ゾネに言われ、エアデは苦虫を丸呑みしたような顔をする。


「……人任せすぎるだろ」


「頼りにしているんですよ」ゾネは包容力のある声で言った。「貴方を当てにしているんです」


 パンは奇妙な味がした。調味料には、たぶん空気が使われている。噛みごたえもなく、飲み物で流し込むのが最適なように思えたが、エアデは飲み物を持ってきていなかった。


「……こんなことで、本当に、明かりを灯せられるようになるのか?」


 彼女に背を向けたまま、エアデはゾネに尋ねる。


「学校に通っているだけでは、駄目です」ゾネは彼を見て答えた。「そのための練習は必要です。それは、私が教えます」


「先生だからな」


 ゾネはにっこりと笑う。


「難しく考える必要はありません。大切なのは感覚です。感覚のもとになるのは思考ですが、思考で感覚を形成したあとは、感覚だけで充分本領を発揮できるようになります」


 ゾネの説明を聞いて、エアデは少しだけ心中が暗くなるのを感じた。彼女の言葉はできる者の言葉だと思ったからだ。


「……僕には、無理かもしれない」


 エアデがそう言うと、ゾネは無表情で首を傾げた。


「どうしてですか?」


「……分からないけど、なんとなく、そんな気がする」


「最初の内は、誰でもそう感じるものです」


 エアデは溜め息を吐く。


「そんなことは、分かっているよ。それでもできそうにないから、悩んでいるんだ」


 ゾネは二度瞬きをすると、顔を正面に戻して眼下の町並みを眺め出した。


「それを払拭するのも感覚です」少しだけ真剣な声になって、ゾネは言った。「生き物にはその力があります」


 エアデは、なんとなく、抵抗する気になれなかった。


「……やっぱり、ほかを当たった方がいいんじゃないのか?」


 エアデの発言を聞き、ゾネは問う。


「なぜですか?」


「なぜって……」


 また振り返り、彼女はエアデを見る。


「私に協力するのは、嫌ですか?」


「……嫌じゃ、ないけど……」


 彼がそう答えると、ゾネは笑った。


「ごめんなさい、冗談です」彼女は悪戯っぽい声で話す。「……本当に、頼りにしているんです」


「だから、どうして?」


「そんなに理由が必要ですか?」


 エアデは黙り込む。


「エアデさんは、私のことを助けてくれました」ゾネは言った。「貴方は、優しい人です」


「……その優しさに、便乗しようってことか?」


「それもあります」ゾネは即答する。


 彼女の返答を聞いて、エアデは少しだけ驚く。


「できる限り、ほかの人を巻き込みたくないのです」柵に腰かけたまま、鼻歌を歌うようにゾネは言った。「私のことを知っているのは、エアデさん一人だけで充分です」


「それが理由か?」


「はい、表向きは」


「表向きって、なんだよ……」


 ゾネは彼を見て、またにっこりと笑った。


「別に、理由なんてなんでもいいじゃないですか」彼女は言った。「私といるのが、不満ですか?」


「……不満とか、そういうのじゃないよ。……ただ、自分にできるのか、自分で良いのか、不安なんだ」


「ですから、それなら大丈夫です。私が保証します」


 ゾネに見つめられて、エアデはまた何も言えなくなった。仕方がないから、溜め息を吐く素振りだけ見せておいた。


 休み時間は四十五分ある。まだ、あと三十分もあった。自由時間を、三十分もと感じるのは、初めてだった。


 パンを食べ終わって、座ったままエアデは空を眺める。頭上に広がる真っ暗な空間を見いていると、自分がちっぽけな存在のように思えてくる。


 彼は、そっと後ろを振り返る。


 柵の上に座ったゾネは、少し脚をぶらぶらさせて、遠くの方を眺めていた。ワンピースでは生地が薄すぎるようで、翼は今は襟から外に出されている。完全にそれを収納することはできないみたいで、折り畳んでも翼は一定の厚みを持っていた。今も、一目見ただけで異様さが感じられるくらいに、彼女の翼は目立っている。


 彼女は、その大きな瞳で、街を見ている。ときどき瞬きをし、感情を窺わせない、けれどどこか温かみがある目つきで、そこに存在する人々を一人一人を見るように、じっと同じ方向を眺めている。


