例えば君が、見えていたなら

飯田太朗

第1話 例えば、電車で。

「例えば、電車の中で体調が悪くなった人間がいたとする。心臓発作とか、脳梗塞とかね」


 僕はスライドを展開する。


「この人……仮に、ジョニーとしようか……ジョニーに救いの手が差し伸べられる可能性について考えよう。以下のパターンから一番『ジョニーが助けてもらえそうな』場面を考えてくれ」


 一。ジョニー以外に乗り合わせた客は一人。つまり、ジョニーとその客は二人きり。

 二。ジョニー以外にも大勢の人が乗車している。ジョニーの周りには多くの人がいる。


「二、ですか?」

 一人の学生がつぶやく。僕はその声を聞き逃さない。

「いい意見だね。どうしてそう思う?」


「一のパターンはそのもう一人がジョニーの異変を見逃す可能性があります。隣に座っていれば助ける可能性もありますが、その確率はかなり低いでしょうし、広い電車の中で二人しかいなかったら見逃す可能性の方が高い。でも二なら、誰かは必ずジョニーの異変に気付く」


「すごく、いい意見だ」

 僕はにやりと笑う。妻に……舞に言われたのだが、僕のこの笑い方は「何だか悪魔的」らしい。妻は「そこがいいの」とも付け加えていたが。


「今、彼が言ってくれた意見の他に、違う大学で教えた時は『一対一だと気まずくて手を貸しにくい』なんて意見も出たね。頷ける。よく分かるよ。でもね、社会心理学的には違うんだ」


 僕はスライドを展開する。


「電車の中で突然の体調不良に見舞われたジョニーに、救いの手が差し伸べられやすい環境は、一、の『ジョニー以外乗客が一人しかいない』パターンになる。逆に、二、の『ジョニーの他にも乗客がたくさんいる』環境においては困っているジョニーは無視されやすい」


 ええ、どうして。そんな声が上がる。かわいい学生たち。僕は丁寧に教える。


「自分がこの電車の中に乗っていると想定すれば分かるよ。君たちの中にも通学に電車を使う人はいるだろう。君は?」

 僕はある学生を指名する。彼女は応える。

「電車通学です」

「じゃあ君、考えてみようか。君は今、電車に乗っている」

「はい」

「視界の端にうずくまる人が見えた。声をかけるかい?」

 視線が泳ぐ。多分、道徳的回答と本心の回答とが葛藤をしているのだろう。

「素直に答えてみて。どんな回答でも君を批判したりはしない」

「それは……多分、声はかけないと思います」

「どうして?」

「私が声をかけなくても、誰かが声をかけると思うから」

「素晴らしい」


 僕は再びスライドを展開する。


「彼女が今言ったことが全てを物語っている。そうなんだ。『ジョニー以外に人が大勢いる場合』は、その場に居合わせた人全員が『誰かが助けてくれるだろう』と思ってしまう。『自分が手を貸す必要はない』と思ってしまうんだ」


 これを、責任の分散、という。僕はスライドの中の「責任の分散」と書かれた場所をレーザーポインターでマークする。


「他にも『声をかけてジョニーに何ともなかったら自分が恥をかくんじゃないか』という『聴衆抑制』という心理もこの現象に一役買っている」


 学生たちが一斉にメモを取る。この瞬間が、僕は好きだ。


「この傍観者効果はダーリーとタラネという二人の社会心理学者によって提唱された。すごく平たく言えば、この現象はこうまとめることができる」


 人は、集まるとお互いに対して無関心になる。


「今日の講義は以上だ」


 時間。僕はスライドを閉じる。学生たちは帰り支度をする。僕のいる教壇の前には、学生が列を作る。みんな僕に質問をしに来るのだ。自分で言うのも何だが、僕の講義は割と人気がある……方だと思う。実際、学生たちは興味津々、といった様子で僕のところにやって来るし。


「ダーリーとタラネは何故この研究をするに至ったのでしょうか?」

 僕は答える。

「キティ・ジェノヴィーズ事件というのがあってね……」


「実験によって確認された現象なのですか?」

 これにも。

「そうだよ。被験者に『討論を行ってもらいます』と案内して……」


 順々に学生をさばいていく。彼らの知的好奇心を満たすこと。彼らに刺激を与えてさらなる学問の世界に導くこと。それが僕の仕事だ。


「先生」

 列の一番最後に並んでいた女子学生。

 僕は彼女の容姿に一瞬、見入る。

 名前は確か……青島真保。この大学のミスキャンパスだ。


 茶髪のロング。身長は一六〇後半だろう。女性にしては背が高い。モデルのように細い脚。春先らしい花柄のワンピースに身を包んでいる。顔はどちらかと言えば……綺麗系。蛇顔、とも言える。彼女が男に生まれたとしてもイケメンの類になるだろう。


