第3話 異界探索協会
「ここみたい」
香奈が周りを見ながら言った。
電車という乗り物で移動し、中野駅から徒歩で十五分ほど歩いた場所に、病院と似通った作りの箱形の建物があった。敷地に入る手前に門があり、守衛らしき男が立っている。
門には、"異界探索協会 中野本部"という表札がついていた。
「付き添いの方は、ここまでになります。敷地内には立ち入れません」
「えっ? で、でも……」
香奈が、不安そうな顔で
「もう大丈夫。ありがとう」
蓮は、心配そうな香奈に向かって礼を言った。
「名前は?」
「矢上蓮です」
「やがみ……傷病特派の方ですね」
名簿を片手に、守衛の男が蓮の眼をしばらく見つめてから頷いた。蓮の義眼は、微かな動作光を灯している。
「はい」
「付き添いの方は?」
「田代香奈……従姉妹です」
香奈が答えた。
「ご家族の方……親戚の方には、受付証など郵送物があります。こちらに、返信用の宛先をご記入下さい」
守衛の一人が、黒い端末を香奈に向けて差し出した。
「これで?」
香奈が手早く必要事項を書き込んで守衛を見た。
「結構です。ええと……矢上さんは、探索士となった場合の活動名を決めていますか? 本名でも構いませんが……名字は避けて下さい。表記に使える文字は、カタカナのみになります」
「レン」
「『レン』ですね。それでは、『レン』で予備登録しておきます。後ほど配布されるネームプレートには、『異界探索士 レン』と表記されます」
守衛が端末を操作する。
「レンか。覚えやすくていいわね」
香奈が頷いた。
「はい、こちらが矢上蓮さんが協会に入ったことの仮証明になります。渡界が完了した後に、正式な資格通知が届きますから、それまで保管しておいて下さい」
守衛が葉書のような紙を香奈に手渡した。
「……分かりました。あの……よろしくお願いします」
香奈が守衛に向かって頭を下げた。
「確かに、矢上蓮さんをお預かりしました。荷物は、それだけですか?」
守衛が蓮の荷物を見た。中身は着替えだけである。
「はい」
「では、荷物はこちらでお預かりします。この荷札に実名を記入して下さい」
"NK-09-008:レン"と印字された荷物札を手渡され、蓮は丁寧に名前を記入した。
「こちらの半券が受け取り証になります」
守衛が荷札の半分を切って蓮に手渡した。
「田代香奈さん、マスコミなどに取材を受けることがあっても、矢上さんの本名はもちろん、探索士名は伝えないようにして下さい。公報で異探士の活動を公示する際には、この記号……NK-09-008を使用します。NKは中野、09は第九期傷病者特別派遣であること、008がレン君の番号になります」
「……分かりました」
香奈が緊張顔で頷いた時、敷地の中をベージュ色のマイクロバスが走ってきて門前に停車した。
「施設内には、携帯端末などの電子機器類は一切持ち込めません。入り口で身体検査を受け、所持していた場合は没収の上、ご家族に宛てて送付することになります」
「着替えだけです」
「ズボンには?」
「ありません」
蓮は、自分の服を見回した。吸汗速乾の半袖ポロシャツに、トレッキング用のズボンにナイロン製の軽登山靴という服装だ。ズボンの前ポケットには、財布。ズボンの後ろポケットにはミニタオルが畳んで入れてある。後は、ペンとメモ帳だけだった。
「では、あちらの車に乗って下さい。探知機を通した後、中身を確認した上でお返しします」
「分かりました。香奈……色々と世話になった。ありがとう」
蓮は、心配そうに見ている香奈に向かって笑顔を見せた。
「蓮、無理しないでね。気をつけて……お母さんにもよく言っておくから」
「落ち着いたら連絡するよ」
蓮は、安心させるように笑みを浮かべ、くるりと
空気が抜ける音と共に、細長い扉がスライドして開き、濃緑色の制服を着た女性が降りてきた。
「探索士名と本名を」
「レン、矢上蓮」
「……第九期傷病特派志願者ですね。歓迎します。バスに乗って下さい。すぐに訓練施設まで移動します」
「ありがとうございます」
蓮は礼を言ってマイクロバスに乗り込みかけ、守衛所の前で見送っている香奈を振り返った。
「香奈、ありがとう! 叔母さんによろしく!」
蓮は大きな声で言ってから、マイクロバスに乗り込んだ。
他には誰も乗っていない。
「扉を閉めます。着席してシートベルトを」
「はい」
蓮は近くの座席に腰を下ろした。