 また、風が吹く。


 仔細な髪が持ち上げられ、彼女の目もとが一瞬隠れる。はらはらと解けるように髪は一本ずつもとの位置に戻り、また綺麗な瞳を顕にする。


 エアデの視線に気づいて、ゾネはまた彼を見た。


 それから、目もとを器用に曲げて、また静かに微笑む。


 今度は、エアデは、彼女から目を逸らそうとは思わなかった。


 無表情のまま、ゾネの顔をじっと見つめた。


「……どうかしましたか?」エアデの反応を見て、ゾネは無表情になって彼に尋ねた。


「……いや、何も」


 エアデは、そのままゾネの顔を見つめ続ける。


 彼の意思を察したように、彼女は彼に見つめ続けられた。


「ゾネ」エアデは彼女の名前を口にした。「君は、この星をどうしたいんだ?」


 暫くの間無表情だったが、やがてゾネは笑顔になって答えた。


「私は、この星に、ずっとあってほしいと思います」


「それは、どうしてだ?」


「私の、創作物だからでしょうか」


 少しだけ考えて、エアデは再度尋ねる。


「自分でも、どうしてなのか、分からないのか?」


 彼に問われ、ゾネは申し訳なさそうな顔をした。


「ええ、そうなんです」


「でも、好きなんだな」


 エアデの問いを受けて、ゾネは静かに頷いた。


「もちろん、好きです」


 昼休みが終わりへと近づき、ゾネに別れを告げてエアデは教室に戻った。


 午後の授業も、午前に引き続き退屈だった。何も得ることがないわけではないが、なぜこんなことを学ぶのだろうと思うくらいには、得ることで生じる喜びより退屈さの方が勝っていた。


 だからといって、家に引き篭りっぱなしの生活の方が良いわけではなかった。比べることはできないが、なんとなくこちらの方が良いようには思える。ゾネがそう言っていたからかもしれない。


 エアデが学校に通うのをやめた理由は、明確ではなかった。こんなことを学んで、それで将来に繋がるなんてくだらない、と思えたならまだ良いが、そういうわけでもなかった。なんとなく、やめようと思ったからやめただけだ。だから、また通うようになるのに明確な理由は必要ないと考えることもできた。ためになるとか、楽しいとか、退屈だとか、そういう理由はいらない。あってもなくても変わらない。


 ただ、学校に通うことでゾネのためになると思えば、少しだけましな気がした。そうは思いたくなかったが、自分が学校に通うことに、そして自分が存在することに、多少なりとも意味があるように思えた。それは幻想かもしれないが、暫くはその幻想に縋っていても良いような気がした。その幻想は、いずれ消えてしまうだろうが、縋っている今だけは彼に甘い夢を見させた。


 窓の外を見ても、真っ暗な空が広がっているだけだ。


 ほかには何もない。


 しかし、それは家にいても、そして、どこにいても同じこと。


 だから、ここにいても良い。


 不思議と、そんなふうに思えた。


 授業がすべて終わると、エアデはすぐに帰宅した。誰よりも早く校舎をあとにして、誰にも会わないように家に帰った。


 家に帰ると、ゾネがいた。当たり前のことだが、それが別の意味で当たり前でないことに、多少困惑した。


「おかえりなさい」


 ゾネは、ベランダに座って、また空を見ていた。


 リビングでお茶を飲むと、エアデもなんとなく彼女の隣に立った。彼を見上げて、ゾネは少し笑ったが、エアデは笑い返すことができなかった。まだ、勇気が足りなかったからだ。


「少し休憩したら、練習をしましょう」


 ゾネに言われて、エアデはお茶を飲むのが難しくなった。


「……それって、明かりを灯す練習のことか?」


「もちろん、そうです」


 時刻はもうすぐ午後五時を迎える。鐘が鳴ることもなければ、地平線に変化が訪れることもない。夜になろうと、日付けが変わろうと、景色は変わらない。


「少しって、どのくらい休憩していいんだ?」


「どのくらいしたら、一生懸命練習できますか?」


「一生懸命って……。……どんなに休憩しても、一生懸命になんてなれないよ」


「では、三時間にしましょう」


「……三時間?」エアデはゾネを見る。「そんなに休んでいいのか?」


「三時間では、足りませんか?」


「え?」


「一生懸命に、なれませんか?」


 エアデは顔を逸らし、眼下に広がる町並みを見る。


「……なれるように、努力してみようと思う」


 彼の返事を聞いて、ゾネは笑った。


 ゾネをベランダに残し、エアデは室内に戻る。


 リビングの椅子に座る前に、彼は一度だけ言葉を呟いてみた。


「Komm, mein Licht」


 しかし、何も起こらない。


 何も起こる気がしなかった。


 でも、少し、やってみようという気になった。


 彼にしては珍しいことだ。


 たぶん、その気は彼一人では起こらなかった。


 後ろを振り返る。


 太陽の精霊を名乗る少女の翼が、羽を休める蝶のように微かに動いていた。

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