「講義、面白かったです」

「ありがとう」

 講義の後、教壇の前に列をなす学生の中にはこうして講義の感想を言いに来る人もいる。大歓迎だ。講義に反応があるのは嬉しい。


「先生はどうして社会心理学をやろうと思ったんですか?」

 僕は少し、考える。恩師の……今は亡き……北先生のことを思う。

「大学で、いい先生に出会ってね」


「先生まだお若いですよね? もう教壇に立てるなんて、優秀なんでしょうね」

「いや、大したことないよ、僕なんか」

 そう、僕なんか。


 僕よりもっと優秀な人間を、僕は知っている。そいつとは、親友だが。あ、勘違いしないでほしい。僻んではいない。一人の人間として、友人として、尊敬している。それだけだ。


「次の講義も楽しみにしています」

「ありがとう」

 青島真保が去った後、僕も帰り支度をして講義室を後にする。僕の母校とは違う大学。講師として雇われているのだが、学生たちの意識も高く、いい大学だ。……さすがあの名木橋が推薦してくれるだけはある。そう思った。


 母校で僕が倫理的に問題のある実験を行ってから、半年以上過ぎた。


 未だにあの時の悪魔は消えてくれない。時々僕の耳元で囁く。ここでこんなことを言ってみろ。学生たちの反応が変わるぞ。無知な学生につけいってやれ。うまい汁が啜れるぞ。そんなことを言われる。


 でも僕は屈しない。僕の心は屈しない。僕には愛すべき妻がいる。信頼できる親友もいる。彼らが僕を道徳的な人間でいさせてくれる。人を支えるのは人との繋がりだ。社会心理学を通じて、僕はそれを学んだ。そしてその知見を、人生に活かさなければならない。


「俺が教えに行っている大学の、心理学専攻の講師に空きができた。応募してみないか」


 名木橋からそんな提案があったのが去年の一〇月。まだ僕が起こした騒動が鎮火されていない頃だ。僕は不安だった。僕はトラブルを起こした人間だ。そんな人間が、雇ってもらえるのか。しかし名木橋は小さく笑った。


「俺が推薦状を書けば多分大丈夫だ。あまり細かいことは気にするな。駄目だったらまた他を探せばいいさ」

「そうだな。生きていくには金もいるし、一応受けてみるか……」


 と、後ろ向きに受けてはみたのだが、名木橋の推薦状は効果覿面で、僕はあっさり採用ということになった。早速、後期の講義から、ということになったので、一〇月の半ばから僕はこの大学の「社会心理学概論」の講義を受け持つことになった。名木橋のおかげで、僕は食い扶持を繋ぐことができたし、去年のクリスマスには、無事に舞にプロポーズもできた。彼のおかげで何とか持ち直した人生だったが、心の傷は癒えていない。


「この研究は人を傷つけるだけじゃなく、君自身も傷つける」


 名木橋の言った通りだった。僕はあの実験で参加者の学生四〇人をいたずらに傷つけただけでなく、僕自身をも傷つけた。今でも時々、ため息が出る。僕はひどい人間だ。僕は悪い人間だ。僕は悪魔のような人間だ。僕は……。


 廊下を見つめながら歩く。声をかけられたのはその時だった。


「あのう……」


 振り返る。そこにいたのは、さっき話をした青島真保とは対照的な……小柄で、ショートカットで、どこか挙動不審な……女の子だった。僕は笑顔を浮かべた。


「はい。どうしましたか」

「先生、心理学の専門家ですよね」

「まぁ、一応」

「人の心が読めたり、不可解な現象に理由をつけられたりしますか?」

「うーん」


 心理学をやっているから人の心が読めるんだろう。

 そういう愚かな質問をしてくる素人はいる。馬鹿な質問だ。物理屋がみんなバネを伸ばしているのだと思っている。あるいは酪農家がみんな動物愛護団体だと思っている。そういう馬鹿には素直に「バーカ」と言うことにしているが、彼女にそんな態度をとるわけにもいかない。


「何か悩んでいるのかな? 僕でよければ力になるけど」

 多分、彼女の質問の本質はそこだろう。僕に助力を求めているのだ。すると彼女は……名前も知らない小柄な彼女は……びっくりしたような顔をした。

「やっぱり人の心が読めるんだ……」

 苦笑。まぁ、いい。


「話を聞くよ」

 僕の優しい調子に心が解れたのか、彼女はこんなことを口にした。

「先生、『研究室の幽霊』、知ってますか」

「『研究室の幽霊』」

 思えばこれが、僕が「研究室の幽霊」について触れた、最初の出来事だった。

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