three

 私はまた手を下ろす。今度は静かに下ろした。ここまで言われて、それでもまだその肌に触れようとするほど、私は鈍感でもなければ頭も悪くなかった。


 なにしろ、私はさっきまで……さっきまで、何をしてたんだろう。記憶を思い起こす。サキに付き合わされて、学校を出てカラオケ。解散して交差点――そう、愛が死んだあの忌まわしい交差点で、信号を待っている時、それが最後だった。何か大事なことを忘れている気がする。あの交差点で、信号を待ってて、そして――ダメだ。何も分からない。気のせいかもしれないけど、頭も痛んでいた。


 見たこともないほどの巨木。それが私たちの上空に覆い被さっていて、空は望めない。光はところどころ漏れているけど、ここが何処なのかは見上げたって分かりはしなかった。


 そして目の前にいる、私の愛した少女。首元にほくろがあるのも、照るほどに白い柔肌も、黒に青みがかった短い髪の毛も、何も変わりない。私の目が、幼馴染を見間違うわけがなかった。でも、いるはずないんだから。こんな場所、あるはずないんだから。


 私も、私も死んだんじゃないの。


 あの交差点で。車に轢かれて。


 それで、ここは死後の世界。夢とするには、意識はハッキリしすぎている。地面に接する足は、小石に押されて痛んでいる。死後の世界だから愛もいる、そう思おうとしたけど、彼女は私のことを覚えていない。おどおどとした様子も、彼女らしくはなかった。見た目は弱っちいのに、性格は男勝りなのが愛だった。


「でも、私の名前は知ってるんですもんね……」


 神妙に呻く目の前の少女の言葉を聞いて、私は思わず「は?」と声に出していた。その鋭さに身体をびくりと跳ねさせた少女は、遠慮がちに言葉を続ける。


「えっ、あの、ごめんなさい。人違いなんじゃなくて、どこかで知り合ってましたか」

「愛、なの?」

「はい、えっと、エイミー・アイ・ケイシーと、言います」


 息を一息に吐き出して、両手を上げてまた寝転がった。期待するんじゃなかった。


 そんな外国人みたいな名前じゃない。やっぱり他人だったんだ。どうせ死んで、それで夢みたいに幼馴染に会わせてくれるなら、本当に会わせてくれたならよかったのに。クリソツの他人なんか目の前に出してきて、この世っていうのは一体私をどうしたいんだ。どんな気持ちにさせたいんだ。悲劇的にしたいのか、ほら、幼馴染だぞ、まあ、お前の愛した女じゃないけどね、どう? みたいに。


「あの、大丈夫ですか?」


 アイ、と名乗った少女が、心配そうに覗き込んでくる。似ているどころか、名前だって被ってる。


 私はしばらくぼーっとしてから、やっと起き上がると、アイに……アイと呼ぶのはやめよう。エイミーに、向き直った。


「ごめん、ちょっと頭が痛くて、混乱してた。ここが何処かも分かんない」

「ああ、やっぱり何かあったのですね。どこの国からいらしたのですか」


 喋り方がごく丁寧なのが、愛とは違うところだった。あの子は流行の単語はすぐに使いたがったし、好きな芸能人とかの話し方にすぐ影響されて、使えもしない関西弁を使ったりもしていた。なんか自我がふわふわしてるな、というのが彼女の特徴だった気がする。


 国、という仰々しい単語が出たことには驚いたけど、聞かれたことにそのまま答えていればいい。


「日本。日本から来た」

「にほん」

「知ってる?」

「いえ、すみません。これでも、地図とかを見るのは好きなんですけど」


 思わず唇を噛んだ。笑って誤魔化すその顔とか、髪を忙しなく不安げにいじるその指の形とかが、愛をそのまま写したみたいだった。ああ、この人は、愛ではないけど、愛とおなじ身体なのは確かなんだ。それは、もう疑いようはなかった。


 運命、と呼ばれるものの病的さ。

 運命は病気だ。


 私の目の前に、もう既に無くなって、それでもう、やっとなんとかって時に、こうしてまた目の前に幼馴染を持ってくる、そういう病的な悪趣味。愛を殺したのも酷かったけど、これはそれ以上の狼藉だった。じゃあ、殺すなよ。また会えるなら。


 天国で会えるよ、みたいな励まし方をしてくる大人や知り合いも少なくなかった。でもその反吐の出るセリフと言ったらない。天国で会えるなら、別に、今別れる必要もなかったでしょ。どうせ会えるなら、今でもいいじゃん。ずっと一緒にいさせてくれればいいじゃん、どうせ死ぬんだから。


 死んだ後に会えますと言われて、それでなんで納得できると思えるのかも分からないし、そういう宗教が普通に受け入れられているのも、私にはよく分からない。


 どうせ立場が違えば、それでうんうんと頷くことなんかない癖に。無責任な言葉で助けた気になって、実際は伸ばした手で人を水に沈めてる。


 ああ、そういうのをしてるってこと? 世界が、今?


 私を交差点で殺して、それで愛に会わせてるの? だったらなに、ここって天国? ううん、彼らの観点から見たら私が行く先は地獄のはずだ。でも愛は天国に行く。だから死後なら会えないはずだった。その天国と地獄とかいうのも、よく分かんないけど。


 愛を殺す、そういう悪趣味。そして愛に会わせる、それ以上の悪意。そしてその幼馴染は、実際のところは幼馴染ではなく、ただ他人が愛とまったく同じ身体をしているだけでした。という、いっそ殺してくれ、と思えるほどの精神的な暴力。


 どうせ愛も死んで私も死んだ。それを、身体に痛みを持ったまま生き返された。生き地獄とはまさにこのことだった。


 身体の節々にぎしぎしとした重力を感じながら、でも私はちゃんと私のことを思い出していた。冷静さ、言い換えれば、冷徹さには自負があった。愛が目の前で死んだ時も、その段々と広がる血の海を見て、ちゃんと「愛が死んだ」と把握してたのが斎藤菜月という女だった。


「ここって、なんてとこ?」

「ここは竜巣と呼ばれている街です。ご存知ありませんか」

「うん、初めて来た」


 聞いたことのない地名。地理が得意だったわけではないけど、それでもこんな特徴的な土地なら知らないはずもない。


「日本というところから、どうして竜巣に来たのかも、覚えていらっしゃらないのですか」

「うん。私、どうしよ」


 しょげた振りをする。実際途方には暮れていたけど、だからといって私はそんなあからさまに困る人間ではない。でもなんかの縁なら、このエイミーに頼るしかなかった。彼女は沈み込む私に「あーどうしよう……どうしたらいいんですかね……?」と一緒になって頭を悩ませていた。


「行くとこないし、とりあえず歩くかな」


 ため息混じりに立ち上がって、スカートについた砂埃を払う。ここにきて初めて気がついたけど、私、制服を着てるんだ。黒い制服に乾いた土の汚れがものすごく目立っていた。


「どうせなら、一旦うちに来ませんか」

「エイミーの? 迷惑じゃないの?」

「ああいえ、滅相もありません。私、住んでるところが少し特殊なんですよ」


 滅相もないなんて、対面で出てくることもあまりない言葉だった。


「特殊?」

「宿なんです。民宿に、間借りしてるんです」

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