事故物件 その7
AM1:00時。夜の静寂はまばたきの音が聞こえそうなくらい部屋の中に染み込んでいた。そんな沈黙のカーテンを開くようにルミ子はユウイチに艶のある声で語りかけた。
「ユウイチくんはこういうの、初めて? 明かりは点けとく?」
「恥ずかしながら、まだ一度も……。少し暗いほうが雰囲気が出ると思います」
「あら、ロマンチストね」
ユウイチの返答を聞き入れたルミ子は白熱灯の明かりを2段階落とした。薄暗くなった部屋は夢うつつを彷徨っているかのように幻想的だった。
「豆電球がいい?」
ルミ子はユウイチのつま先から頭のてっぺんまで舐めるように見つめた。
「いや、これでいいです。あんまり暗いとちゃんと見えないかもしれないんで」
「生で見たこともないんだ?」
「動画とかでならいくつか見たことがありますけど、生は初めてです」
「楽しみなんだね」
「ちょっと緊張していますけど」
「最初はみんな緊張するもんよ。大丈夫。アタシがリードしてア・ゲ・ル」
「あの、幽霊を呼ぶんですよね?」
ユウイチはルミ子が会話を猥談に仕立て上げようとしていることに気づき、制止した。ルミ子はつまらなそうに口をとがらせた。分厚い唇は牡丹の花のように赤かった。
「当たり前でしょ、何いってんの? ユウイチくん、あんた、こんな美女と二人っきりだからって変なこと考えてるんじゃないわよね! アタシ、そんなに軽くないわよ!」
どうみても軽くはない。物理的な意味で。ユウイチは突っ込みたかったがあとが怖いので胸に留めた。
「わかりました、わかりましたから、そろそろ真面目にして下さい」
「かわいくないわね。いいわ、始めましょ」
ルミ子は立ち上がり、煙草に火を灯した。部屋に煙草の臭いが充満した。煙が目に染みたユウイチは思わず涙ぐんだ。
「ちょっと、ルミ子さん、換気扇の下に行ってくださいよ、Aさんに怒られますよ」
「ユウイチくん、ここを見てみなさい」
灰色の煙は部屋中をアメーバ状に広がり、ゆっくりとユウイチたちを飲み込んでいく。涙と煙で視界がぼやけながらも、ユウイチはルミ子の指差す位置に目を向けた。そこは何もない空間だった。何もない。部屋を埋め尽くす煙さえも。
「え、これは?」
「煙に霊力を混ぜ込んだの。これならあなたにもここに何かがあるって分かるでしょ?」
煙はそれが意思を持っているかのように、ある一点を避けて漂っていた。そこには版画のように人の形がはっきりと浮かんでいた。ユウイチは恐怖以上に未知との遭遇に興奮した。見えざるものの影、オカルトが今目の前で証明されているのだ。
「こ、これが幽霊ですか」
「んーん」
ユウイチはルミ子の予想外の答えにずっこけそうになった。
「じゃあ、なんなんですかこれ? 人の形してますよね? 霊力がどーとか言っといてそれはないですよ!」
「まあまあ、落ち着きんさい。今から説明してあげる。その前に質問、幽霊って何?」
ルミ子の不意の質問にユウイチはすぐに答えることができなかった。幽霊とは何? 幽霊とはなんだ? ユウイチは冷静に考え、答えた。
「人の魂、ですかね。この世に未練のある人間が魂だけ留まっている状態を指すんじゃないでしょうか」
「そう、それが一般的なイメージね。ユウイチくんは、人には、生き物には魂があると思う?」
「あると信じたいですけど、僕は。命って肉体だけで成立してるとは思えないですし」
「その魂が幽霊になったとして、どうしてその幽霊は服を着ているの?」
「え? 服ですか?」
「生命があって、その源が魂だとしたら、素っ裸でいるべきじゃない? わざわざ家に帰ってクローゼットを漁ったのかしら? それとも服にも魂はあるのかしら?」
「そ、それは、きっと魂だって裸は恥ずかしいからじゃないですか。霊力で衣服くらい生み出せるとか」
「その割に着てる服なんてボロボロだったりやたら赤かったり、怖がらせようとするじゃない。衣服を生み出せるのならあんただってエルメネジルド・ゼニアのスーツとか着たいでしょ」
「それは、世の中に恨みがあるからこそ、おどろおどろしい格好になるんですよ!」
