KAC20219:『ソロ○○』

そ:そめかえよ

ろ:ろうばい一輪

す:すがれども

か:かぜ強きなか

り:凜 気色けしき立つ




   『ソロすがり


 ガラス戸は今朝も結露していた。

 開けた瞬間、仙美ひとみの腰から震えが駆け上がる。フリース二枚重ねを貫いて刺す寒気に思わず竦んだ全身は、片腕に抱いた2.7リットルのペットボトルに圧をかけた。口一杯に容れた水が逃げ場を求めかけて反撃に転じ、弾力の落ち気味な肉を押し返す。

 ベランダに置きっ放しの、まだ新しい下駄の鼻緒に足指を滑らすと、布と畳表で感触の異なる冷たさが体温の低い体先端から更に熱を奪った。


――面倒臭……。


 コンクリートむき出しのスペースに置かれたプランターを仙美は目脂めやにをこすりながら見下ろす。若干、緑青の色味がかる日本水仙の細長い葉が寒さの中、上へ上へと健やかに伸び、花殻のつく茎を囲っていた。


――運命的って思うのは最初だけなんだよね。


 仙美は梳かす前の髪をかき上げる。

 それは昨年、独り暮らしの家時間を持て余し気味に買った『四季彩シキサイRAKURAKU』なる園芸セットの冬の花だった。

 当初の目的は『買い物要らず! 今植えるベランダ菜園』という記事で勧められていたミニトマトとスイートバジルだったのだが、検索して辿り着いたネットショップはいずれも苗は安いが、送料が高い。結果、仙美は2つの苗に、品種はお任せの秋・冬・春咲き球根各一個、プランター、培養土で3980円という商品に手を出した。


 水仙が入っていたのは、今思えば、雨水うすい仙美という名前を見ての店側の判断だろう。しかし、届いた時は運命的だと彼女は思ったのだ。

 マッチングから付き合いに至って早々、緊急事態宣言で会えなくなったおさむに生活の潤いをアピールしたい下心が目を曇らせたに違いない。

 その実、水を遣ろうとして初めて水を運ぶ容器が要ることに気付いた。毎日カプレーゼを食べる程、イタリアンな日常でもなかった。挙句、サフランを植えるより前に、


「自然派って苦手なんだ。御免」


 と、彼から最後のメッセージが来た。

 残ったのは、日本で四季の植物を育てるなら寒い時期も外へ出なければならない、という現実だけだ。


 仙美はプランターにペットボトルを傾けながら大口を開けて欠伸する。決して早朝とは言えないが、仕事のない今日、この作業さえなければ、後数時間は寝ていただろう。

 水仙の白い花びらが開き、清々しい香りの立った時は流石に気分も上がったが、今となっては手間ばかりかかって面白みは少ない。


――本当、私そっくり。


 花殻ばかりが幾つもついた茎を仙美は睨んだ。

 この冬、花が咲いたのはプロが売る為に育てた球根だからだ。花殻も摘まなかったこの株は来年さえ蕾をつけないかもしれない。そうでなくとも、この環境と仙美の世話ではいつか駄目になるのが目に見える。


――今、捨てたって同じだよ。


 仙美は両手を指先から濡れる土に沈めた。


 すかさずポケットでスマホが鳴り出す。余り聞かない通話の着信音だ。

 咄嗟に手を抜き、仙美はペットボトルの水をふりかけ、泥を落とした。スマホを取り出せば案の定、「文木ふみき好子よしこさん」と表示されている。急ぎ画面を上にスワイプすると、反射的に裏声を出そうとした。


「ぁい、もじもすぃ……」


 しかし、乾燥した喉は狙いから外れた音を響かせる。

 手は反射的に掴んでいたペットボトルを口に運んだ。


「おはよーうございます。少し早かったかしら、御免なさいね」


 対照的に明朗な声がそこに響いた。

 仙美の母より年上、祖母より下という好子さんは数年前、和菓子作り体験に行った時、手際の悪い仙美の世話を焼いてくれた人だ。彼女の私物をあれこれ汚した為、お詫びか、お礼か判らない何かをしなければ、と交換した連絡先だったが、好子さんは負担にならない程度に折々、電話やメールをくれる。


「い、いえ! 今、ベランダで、長くいたので寒くて、上手く口が回らなくて!」

「あら、お外? 良かったわぁ。マンションでリモート尽くめでは籠もり過ぎないか心配してましたのよ? 日に当たりませんと骨が弱りますからね」


 今日も好子さんは「やんごとない御方ですか?」と尋ねたくなる丁寧な言葉遣いだった。しかし、明るい声音と茶目っ気ある抑揚で話されるそれは不思議と距離を感じさせない。


如何いかが? 仙美さんも、お花もお元気?」

「あ、はい……水仙は終わってしまいましたが」

「直に三月ですものねぇ。もしかすると、お手入れ中? 水仙は今から暫くが肝腎ですものね。お偉いわぁ」


 仙美は一瞬、強張った後、宙に向かって引き攣れた笑いを作る。


「花、が、終わったら、球根に栄養が、必要なんですよね?」


 ネットの情報を思い出して口を動かしながら、急に指先は忙しなく花殻を摘み始めた。

 見える筈がない。

 見える筈はないのだが、好子さんには全部見抜かれている感覚を仙美は持っていた。それは彼女の連絡のタイミングが大きい。何かを促し、何かを止める様に、その着信音は鳴る。


