第一章

第1話 再来

 するりと滑り込むようにして相手の懐に入り、その喉元にナイフの刃をあてる。触れるか触れないか。あと髪の毛一本分。彼女が動かなくても相手が動けば、その鋭く研がれた刃が皮を裂き、肉を斬り、骨を断つであろう。

 

「それまでっ!!」

 

 その掛け声で、彼女はナイフを相手の喉元から外した。ナイフが自分の首元から離れた瞬間、相手の男ががくりと膝をついた。額から汗が吹き出し、こぼれ落ちていく。本当に殺されるかと思った。後日、彼が語った一言である。それ程までにその刃には殺気がこもっていた。これは殺し合いではなく、特務部隊訓練所で予備生の卒業試験の一コマである。だが、彼の相手をした十二歳の少女のそれは、卒業試験で出すものではなかったのだ。

 

「勝者、デシデリア」

 

 審判をしていた特務部隊隊長のレオンティーヌがデシデリアの片手を高々と上げた。先程の殺気が嘘のように微笑む銀髪の少女。

 

 あれから五年。

 

 すぐに根を上げ逃げ出すかと思っていたお金持ちのお嬢様。蝶よ花よと可愛がられ苦労なく育ったお嬢様。

 

 それが、レオンティーヌの思惑から見事に外れ、ここ迄、成長したのである。

 

『末恐ろしい子だよ』

 

 上官に命令され仕方なく一緒に生活を始めたレオンティーヌとデシデリア。本当に生粋のお嬢様だったデシデリアに、生活の基本を一から教えなければ、何も出来なかった。そう、全ての日常生活動作に難があったのだ。

 

 朝起きて顔を洗う。洋服を着替える。歯を磨く。靴を履く。風呂へ入る……

 

 強くなる以前の問題が山積みであった。しかし、デシデリアはレオンティーヌから教わる事を、まるでスポンジが水を吸収するかの様に、瞬く間に覚えていった。

 

 きちんと教われば出来るのだ。

 

 そして、レオンティーヌはデシデリアを甘やかす事はなかった。これでもかと言うくらいに厳しく当たった。

 

 最年長は十八歳の男ばかりの訓練所。その中に入っていった七歳の少女は、時にはやり過ぎだとレオンティーヌが他の者達から止められる様な、その厳しい訓練を弱音一つ吐かずに食らいついていた。

 

 初めの頃は、あの屋敷の娘だという事もあり、腫れ物に触る様に接していた予備生達も次第にデシデリアを一目置く様になっていた。

 

 そして五年経ち十二歳になっデシデリアに敵う予備生は誰一人いなくなった。






「レオンティーヌ様、今日の夕飯は何が良いかしら?」

 

 訓練所からの帰り道。レオンティーヌとデシデリアの二人は市場の中を通っていた。夕飯の買い物をする為だ。ここ一年はデシデリアが食事を作っている。何も出来なかったデシデリア。しかし、今ではレオンティーヌが驚く程に料理の腕を上げていた。

 

「何でも良いぞ」

 

「もう、レオンティーヌ様。それが一番困ります」

 

ぷうっと頬を膨らますデシデリアに、レオンティーヌは苦笑いしてしまう。色んな表情を見せてくれる様になった。一緒に生活を初めて二年近くの間は、あまり表情の変わる事がなかったのだ。その頃はあの臭いがデシデリアの周りに纏わりついていたが、最近はあまり臭わなくなってきている。復讐心が薄れたのか?

 

 ……否、それはあるまい。それがデシデリアの努力を支えていると言っても過言ではない。なら……どうしてあの臭いがしなくなったのだ。

 

 レオンティーヌは自分の特殊能力が衰えたのかと思った時もある。しかし、デシデリア以外の者達からは臭いを感じる事が出来る。デシデリアだけである。デシデリアからは何の臭いもしない。無臭。人間としてそれは有り得ない。

 

 有り得るとするなら、感情を持たない人形ひとがたである。こんなにころころと表情を変えるデシデリアが感情を持っていないとは考えられない。

 

 レオンティーヌは一族に伝わる過去の文献を調べてみた。しかし、それらしい事は何も載っていなかった。

 

 それから暫くしてデシデリアは訓練所を十二歳ながら首席で卒業。晴れて特務部隊の一員となった。異例の事である。天才と謳われたレオンティーヌでさえ十五歳での入隊だったのだ。

 

「デシデリア……これで、お前も一人前の特務部隊隊員だ。もう、私と共に生活をする必要は無くなった。好きな所で暮らすと良い」

 

特務部隊入隊式が終わった夜、デシデリアの部屋を訪れたレオンティーヌが伝えた。すると、デシデリアの口から思ってもいない言葉が飛び出した。

 

「私はここにいては駄目ですか?」

 

 ここにいたいのか?