「世の中に恨みがあるのに、やることは金縛りだのラップ音だの、写真に映り込むだの。何がしたいの?って感じ」
「そんなこと言ってたら呪われますよ!」
何も言い返せないユウイチに対して、ルミ子はチェシャ猫の様に笑った。
「死者は誰も呪わない。生きた人が人を呪うのよ」
ユウイチは背筋に寒気が走った。ルミ子のこの一言が、一体どういう意味だったのか、それを知るのは少し先の話だ。
「それで、結局僕が見てるそれはなんなんでしょうか」
不可思議な光景に次第に慣れていったユウイチはルミ子に問いただした。
「これはこの場所に染み付いた感情、記憶よ」
「記憶、ですか?」
ユウイチはルミ子の言ってる意味がよく分からなかった。
「そう、この場所にこびりついた記憶。恨みや未練がある人が幽霊になるってのはある意味正解。あなたが今見ているのは、確かに世間一般で言うおばけや幽霊みたいなものだし、実際に幽霊を見たって言う人は、殆どがこの記憶のこだまを感じ取っているの」
「記憶の、こだま?」
「強い負の感情は影になり、シミになって残るの。それが映写機で流しているみたいにその場に流され続けるの。いわば死者の脳内イメージ3Dショート・ムービーってところね」
「じゃあ、これも誰かの感情が映像化してるってことですか?」
「恨みや未練ってのは、タバコのヤニみたいに一度染み付いたら中々消えないの。強ければ強いほど、映像も濃くなっていくものなの。あなたに見せているものは全然薄いでしょ。これはもっと小さな負の感情のこだまよ。1ヶ月もすれば消えていくわ」
「そ、それはやっぱり、2年前に行方不明になった女性の感情なんでしょうか」
「感情のこだまが2年も残っているなら、もっと濃くてしんどい映像になってるわ。それにこだまは基本的に死んだ場所に残るものなのよ。この部屋で死んでいないとなれば、それはありえないの」
「じゃ、じゃあこれは……」
「これはAさんの負の感情、恐怖と後悔のこだまよ」
ユウイチはルミ子の答えに息を呑んだ。ルミ子は続けて話し続けた。
「ようするに、Aさんの思い込みから生まれたこのこだまが相乗効果となって、些細なこともおばけの仕業みたいに感じるようになるのよ。怖いと思えば思うほど、こだまのイヤな感覚ってやつが大きくなる。これが大きくなると風の音だって心霊現象だと思うようになる。あとはネズミ講みたいに倍々ゲームで膨れ上がっていくの。そういう意味ではAさんはこの部屋から離れて暮らしていたのは正解ね」
「ルミ子さんがおっしゃることは何となく分かりました。つまり、その感情の記憶、こだまこそが幽霊の正体ってわけなんですか?」
ルミ子はユウイチの問いに慣れた口調で返した。
「半分正解。さっきも言った通り、世間が体験する心霊現象の大半がこだまからくるものなの。だけど、アタシみたいに霊感が強い、あ、便宜上霊感って言ってるけど、これが実際に霊感かどうかわからないわよ。超能力って言う人もいるしね。とにかくこの霊感みたいなのが強い人はこだまを幽霊とは言わない。だからアタシもここに幽霊はいないって断言した。実際、こだまは何もしない。ちょっと勘違いしやすくなるだけなの」話を続けながらルミ子はこだまに手をかざした。
「例えるならね、こだまはたまごなの。幽霊の卵。今からこのこだまを幽霊ってやつにしてあげる」
ルミ子の掌から青白い光が薄っすらと浮かび上がる。ぼんやりと輝くその手で実態のないこだまに触れた。その手付きはスーパーでキャベツを吟味する母親の手付きにそっくりだった。次第に光が強くなる。先程まで幻想的だった光はいささか下品に輝きだし、その光に照らされたルミ子の蒼白顔は、今日一番のホラーだった。
「普通の人のこだまは大体一週間くらいで消えるわ。だけど、後悔や恨み、未練が強いこだまは逆に時間が経つにつれどんどん色濃くなるの。死者の最後の願いを叶えるためにやがてこの場所から剥がれて行動を起こす。それが私の中の幽霊」
光は突然、水を浴びたように消えた。こだまはいつしか色づき、形がはっきりとしてきた。それはまさしくAの姿だった。