「よくご存じねぇ。今のお若い方は凄いわぁ。わたくしなんて葉がだらしない、と、刈ってしまって。姑に怒られましたわぁ……ところで、今日お電話致しましたのは、よろしかったら、お誘いしたい、と思い立ちましてね。Zuumはお使いかしら?」

「え?」


 仙美は耳を疑った。今、確かに「ズーム」という音を聞いた。しかし、好子さんの世代を考えるなら、スマホカメラの遠近調整の方が確率が高いかもしれない。

 そう思うと、


「時々お友達とリモート歌会して慣れて来ましてね。お若い方にもお相手頂けるレベルになったのでは、と自惚れて、お電話しましたの」


 朗らかな声がZuumで間違いないことを告げる。

 仙美は顔を曇らせた。飛躍的に認知度の上がったWEB会議サービス。仙美はこれが苦手だった。

 家内にカメラを向けられ、他人に晒す感覚。それが唯一、寛げる独り居の部屋を荒らすものに彼女には感じられる。仕事の時だけスペースを仕切り、類似サービスを使っているが、おさむのオンラインデートの提案も断った。恐らくそれが振られた本当の理由だ。


「すみません。わたし……」


 口籠った仙美に、重ねず開けず、絶妙のタイミングで好子さんは応える。


「あら、お使いではないのね? 御免なさい」


 ここで謝ってくれる好子さんが仙美は好きだ。しかし、だからこそ申し訳ないとも思う。


「職場は違うもの、使ってるんですが……仕事以外でZuumする様な相手がいないんです。私、人生ソロプレイですし」


 言い訳しながら一度は握った花殻を仙美はわざと手から零した。ゴミとした花がベランダ床に散る。


「今は皆さん、ソロ○○と仰るのね? この間、竹下さんの坊ちゃん……もう四十なんですけれどもね、この間、お母様の代わりに参加して頂いた時、同じ様なフレーズを口にされたわ。ソロプレイ? お一人で何をなさるの?」

「あ、元はゲーム、です。グループでする様なゲームを一人ですることなんですけど……」

「まぁ、孤高の騎士みたい。素敵!」


 好子さんは上品な笑いを転がす。仙美は決まり悪そうにそれに異を唱えた。


「……私の使い方はどちらかと言うと、ぼっち……独りぼっち、とか……モテない独身、みたいな……」

「あら、それではわたくしもソロプレイね! 今度からそう言ってみようかしら」


 しかし、好子さんは長閑に弾む抑揚を崩さず応じる。


「いえ、好子さんは結婚されてますので」

「お見合いよ? お見合いでよろしいの? あら、竹下さんの坊ちゃんも独身。ご紹介できる殿方、沢山存じてますわぁ。わたくしも今は独り身ですけどね。皆様、私より仙美さんが良いでしょう。まぁ、おモテになって羨ましいわぁ」


 好子さんがころころと笑みながら話せば、いつの間にか彼女の術中にはまる。そうと判ってはいても、今の仙美にはそれが心地悪くはなかった。老いと明るさの調和する声に仙美は耳を傾けた。

 聞き取る為、斜めを向いた顔に冷たい風と、淡く輝きを増しつつある日がさす。

 暫し「紹介できる殿方」を歌物語の様に語った後、やがて好子さんはふと落ち着いた声音を紡ぎ出した。


「ですけれどもね、仙美さん、女性はモテようとモテなかろうと、社交的でも、違おうと、独り上手になろうとする時が来ますの」


 しかし、次の瞬間には好子さんは殊更な抑揚をつけて先を続ける。


「だって、大方、男性は先に死んでしまうんですものぉ。夫が20も年下でも判りませんわよ? 息子さえ。独り上手の訓練をせねばとも、しておけば良かったとも、まだ思っていらっしゃらない貴女様は春や夏の中にいらっしゃるわ」


 余りにもあっけらかんと「死」を語る好子さんに仙美はぎょっとした。その驚きを伝え躊躇う。

 その一瞬の間にだった。


「あら、でも、和水仙は冬咲き。では、今は肥らなくては。力を抜いて。だらしなくなさってもよろしいのよ。そうして水仙は先に備えるのですもの」


 何かを見ているかの様な言葉に仙美は思わずスマホを離して画面を凝視する。しかし、そこには音声通話を示す表示があるだけで、決してカメラが起動してはいなかった。


「では、御身おんみお大切にね。御免遊ばせ」


 一つの曲を奏でた様に話し終え、スマホが切れる。

 キャリアメールの着信表示が一件。何の気なくアプリを立ち上げて見ると、いつの間に送ったのか、好子さんからのメールが入っていた。


「我が家の老梅です」


 添付写真には庭と思しき草木の中で、太木と佇む好子さん。荒れた木肌の枝に一輪、紅梅が咲いていた。




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