第七揺 硝子の間


「…ぅ」


 小さなうめき声が漏れた。


 柔らかな感触を頭に感じ、目が醒める。

 目の前に見えるのは、二つの大きな影。

 …見覚えがある。


「…これってもしかして」

「起きたああああああああああ!!」

「でじゃぶっ!」


 思いっきり顔を抱きしめられ、たわわに実った2つのモノを変な声を出しながら、またも顔面で感じてしまう煌。


「よかったぁ…死んじゃうかと…」

「…おい、これさっきも見たぞ」

「見たネー」「見ました」「ひらへまひは(見られました)」


 顔が覆われている煌を含め、四人が既視感を覚えていた。


「あっ!ご、ごめん!つい嬉しくて…」

「ぷはっ!」


 解放された瞬間に、ズササササ、と後退りして距離を取る煌。

 視野が解放されると、自分のいる場所が、あの霧の街ではないことに気づく。

 五角形となるように壁が立っている部屋だ。

 しかし、ただの壁ではない。5つの壁、それら全てがステンドグラスで出来ているのだ。ガラスの向こう側から光が出ているのか、その極彩色の壁は、どれも美しく輝いている。


「凄い…綺麗だ…」

「『クレイドル』唯一の良心だネ。ちなみに地面もステンドグラスだヨ」

「え?あ、本当だ…」

「皆そういう反応するよネー。わかるわかる」


 うんうん、と頷く音子に、煌は思い出したように問いかける。


「っ、そうだ!処刑人はどうなりましたか?!気を失ってて、何も覚えてないんですが…」


 音子がアイサインをして、紅葉、玄二、夢莉に確認をとる。


「…認めざるを得ないネ。君は、合理性を覆した。この世界でも、生きるべき人間だ」

「…ということは」


「あの怪物は、死んだ」


「―――っ!」


 そう言い切った音子の発言に、目を見開く煌。


「あの現象が鎮まった後に残ってたのは、胴体から切り離された鴉頭の首と、首を失った胴体だった。血の海に沈んでたヨ。圧巻だったネ」

「すぐに死体は黒い塵になって消えたんだけど、血溜まりは残ったから、広場の中央に血のプールが出来てて…中々スプラッタな光景だったね……」


 血の気が引いた状態で喋る紅葉。四人の表情を見る限り、本当のことらしい。


「つまり、作戦は成功だった、と…安心しました。俺も生きてるし」

「ほんとにね。生きててよかったヨ。衝撃波くらって気絶したんだろうけど…うん…気絶しててよかったと思う…」

「え?」

「…なんつーか…俺が瓦礫の中から夜野を見つけた時、最初は壊れたマネキンかと思うぐらい体がボロボロでな…」

「…具体的には」

「手が取れてた」

「本当に生きててよかったッッッ!!!!」


 そこまで凄惨な状態になっていたとは思いもしなかった。紅葉があれほどのリアクションをした理由も頷ける。


「…改めて、謝罪するヨ、煌クン。君を殺そうとして、すまなかった。謝って許されることではないと思うけど、それでも…」

「良いんですよ、別に。もう怒ってませんから。合理的な判断だと思ってますし…」

「――合理的、か」

「…?」


 少し複雑な表情を見せた音子に、首を傾げる煌。


「とにかく、だ。生きててよかッた。折角新しい仲間が増えたのに死んだとなッちゃあ、おちおち寝てもいられねぇや」

「えぇ?もともと夢の中なのに?」

「そそ、そうですよ。現実じゃ、どうせスヤスヤ眠ってますし」

「ははーん、さては地頭の悪さが露呈したネー?」

「細けこたぁいいんだろ…ッて、音子のは余計だろうが!」


 そう軽口をたたく玄二に、三人が突っ込む。


「ふふっ」


 …あぁ。そうだった。

 信頼できる仲間と、幸せに笑い合って過ごす。

 この「今」が、煌が最も欲しくて、死にそうになりながら走って得たもので。


「あははははっ!」


 大声を出して笑う。


 本当に、生きていて良かったと。

 そう、心から思えたが故の、煌の安堵の笑い。



 他人を信じらなかった煌が、初めて他人と得た安息の場所だった。



「って、あれ…何で皆黙って…」


 全員が沈黙しているのに気づき、気まずそうに話す煌。


「やべぇな、この純粋すぎる笑い…尊すぎるぜ…」

「二人で話してた時は見てなかったけど、そんなに良い顔で笑うんだ…ちょっと待って…顔が熱いぃ…うぅ…」

「えー…ワタシこんなピュアな子を殺そうとしてたノー…?良心痛みまくりなんだケド…」

「これはやばいですね疑心暗鬼に慣れていた暗い顔をした童顔で整った顔の少年の闇からの解放を心の底から喜んだが故の透き通った笑い声ですねハートにきますよ尊みマックスですね間違いないコレには語彙力を失ってしまいますね」

