桜時計

椿

桜時計

                     

「これはなに?」

 唯は華奢な指で一輪の白い花を指さした。病室の窓辺に置かれたそれは日の光を燦々と浴びて、病室の陰鬱な空気を嘲笑うかのように煌めいていた。

「水仙だよ。」

唯に教えて貰った花の名前を僕が教えることになんて少し前まで考えてもみなかった。

「かわいいね。真ん中が黄色くてアヒルみたい。」

そう言って唯はキラキラとした笑顔を浮かべた。


とても事故で生死を彷徨ったとは思えない笑顔だった。


「そうだね。」

 僕は窓の外をぼうっと見ながら適当にうなずいた。外にはどこまでも広い青い空が広がっていた。唯も僕を一瞥したあと、窓の外に目をやった。

「ねぇ、私この点滴ブチブチって抜いて外行ったらだめかな。」

「やめてよ、物騒なこと言わないでよ。」

 白い腕から伸びる管は点滴スタンドにゆらゆらとぶら下がるなんだかよくわからない透明の液体の入ったパックにつながっていた。僕は苦笑いした。唯ならやりかねない。もっとも、その足の怪我じゃ一人で外に行くのは無理だろうけれど。


「ダメか。」

唯は屈託ない笑顔を浮かべていた。

「絶対安静って医者に言われてるでしょ。」

僕は静かにそう言った。今も彼女の頬に残る事故の傷は痛々しかった。

「冷たいなぁ。あれ私って修二の彼女であってたっけ。それとも私がケガしてる間に世間の彼女の定義が変わっちゃったのかな。」

「なに馬鹿なこと言ってんの。そろそろ帰るよ。」

「今きたばっかりじゃん。五年も付き合ってたとは思えない薄情さだね。」

「時は金なり。」

「え、もしかしてそれって面白いこと言ってるつもり?」

「さぁね。じゃあそろそろ大学の授業が始まるから帰るね。」

 唯は駄々をこねていたたけど、僕は早々に話を切り上げて病室を仕切るカーテンに手をかけた。

「修二はまるで義務みたいに私の病室に来るんだね。」

唯の静かな声が僕の耳に響いた。

「は?」

カーテンを見つめたまま掠れた声を上げた。唐突な言葉に僕は思わず振り返った。

「つれない君への愚痴だよ。またね。」

 唯は穏やかな声とは裏腹に冷たい目で僕を見つめた。すべてを見透かしたような目が怖かった。彼女の言葉を振り切るように、微かに震える手でカーテンを開けて病室を後にした。病院を出ると窓辺で見たのと少しも違わない青空が広がっていた。カレンダー通り春と呼ぶにはまだ肌寒くて、僕はよれたアウターのチャックを閉めて歩き出した。



 ガチャリとドアノブを回して玄関に入ると、ポストに配達された新聞が玄関に散らばっていた。唯が入院してからは片付ける人も居なくなってしまった。

大学から帰るとすっかり日も落ちて、部屋は薄暗かった。彼女が選んだ趣味の悪いハート柄のコップに熱いお湯を並々と注ぎながら、今日やらなければならない課題を頭の中でグルグルと考えた。

明日までに教職の課題が提出だっけ。あとインターンの締め切りもあるんだ。くしゃくしゃになってリビングに落ちている服を見て不意に昼間の唯の言葉が思い出された。


「義務みたいに」か。


何を考えていてもその言葉が頭の片隅を離れなかった。右を見ても左を見てもこの家には唯の面影が感じられた。息が詰まりそうな思いで僕は散らばった洗濯物を畳み始めた。

この家で過ごしたことも彼女は覚えていないのだろう。





唯は事故の後から少しだけ記憶がおかしくなっていた。

記憶の中に思い出せるものと思い出せないものが混在しているらしかった。


事故があって数日後、僕は病室に小さな椿の苗を持っていった。

その日も今朝のような晴天だった。


「私、花が好きなんだ。」

唯は艶やかな赤い椿を指さしてトラックに轢かれた後だとは思えない笑顔で言った。

「そっか。」

「それなんだっけ。思い出せないんだよね。」

「これは…。椿だよ。」

僕の彼女に対するここ数日の違和感が、唯のよそよそしさの正体が確信に変わった瞬間だった。何よりも花が好きな唯が椿の名前を忘れるはずがなかった。

「唯、僕のこと覚えてる?」

「覚えてるよ。津田修二だよね。」

「そうじゃなくて。僕は唯にとって何だった?」

「高校の友達。」

唯はくったいのない笑顔でそう答えた。

息が詰まった。

唯は僕と付き合っていた五年間を全て忘れていた。




それが唯に対する違和感の正体だった。事故の後から唯は日常の中に少しづつ思い出せないものや記憶が途切れていることがあった。不幸中の幸いか両親や兄弟のことは殆ど覚えていた。だからこそ皆、彼女の記憶の混乱に中々気づけなかったのだか。