すぐに扉が閉まり、マイクロバスが走り始めた。いつまでも見送っている香奈の様子を窓越しに見て、蓮は小さく息を吐いた。
蓮の渡界については香奈の母親が強く反対したが、何とか説得して逃げるように出てきてしまった。
蓮は、何が何でもゾーンダルクへ行かなければいけなかった。
香奈は何も言っていなかったが、蓮の治療や入院にかかった費用、最新の義眼装着費用まで、全て田代家が負担してくれている。これ以上、ずるずると世話になり続けるわけにはいかなかった。
そして何より、日本にいても3年で寿命が尽きる可能性がある。マーニャが言っていたことが事実なら……。
「妹さんですか?」
助手席に座った制服姿の女が声を掛けてきた。
「従姉妹です」
「……そうでしたか」
「これから、何をすれば良いんですか?」
蓮は訊ねた。
「遺書を書いて頂きます」
女が言った。
「遺書?」
訊ねる蓮の眼を、女が無言で見つめ返した。
「"鏡"のこちら側では日本国の法が貴方を護ります。しかし、"鏡"の向こう側……ゾーンダルクへ行った後は、貴方を護る法も組織も存在しません。渡界者同士の
「……理解できます」
蓮は頷いた。
何をしても、誰からも咎められない場所……しかも、自分の命がいつ失われるか分からない危険な所に放り込まれて、理性的でいられる人間がどのくらいいるだろう。
「異界探索士が任務中に亡くなった場合、残された家族には遺族年金が支払われます」
「親や兄弟はいないので……従姉妹の家でも良いですか?」
「受取人の指定をしておけば、親子でなくても受け取ることができます」
「分かりました」
「定型の様式があります。受取人とあなたの名前を書き込むだけですよ」
女がタブレット型の端末を差し出した。
「助かります」
「では……こちらにどうぞ」
定型様式の遺書が表示された。実に手際が良い。
蓮は、受取人を香奈の母親である田代真理にして、今日の日付を書き入れ、最後に署名をした。
「これで、遺書登録が完了しました」
女が端末を操作しながら無表情に頷いた。
「それでは、これからの予定について説明します」
「はい」
蓮は頷きながら窓の外を見た。箱形の建物に入ったところで停車したと思ったら、床ごと地下へと降り始めている。ずいぶんと大掛かりな仕掛けだった。
「これから、地下にある簡易訓練施設に移動し、現在把握しているゾーンダルクについての情報共有、モンスターの討伐訓練、探索士資格についての説明を受けてもらいます」
「僕一人ですか?」
マイクロバスには、蓮しか乗っていなかった。
「いいえ、今回はあなたで18人になります。全員が傷病特派です。皆さん、怪我や病気を抱えていらっしゃいますが、可能な範囲で事前講習を受けて頂いています」
先に施設へ入った者達がいるらしい。
「そうですか」
「防空隊志望だったようですね?」
「はい。でも、演習中の事故で、両目を失ったので……」
「そうですか。何か……オンラインゲームの経験は?」
「ありません」
蓮は首を振った。
「珍しいですね」
「事故で記憶を喪失したので、覚えていないだけかもしれません」
「ああ、そうでしたか。あの偽神……と、我々は呼んでいますが、ゾーンダルクの創造神とやらは、現存するオンラインのFPSゲームを模した世界を構築しています。多少は、そういったゲームの知識があった方が現地で戸惑わずに済むと思います」
大人数が同時に参加できるFPSゲームを模した世界らしい。
「FPSですか?」
「ファーストパーソンシューターの略です。一人称視点のシューティングゲームですね」
「ああ……なんとなく分かります」
蓮は頷いた。もっとも、自分がやっていた記憶は無い。
「探索士として"鏡"に入った後は、名を聞かれても探索士名を名乗るようにして下さい」
女が端末に何かを書き込んでいた。
「学校の授業で、銃を取り扱ったことはありますね?」
「はい」
拳銃はもちろん、散弾銃や自動小銃、狙撃銃などを使用した実習を受けている。
「事故で、義眼になってからは?」
「ありません」
「戦技課で、ジェット機の操縦経験は?」
「ありません。滑空機とプロペラ機だけです」
「車両や船舶の操縦は?」
「装甲車と自走砲の操縦経験があります。船舶は、上陸用のボートだけです」
戦技課の授業のことだけはよく覚えていた。
「射撃は派遣前に訓練時間が設けられていますから、その時に……」
言いかけた女が口を
「まだ、規定のヒアリングとガイダンスが終わっていません! 実弾の取り扱いも指導していないんですよ?」