「「「夢莉が豹変した?!」」」


 笑っただけなのに過度な評価を受けて、恥ずかしくなった煌はというと。


「あ、あの…俺が悪かったので…やめてぇ…」


 かつてない程に赤面して縮こまっていた。




 ***




「さて!ワタシ達三人は立ち去るとしますか!」

「…!そうだな、煌と紅葉には、積もる話もあるもんな」

「そそ、そうですね…あと、皆さん、さっきのは忘れて下さい…うぁぁ…」

「「え?」」


(一人を除いて)意味深なコメントを残し、そそくさと部屋の中央に向かう三人に呆然とする煌と紅葉。


 ステンドグラスの部屋、その中央に立ったかと思うと、三人の体は光の粒子になって消えていった。


「な、何ですかアレ」

「あそこに立つと現実世界に戻れるの。すぐ目が醒めるって訳じゃないんだけど…」

「え、じゃあここに居れば、ずっと目が醒めない、と…?」

「ううん。制限時間の3時間を越した瞬間に鐘が鳴って、強制的に退場させられるの。鐘はゲーム開始時にも鳴ってたと思うんだけど…」

「……聴いてないな」

「……ことごとく、不幸だね……」


 どうやら、煌は起きる時間すら周りとずれているらしい。さすがの不幸っぷりに紅葉も目を逸らした。


「…ていうか、あの三人ったら、私たちをからかって…もうっ」

「あはははー…」


 口を引き攣らせる煌。紅葉は気づいていないのだろうが、あの三人は気づいたのだ。

 煌が、これからしようとしていることに。


「更科さん!」

「うぇっ!い、いきなりどうしたの?変な声出ちゃったし…」

「お、お話がございます」

「え?あ、は、はい?」


 深く息を吸って、吐く。こんな場所でするとは思わなかったが、ここまでお膳立てされたのだ。覚悟するしかあるまい。



「…ずっと、あなたのことを想っていました」

「…ぇ」

「あなたが、好きです」

「――――」



 言葉を失い、驚きの表情で煌を見つめる紅葉。

 煌も、目を逸らさない。見つめる。

 心臓の鼓動が耳の中で響く。うるさくて仕方がないが、どうしようもない。


 暫くの沈黙。

 紅葉は、顔を伏せる。表情が見えなくなる。


「…私ね、みんなが考えるみたいな、完璧な人間じゃないの」

「…?」


 顔を伏せたまま、沈黙を破って語る紅葉。


「煌君、言ってたよね。叔母さんに憧れて、完璧を目指したって」

「…?はい…」

「私は、そんな綺麗な理由じゃない。むしろ、真逆だった」


 少し息を吸ってから、紅葉は言葉を紡いだ。


「私ね。小さい頃、母親に虐待されてたの」


「…ぇ」

「完璧な母親だった。周りの人間も、何一つとして欠点のない、なんでもできる女性だと思ってた」

「…なにを」

「だから、気づかなかったの。実の娘を虐待してるなんて、誰も思わなかった。当事者の私すらも、それは母親の愛なんだって、ずっと洗脳されてた」

「―――」


 呟くように、暗い過去を吐露する紅葉。


「…お父さんが気づいてくれて、ようやく発覚したの。それが、愛なんかじゃなくて、ただの最悪の行為なんだって知った時、私は戦慄した」

「…それは、自分が虐待に気づかなかったことに?」


 首を横に振る紅葉。


「私が、その女の血をひいてる娘だってことに」

「…ぁ」


 最低の母親のDNAを、半分も受け継いでいる。その事実に絶望したのだと、カミングアウトする紅葉に、かける言葉が見つからない。


「笑顔で虐待をする女だった。当たり前のように、それが愛なんだって娘を騙して、悦ぶ女だった。未だに、あの女につけられた傷はあちこちに残ってるの。絶妙に見えづらい場所にあるから、クラスの女子に気づかれたことは無いけど…」

「バレないように、隠せる位置に、意図的にってことか…?」


 紅葉は、それを無言で肯定する。


「私は、あの女みたいなクズになりたくない。でも、気を抜いたら、あの女から受け継いだ悪い所が露見する。だから、私は常に完璧でいなきゃいけない。その義務感で、私は私を守ってる」


 顔を上げた紅葉の目には、涙が溜まっている。


「分かったでしょ?私は、綺麗な女じゃない。憧れで完璧を目指した君とは違う。私は、憎悪から完璧を目指して、いつも自分を偽って生きてるの」

「…そんなの…!」




「私も、ずっと貴方のことが好きでした」




 突然の愛の告白に、驚く煌。

「でも」と続ける紅葉。


「私は貴方の告白を受け入れられません」


 自虐的に笑って、紅葉は答える。


「私は、貴方を想うからこそ、貴方の綺麗さを汚したくない。今は、人を信頼できないと、人間関係を否定するかもしれない。でも、いつか、貴方を助けてくれる、信頼できる女性が現れる。それは、きっと私じゃない」

