病気とタバコと春

犬丸寛太

第1話病気とタバコと春

 三月の始め頃の昼。私は散歩に出かけようと思いたった。

 玄関を出ると思ったより寒い。エアコンで管理された空間から出るのはいつぶりだろうか。勿論外出はするのだが、季節を感じる為に外に出るのは半年ぶりかもしれない。

 近頃の私は職場と家の往復で季節を感じる暇も感性も失いかけていた。気づけば私はまた病気になっていた。どこが悪いのかわからない。わからないが何もできなくなってしまった。

 一旦休職したは良いものの、ひと月ほど経った今でも復職への道筋は見えない。

 職を辞めなければならないのだろうか。

 就職して、休職して、復職して、辞める。繰り返し繰り返し、もう五年は経っただろうか。

 なんとなく町へは行きたくなかった。私は人込みを避けるようにできるだけ寂れた方へ寂れた方へ足を進めた。

 生まれ育った土地だから、どこに何があって、どの道はどこへ繋がっているのか全てわかっているのだけれど、心の中では、妙な表現だが新しい終りを探し求めていた。

 知らない場所で終わりたい。

 終わりたい等と大層だが、別に自殺の場所を探している訳では無い。ただ、何も無い場所で、何も動かない景色を見つめながら、静かに呆けていたかった。

 私は気づけば生家の近くに足を運んでいた。小学生の中頃までを過ごした生家の周辺はとても静かだった。懐かしい日々、どんな景色も輝いて見えていた時代。

 春は遊びまわり、アケビ色の空を眺めていた。

 梅雨に入ると、アジサイを這うカタツムリを熱心に観察した。

 夏になれば、草むらで虫を追いかけた。

 秋になると、川辺で赤とんぼを捕まえる為に虫取り網を振り回した。

 冬は薄く積もって、泥まみれの雪を踏みしめた。

 毎日同じ場所で過ごしていたのに、毎日移り変わる世界にきっと私は目を輝かせていた。

 もはや遅い。私の目は澱んでしまった。

 どれだけ季節が変わっても、どれだけ地球が回っても、何も感じなくなってしまった。

 生家に立ち寄ろうと思ったが、もう誰も住んでいない事を思い出し、やめた。

 一緒に住んでいた祖父母が他界して随分久しい。

 思えば私は祖父母に何もしてやれなかった。可愛がってくれていたのに私はいつも不愛想だった。

 今更悔やんでも仕方のない事だが、どうにもばつの悪さを感じる。

 私は生家を通り過ぎ、入り組んだ路地へと歩を進めた。

 この辺りは漁師達の町で、狭い土地に押し込められたように家が詰まっている。日当たりなど全く考慮されず、家の分だけ路地が走りまるで迷路のようになっている。

 昔はよくかくれんぼだの鬼ごっこだので走り回った。その頃はもっと賑やかだったと思う。人の暮らしの匂いが、音が、明かりが狭い路地の隅々まで充満していた。

 しかし、月日は残酷なものだ。皆、新しい宅地へ居を移し、家主を失った家達は静かに終りを待っていた。

 季節は春へと向かっているのに、路地を抜ける風は冷え込んでいた。

 私はこの辺りに丘があったことを思い出した。記憶を頼りに路地を進んでいく。

 丘と言っても公園や展望台があるわけでもない。ただ、他の場所より少し高いというだけだ。

 幼い頃、ひとしきり遊んだ私は、もはや顔も忘れた友人たちとその丘でアケビ色に染まる町を眺めていた。

 見つけた。この坂道を登ればあの丘だ。

 階段も手すりも無い。ただ塗りつけただけのコンクリートの坂道を上る。

 細い細い坂道。右手には廃墟と化した家。左はちょっとした崖になっている。子供が落ちたらちょっとした怪我では済まないだろう。

 坂道はあっという間に終わった。建物でいえば三階建ての高さくらいだろうか。

 それでも、屋根の低い家が詰まった町を見渡すには十分だ。

 幼い私が走り回り、毎日を過ごしていた町はこんなにも小さかっただろうか。

 段差に腰を下ろし、タバコに火をつける。

 タバコの煙越しに無気力に町を眺めていると坂の下から子供たちの声が聞こえてきた。

 別に逃げる必要は無いのだけれど、私は急いでタバコをもみ消し、坂道を下る。

 狭い坂道を二人の子供が登って来る。

 少年たちを通すため、大人はすれ違えないほどの坂道の端で私は横向きになった。

 すれ違いざま、少年たちの話が聞こえてきた。

 一人がとっておきの場所を紹介すると言っている。

 もう一人の少年は眩しいくらいに目を輝かせている。

 そういえば私もそうやってここに連れてこられたのだ。

 駆け上がる二人の少年を見つめていると気づけば空はあの日々と同じアケビ色になっていた。

 逆光で少年たちの背中は影になっているはずなのにとても輝いて見える。

 少年たちを見送ると私は生家へと向かった。

 家の中は綺麗にされている。仏壇があるので親戚が時折手を合わせがてら掃除をしているのだろう。

 仏壇の前に座り久しぶりに祖父母へ手を合わせる。

 なんだか少し心の整理がついた気がした。

 もう少し、あとひと月ほどの辛抱だ。

 坂道の先に始まりが見える。

 春は必ずやって来る。

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病気とタバコと春 犬丸寛太 @kotaro3

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