「これが、幽霊ですか?」
「そう、この幽霊はAさんのこだまにアタシが霊力を注入して一時的に実体化させたものだけど」
Aの形をした幽霊はガタガタと震えている。恐怖の念が実体化したのだから当然なのだが、幽霊が怯えているのはなんとも滑稽だった。
「幽霊が生まれる原因は大きく分けて3つ。強い未練。死を受け入れていない、あるいは気付いていない。他者、もしくは自身が幽霊になるように手を施す。例外は今の所見たことないわ」
ユウイチは目の前で起きる非日常をどういうわけか素直に受け入れることができた。普通の人間がこんな話をしてもきっとここまで信じることはないだろう。この鬼村ルミ子という女性だからこそ、この現実を受け止めることができたのだ。
ギシ……
「ユウイチくん、聞こえた?」
「はい、これは例の、霊の軋みですね」
「あら、余裕出てきたじゃない。そう、これはAさんが体験した記憶。Aさんを幽霊化したことによって彼の記憶を追体験しているの」
ギシ……ギシ……
ユウイチの中の緊張感が高まる。幽霊では無いとしたら、この音の正体はなんなのか、全神経を耳に集中させて思考を廻らした。
「ア…」
女性の声。苦しみ、苦痛に耐えているような声だ。ユウイチのこめかみを生ぬるい汗がつたい、零れていった。
ギシ……ギシ……
「ユウイチくん落ち着いて聞きなさい。これは心霊部門の適正テストよ。冷静になれば自ずと正体が見えてくるわ」
ルミ子は既に真相を究明した、といった態度でユウイチに発破をかけた。
「あの、心霊部門は望んできたのではないので、テストと言われても」
「ナナセちゃんとはもう話した? 心霊部門なら彼女と一緒に遠方に取材に行けるわよ。彼女人見知りだからうまくエスコートできたら、いい関係になれるかも、よ」
ナナセさん、いつもパソコンと格闘している心霊部門のアイドル。彼女と取材? ユウイチの頭にやましい想像が駆け巡った。
「任せて下さい、ルミ子さん。男、榊ユウイチ。必ず真相を突き止めてみせます」
ギシ……ギシ……
ギシ……ギシ……
軋む音。どこかで聞いたことがある。木? 違う、もっと固い、金属のような音だ。
「ア……」
声、女性。苦しそう? 本当にそうか?
ギシ……ギシ……
ギシ……ギシ……
ギシ……ギシ……
ギシ……ギシ……
次第に早くなる音。それに合わせて聞こえる声。
「ア……ア……」
軋み、パイプベッドの軋む音だ。ベッドの軋みがどんどん加速する。女性の声は火照りを感じさせた。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
「チェリーボーイには刺激が強かったかしら?」
ユウイチは声の正体、つまりこの部屋の隣から聞こえる愛の行為に顔を真赤にさせていた。
「なんで知ってるんですか!? それにしても、ああ、こんなことが幽霊の正体だったなんて」
「言ったじゃない、世の中なんて勘違いだらけよ。都合のいいのも悪いのも。本物なんて年に数回出会えるかってくらいなんだから」
「この先やっていけるか不安です」
「案外うまくやれるわ、あんた、中々見込みあるもの」
何を見てそう思ったのかユウイチは疑問に思ったが、ともあれ褒められることは気分が良かった。
「このことはAさんに話しますか?」
「そうね、隣の人には悪いけど、一応説明しときましょうか」
「ところでルミ子さん」
「なによ」
「1つわからないことがあります。Aさんが最初に聞いた声、『いるよ』ってやつ、あれの正体もやっぱり勘違いだったんですか?」
ルミ子はユウイチを真顔で見つめた
「その声、多分本物の声よ」
「え、なにそれこわい」
行方をくらました女性は後に2年前に交際していた男を殺害し、逮捕された。この女性は2年間、自分を捨てた男の行方を求め、思い当たる場所を手当り次第探していた。当然、浮気を目撃した自身のアパートも。何度も何度も。ナイフを携えて。
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