事故物件 その5

 『コーポ バンビ』は2階建て、全8部屋のアパートだ。築七年ながらもクリーム色の壁面はまるでつい最近建造されたかのように綺麗にされていた。それだけ管理が行き渡っていることが見受けられる。このアパートの一室が事故物件だとは、到底思えなかった。ユウイチは事前に許可された駐車場に慎重に車を止めた。駐車場のすぐ脇にある鍵が開いたままのゴミ置き場にはカラスが2羽、雨宿りをしながらよそ者の訪問を怪訝な目で見ていた。


「結構、雨が強くなってきましたね。傘差しますんでちょっと待ってて下さいね」

「大丈夫よ。これくらい走っていくわ」

「ルミ子さん、ヒールでしょ。危ないですよ」


 ユウイチは運転席から後部座席に身を乗り出し、黒い傘を手にとった。振り返るとルミ子はもう車中にはいなかった。


「ルミ子さん、行っちゃったのかな」


 車から降りると、傘を差しながらユウイチは目的の部屋をじっと見つめた。204号室。2階の角部屋である。そこにはすでにルミ子がいた。


「ちょっとルミ子さん、待ってくださいよ!」


 ユウイチは慌ててルミ子のもとへ駆けつけた。スーツのズボンの裾がすっかり濡れてしまった。一方、ルミ子は傘も差さずに来たというのに、毛先の隅々まで見回してもどこも濡れた形跡がなかった。


「なんで濡れてないんですか、ルミ子さんは」

「あぁ、避けたわ」


 雨を避けて動けるわけがない。ユウイチは思ったが、変に突っ込むとあとが怖いので聞かなかったことにした。ルミ子はユウイチにハンカチを渡し、濡れた部分を拭くように促した。ユウイチは礼を言うと、ハンカチを片手にしながらもう一方の手で204号室のチャイムを鳴らした。ユウイチが体を拭き終わっても返事がないので、今度はルミ子がチャイムを鳴らした。ルミ子は返事を待たずにチャイムを3回、4回と連打した。


「出ないわね。留守か、寝てるのかしらね。ユウイチくん、帰りましょう」

「はい、は?」

「だっていないんだもん、情報提供者、あと、幽霊」

「え、もう分かったんですか? どうしてそんな、早いですよ流石に。もうちょっと調べましょうよ、2泊の予定なんですから。情報提供者でこの部屋の住人であるAさんには一度メールを送りますんで、一旦出直しましょう」

 ユウイチの提案を受け取ったルミ子はスマホを取り出し、操作を始めた。何かを調べている様だ。

「この辺に美味しい豚骨ラーメンがあるみたいよ、飯ナビで星5つだったわ」

「そういうことはすぐ調べるんですね」

 ユウイチは呆れた。ともあれ、いつまでもドアの前で待つわけにも行かない。一旦車に戻ろうかと振り返ると、一人の男がこちらに向かって歩いてきた。角部屋なのでこの部屋の住人、つまりAが帰ってきたのだ。


「ノ、ノ、ノノメセタの方々でしょうか?」


 自信のない小さな声で男は二人に尋ねた。長い前髪に隠れた瞳は、目を合わそうとはせず右に左に、酔っぱらいのように不規則に揺れていた。


「あんたがAさん?」


 ルミ子にそう問われると、男はコクリと二度頷いた。


「とと、とりあえず、家に上がって下さい。寒いですし」

「そうですね、まずは話を聞いてみましょう、ルミ子さん」

「そうね。手ぶらで帰ると後藤田がうるさいし」


 二人が承諾したのを確認すると、Aはそそくさと玄関の鍵を開けた。部屋の中から鬱々とした湿気とカビの臭いが吐き出された。


「う・・」

「くっせ」

「すいません、一週間は帰ってないもんで」


 Aは恥じらいと申し訳無さで顔を赤らめていた。育ちのいいユウイチはあまり嗅いだことのない臭いに困惑しながらも、どうにか笑顔を崩さずにいたが、ルミ子は苦虫を噛み潰したような顔でAを睨みつけていた。


「あんたねぇ、客人が来るってのにこれはないでしょ。とりあえずユウイチくんと掃除なさい。私は便所に行ってくるから」

「ええ!? 僕もするんですか?」

「あ、あ、あの、トイレも結構汚いと思いますが・・・・」

「廃墟の便所よりいくらかマシよ」


 そういうとルミ子はAの静止を振り切りヒールを脱いで部屋に上がり込んだ。


「便所はどこ?」

「みみ、右のドアです」

「ありがと」


 そういうとルミ子はトイレに直行していった。鍵が閉まると同時に土砂崩れのような轟音が部屋中に鳴り響いた。


「ブロロロロゴゴゴゴゴ」


「大ですね」

「そ、そうですね」


「バルルルルルルルルル」


 部屋の中に異質の臭気が漂い始める。二人は無言で部屋の掃除に取り掛かった。








「大分マシになったわね」


 ルミ子は二人がけのソファにどっしりと腰を落とした。部屋に入って約一時間、急遽ユウイチがコンビニへ買い足しに行った消臭スプレーの効果もあって、部屋の臭いは幾分か良化した。トイレを除いては。


「それじゃ、Aさん、今からいくつか質問させていただきますね」


 ユウイチは床に座り、メモ帳とボイスレコーダーを取り出し、取材の準備を始めた。部屋の主であるAは立ったまま本格的な取材体制を見て少したじろいでいた。


「声や物音が聞こえるのは、どれくらいの周期ですか?」

「しし、週に2,3回は聞こえてきます。基本的には夜中なんですけど、たまに昼間に聞こえることもあります。小さな囁きが聞こえてきて、軋む音が早くなるにつれて大きくなっていくんです。そして最後には断末魔のような叫び声が聞こえて、ああ、恐ろしい」


「一番最近で、いつ起きました?」

「せせ、先週くらいから友人の家で寝泊まりしているので、聞いたのは10日くらい前です。その日は日曜日だったんで、朝から家に居たんですけど、昼食を終えてうたた寝しているときに聞こえてきまして、たまらず家を飛び出しました」


「声や物音以外になにかおかしなことは?」

「そそそ、そうですね、なにか見られてる気がするというか、部屋にいても一人じゃないみたいな気分になります。お風呂に入るときも怖くてドアは開けたままです」


「お祓いや、霊能力者に相談はしましたか?」

「し、していないです。塩を盛ったり念仏を唱えたりはしましたけど、ああ、あまり効果はないみたいで。お祓いなんて誰に頼めばいいか分からないですし、きっとお高いでしょうから安月給の僕にはとても・・」

「もういいわ、大丈夫」


 ルミ子がうんざりしたように話を遮り、おもむろに立ち上がった。その姿は牛久大仏のように雄大で荘厳だった。


「ユウイチくん、今から私が言う物を買ってきて。Aさん、あなたは今日は友達の家に泊まりなさい。私が今日ですべて片付けてあげる」


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