 

 その答えに戸惑いを隠せないレオンティーヌ。そのレオンティーヌへ歩み寄ってくるデシデリア。

 

 身長が百五十センチあるかどうかのデシデリアが見上げるように、百七十センチを越えるレオンティーヌを見つめている。

 

 大きくなった。

 

 五年前、七歳の頃は百二十センチあるかどうかだった。自分の鳩尾程しかなかったデシデリアが、今では顎の辺りまで身長が伸びている。

 

「駄目じゃないさ。ここにいたいならいると良い」

 

 レオンティーヌの言葉にデシデリアが喜色溢れた表情で笑った。

 

『私も年を取ったな……』

 

 以前の私なら追い出していただろう。レオンティーヌはそう思った。だが、今の自分にはそれができなかったのだ。いつも間にか、デシデリアと生活する事に慣れ、当たり前となったいた事に今更ながら気がついた。

 

「明日から本格的な任務が始まる。もう寝ろ」

 

「はい、おやすみなさい。レオンティーヌ様」

 

 デシデリアの部屋から自分の部屋へと戻ったレオンティーヌは、ワインをグラスへと注ぎ、その深紅の液体をゆらゆらとグラスの中で回すように揺らした。それを口にする。ほのかな酸味が鼻から抜けていく。ほうっと溜息を一つついたレオンティーヌ。窓の外に見える街並み。先程よりも家々の灯りが消え、暗い闇へと包まれ始めていた。






 そして、翌朝。

 

 新人隊員の朝は早く、デシデリアはレオンティーヌよりも一足先に家を出ていった。

 

 その少し後に家を出たレオンティーヌの元に副隊長であるカルラが慌てた様子でこちらへと馬を飛ばしやってきた。

 

「おはよう、カルラ。どうしたんだ、そんなに慌てて」

 

レオンティーヌの前で馬を停め降りると、息を切らし敬礼するカルラ。

 

「おはようございます、隊長。緊急事態です……あの五年前の切り裂き魔ripperが」

 

 どくんっ……

 

 デシデリアの家族を皆殺しにした切り裂き魔ripperがまたこの街に現れた。

 

 五年前、あの屋敷の事件を最後にこの街から姿を消していた。それが何故今になって……模倣犯ではないのか?

 

「いえ、それは無い様です。決して公表しなかったあの印が残っていたとの報告を受けています」

 

 どくんっ……

 

「隊長……?」

 

 知らず知らずのうちに自分の口角がきゅっと吊り上がっていた。慌ててそれを元に戻すレオンティーヌ。

 

「急ごう」

 

 二人は馬を飛ばし現場へと向かった。

 

 現場はとある高級住宅外のはずれにある一際大きな屋敷。その門を潜り馬を繋いだ。

 

 ぞわりぞわり……

 

 あの臭いだ。久しく嗅ぐ事のなかった悪臭。鼻の奥が痛くなる。

 

 玄関先でレオンティーヌとカルラに敬礼して出迎える隊員へ答礼し、早足で中へと入る二人。

 

 殺害場所は案内されなくとも、すぐに分かった。広間から玄関途中にあるホール。そこに数体の死体が転がっていたのだ。首が横一文字に斬り裂かれている。そして、その脇に丸の中にAと書かれたサインが残っていた。五年前と同じ筆跡であることは一目見て分かった。

 

 そして、あの悪臭の源であるデシデリアが無表情でホールの隅に立っているのが見える。ホール全体の監視を命じられているのだろう。新人はこの役目が多い。

 

 自分の方へ歩み寄ってくるレオンティーヌに気がついたデシデリア。

 

「レオンティーヌ様……」

 

「気をしっかり持って早まった事だけはするな……デシデリア。必ず私と共に行動しろ」

 

 レオンティーヌの言葉に頷くデシデリアが大きく深呼吸をした。少し悪臭が和らいだ事を感じたレオンティーヌは、ホールを抜け広間のへと続く扉を開けた。

 

 ここにも数体の死体が転がっている。予想は着いていた。だが、この広間に転がっている死体の殆どは幼い子供達である。どれもがデシデリアよりも幼い。

 

「……無残」

 

 ぎりりとレオンティーヌの奥歯の軋む音がする。カルラが特務部隊魔術班の班長を呼んだ。

 

 特務部隊魔術班班長、エメリーヌ。長く美しい金色の髪をした二十代半ばの女。その名の由来通り勤勉な性格をしている。

 

「何か分かった事は?」

 

「はい。五年前と違うと思われる事があります」

 

「違う事?」

 

「あの頃の切り裂き魔ripperは単独での犯行。しかし、今回は単独ではなく二人組かと」

 

「二人組……だと」

 

「はい。一人は間違いなくあの切り裂き魔ripper。もう一人は、かなり腕のある魔術師Magusかと」

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