いきなり、女が誰かに向かって強い口調で訴え始めた。耳の器具は通信機らしい。
「そんなっ! 何のための訓練プログラムなのですかっ!? あくまでも有志の民間人なんですよ? 規定の手続きを無視するんですか!? 訓練が帰還率を上げることは実証されています! これは、必ず大きな問題になりますよ?」
(何か良くないことが起きたんだな)
蓮は、語気を荒げている女から眼を逸らし、暗い窓の外を眺めた。
マイクロバスは、深い地下にあるトンネルの中を走っていた。非常灯の明かりが右から左へ流れていく。
「新宿へ向かって」
女が感情を押し殺した声で、無人の運転席に向かって指示をした。
途端、運転席前方に表示されていた地図が消えて、『目的地:都庁』という文字が点滅した。すぐに、元の地図表示に切り替わる。
「渡界していた特派部隊が全滅しました。24時間以内に新たな人員を送り込まなければ、モンスターの
"鏡"からゾーンダルク側へ渡界している人間が、全滅した状態で丸一日が経過すると、1万匹のモンスターが"鏡"から溢れ出す。例の"偽神"が定めたルールだ。
「今、新たな志願者を募っていますが、24時間で集められるかどうかは不透明です。第九期の傷病特派予定者を代替要員としてゾーンダルクへ派遣させるべきだと……要請がありました」
女が硬い表情で告げた。
「向こうで、どのくらい生き延びれば増援が来ますか?」
「過去の例から……最短でも二週間かかります」
女が唇を噛みしめた。
「それまで生きていれば良いんですね?」
「はい」
「守衛の人に、着替えの入った荷物を預けているんですが……」
「直接、富士へ届けさせます。それから、ゾーンダルクについての情報を集めた資料と、少し型が古いですが銃や弾薬、糧食などの装備品を支給します」
女が端末を操作しながら言った。
「緩衝空間にある"ステーション"は安全なんですよね?」
偽神が創ったという安全地帯である。"神の啓示"によれば、怪我を癒やしたり、装備を整えたりするための
「安全ですが"ステーション"に滞在していても、ゾーンダルクに渡界したとはみなされないのです。"ステーション"から、ゲートという装置でゾーンダルクに渡らないと渡界者としてカウントされません。渡界後は、ポータルポイントという帰還地点を探しだして"ステーション"へ戻ることを目標として下さい」
ゾーンダルク側には、ポータルポイントという"鏡"に相当する物が存在するらしい。そこから、安全地帯である"ステーション"に戻れるそうだ。
「渡界中でも、地球時間の確認ができますか?」
「支給するアナログの腕時計は東京時間になっています。過去の異界調査チームが撮影した動画や断片的な情報、調査員による不確定な推論や気づきなど、調査報告書を用意してありますから、時間がある時に確認して下さい」
「分かりました」
蓮としては、とにかく"鏡"の向こうへ行けさえすれば良い。
「本当はゲートやポータルポイントなど、これまで得られた情報について一つ一つ説明をして、装備品の確認や訓練をしてもらうつもりでしたが……」
女が厳しい表情で、窓の外に見えてきた高層ビル群を見た。
(……あそこか)
特徴的な形をしたビルの屋上付近を、濃緑色のヘリコプターが周回しているのが見えた。都庁で輸送ヘリコプターに乗り換えて、富士へ向かうようだった。
(ぎりぎりまでステーションで準備して……)
後は、覚悟を決めてやってみるしかない。
『所属と姓名を』
車内のスピーカーから声が聞こえた。
見ると、路面に車止めが敷かれて、機動隊の車両が道路を封鎖していた。
「異探協、中野本部の立花薫。緊急派遣要請により、第九期傷病特派、異界探索士NK-09-008:レンを搬送中です」
女が淀みなく答え、手にした端末を蓮の前にかざした。
『……照合完了。ご苦労様です。D4から進入して下さい』
「了解、D4搬送路へ向かいます」
女の声を受けて、フロントガラスに経路が破線で表示された。道路を封鎖していた車両が移動し、蓮を乗せたバスが静かに間を抜けて走り始めた。
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レンは、傷病特派に志願した!
レンは、緊急渡界をすることになった!
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