「……なんで、言い切れるんだ」


 声を震わせる煌に、紅葉は涙を一筋こぼし、断言する。


「当たり前だよ。だって、こんなに素敵な人なんだもん」

「―――っ」


 否定、しようとした。

 彼女の、完璧であろうとする、その理由を。

 でも、できない。なぜなら、それは彼女の今を、これまでの努力を、全て否定することになる。


 ―――煌は、苦悩する彼女を救えない。



 紅葉は、彼の「合理性」を否定しようとした。


 煌は、よく「合理」という言葉を使う。

 それは、人の心に懐疑的でありすぎる彼が、「感情」という、彼を傷つける不確定要素から、彼自身を守る為に生み出した、堅い殻だ。

 でも、その言葉に従って生きることは、人の心に芯から寄り添うことを最初から諦めているという、その意思表示をしているということに他ならない。


 なぜなら、「人の感情」と「合理性」は専ら矛盾するものだからだ。

 いくら合理的に正しい判断も、倫理・道徳をふまえ、その選択ができないことは往々にしてよくある。合理のみでものを考える人間は、「人間らしい」ことをしようとしない。

 それでは、誰も彼に寄って来れない。「お前の感情を鑑みることはしない」と、予め言い切っているようなものだからだ。


 きっと彼も、「合理」を振りかざすことが、自分を守り、自分を孤立させる、諸刃の刃であることに気づいている。

 それでも、彼は、彼の純真な心を守るために、その言葉を使わざるを得ないのだ。


(…でも、君は知らないんだろうな)


 紅葉は、彼の顔を見て思う。



 君は、「合理」って言葉を使う時、いつも辛そうな顔をしているんだよ?



 でも、その言葉を自分に言う権利はない。その言葉で、彼に寄り添うことは、自分に許されない。


 ―――紅葉は、苦悩する彼を救えない。



 少年と少女は、寄り添えない。

 それは、彼らが「人に心を委ねる」ことを拒否し続けてきたからだ。

 過去に縛られ、他人に、そして自分に臆病になってしまって彼らが、自身の心を相手にさらけ出し、信頼し、身を任せることはできない。


 胸を切り裂く沈黙。

 刻一刻と制限時間が迫る中、彼らは、相手にかける言葉を見つけ出せない。


 


「更科さんは、きっと色んな悩みを抱えて、それを自分で背負って生きてきたんだろうな」

「…え?」

「過去が今の自分を縛る程に強いものだって、それは分かるよ。俺がそうだから」


 煌は、紅葉の目を見つめる。


「俺は、更科さんの目が好きだ」

「?!な、なにを…」

「更科さんの、声が好きだ」

「ちょ、ちょっと?!」


 明らかに動揺する紅葉に対し、煌は言葉を止めない。


「更科さんの笑う顔が好き。怒る顔が好き。泣く顔も好き。優しい表情も、困った表情も好き。髪も好きだし、隠れて必死に努力する姿も、痛みを堪えて必死に笑おうとする姿も、本当は自分も脆いくせに他人の心配ばっかりして、勝手に傷ついて、でも取り繕おうとする、その弱さだって」

「―――」

「そして、君の心が好きなんだ」

「…っぁ…」

「俺が君に惚れたのは、君が完璧に見えたからじゃない。君が完璧であろうと努力する、君の心の在り方を、守ってあげたいと思ったからだ」


 煌は、更科紅葉が聖人ではないことを知っていた。


 なぜなら、その姿は、彼が昔にそう在ろうとしたものだったから。彼が諦めた、完璧であろうとする、泥臭くも気高い心根の持ち主だったから。


 彼女の、自身の弱さの吐露に、彼の好意は決して揺らがない。


「もう一度言わせてくれ。君の過去だとか動機だとか、たいした問題じゃない。俺は、君の全部ひっくるめて、好きなんだ」


 煌は、静かに微笑む。


「俺の好意の理由は、それだけ。それじゃ、駄目かな」

「っ、だめなわけ、ないよ……!」

「君が、俺を助けられないからって理由で拒むなら、俺が君に助けられないくらい、強くなる」


 紅葉の手に触れ、優しく握った。


「約束するよ。俺は、現実の世界でも君に告白をする。だから、それまで待っててくれ」


 それは、煌の決意だった。紅葉が悩まなくていいように、自分が変わるからと。

 自分が君を向かいに行くから。

 だから、待っていて欲しいと。

 そう言って、笑うから。


 大粒の涙を溢して、紅葉も笑うのだ。



「うん、待ってる!貴方をずっと、待っています!」



 ゴォン…ゴォン…と。

 タイムリミットを告げる鐘がどこからともなく鳴る。

 それと同時に、視界が白明し、カタチが溶ける。

 彼女の泣き笑いの顔を目に焼き付けて、煌の意識は浮上する。



 しかし、この時の煌は知らなかった。


『クレイドル』の存在する、『』のことを。

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