「高校時代の友達って、僕そんなモブじゃないんだけど…。」

明日の唯の着替えを準備しながらつぶやいた。寝ても覚めても隣にいる彼女のことを僕は正直鬱陶しいと思っていた。けど、全てを忘れるなんて。でも忘れた方が唯は幸せだったかもしれない。あの頃の僕達は情で首の皮一枚繋がっていただけだったから。くだらないことを考えていると時刻は午前十二時を回っていた。僕は以前よりも広くなったさみしいベッドに横たわり、電気を消して眠りについた。


「おはよう。」

今朝も仕切られたカーテンを開けると待ち構えていたかのような爛々とした目が僕を迎えた。元気な挨拶とは裏腹に唯はほんの少し顔色が悪かった。日の光に照らされた横顔はまるで病人のように青白かった。

「おはよ。今日は元気ないの?」

「そんなことないよ。」

唯は目を逸らして小脇にあるポシェットから赤色のスマートフォンを取り出した。

「じゃっじゃーん。見て、ケータイ壊れたから買い換えたんだ。これでいつでも修二と連絡できるね。」

「そうだね…。」

 僕は曖昧に返事をして持ってきた荷物をベッドテーブルに置いた。

「はい、これ着替え。あとこっちの紙袋に切り花が入ってる。」

 マンションの管理人に許可を貰って敷地の木から切り取ったものだ。処理の雑な切り花だった。以前の唯になら叱られただろう。しかし目の前の彼女は無邪気な笑顔で喜んでいた。

「わぁ、ありがとう。でもこのままだと私の病室が植物園になっちゃうよ。」

気づいてみれば確かにこの病室には至る所に色とりどりの花が飾ってあった。唯が入院してから毎日持っていっていたから相当の量になるのも当然だった。唯の的確な一言に僕は思いがけず口角が緩んだ。


「やっと笑った。」


 唯が微笑んで僕の冷たい手にそっと触れた。

「修二が病院で笑ってるの、初めて見たよ。」

僕は驚いて唯の手を跳ねのけてしまった。



「ごめん。」



唯は少し傷ついたような顔をして机に置かれた切り花を見た。

沈黙が走った。弁解の余地を与えない静寂だった。

唯はその空気に耐え切れなくなったように言葉を紡いだ。

「ねえ、これはなんの花?」  

唯は薄黄色の花がついた枝を紙袋から取り出して、近くにあった透明なペットボトルに活けた。その花びらは青空に透けてしまいそうなほど薄くて儚かった。


「蝋梅。」


唯は考え込むように蝋梅の黄色い金平糖のような花びらをしばらく見つめていた。

「高校の帰り道にさ、川沿いを散歩したよね。」

「え?」

「蝋梅を見に行ったんだよ、一緒に。それで…。」

「一緒に見たのは蝋梅じゃないよ。」

「あれ、そうだっけ。」

「桜だよ。」

「桜か。あんまり覚えてないや。今度また見に行こうよ。」

「そっか。いいよ。早咲きの桜はもう咲いてるみたいだね。」


唯は好きだった花を見ていると、時々こうして記憶を取り戻しているような素振りを見せることがあった。何よりも好きだった桜の花を見れば、今よりももっと多くの事を思い出せるかもしれない。


「病院にも桜の木があるって看護師さんが言ってた。楽しみだな。」

そう言って唯は黄色い蝋梅を白い水仙の隣に飾った。

「じゃあ、着替えも届けたしもう帰るね。」

僕の一言に唯は眉根を下げた。

「今日も早いなぁ。」

「授業だから仕方ないでしょ。」

「授業じゃない日でも早く帰るくせに。」

「ごめんて。また明日も来るから。」

「じゃあ今日、家に帰ったら必ず私にメールすること。」

僕はだらしなく肩にかけていたてリュックを背負い直し、カーテンに手を掛けた。

「わかった。じゃあね。」

「またね。」





看護師が忙しそうに歩き回っているナースステーションを通り過ぎて、いつものようにエレベーターに向かった。そこで僕は思いもよらない人に出会った。

「修二くん?」

唯の母親だった。お母さんは唯とよく似た目をしていて、お見舞いに来るには上品すぎる服を着ていた。彼女は僕を見て遠慮がちに口を開いた。

「久しぶり。」

服のように上品な声だった。お母さんと顔を合わせるのはこの病院に唯が運ばれてきて以来だった。ずっと鉢合わせないように時間をずらしていたのに今日は運が悪かった。

「お久しぶりです。」


「少しいいかしら。」


「はい。」


お母さんは僕をナースステーション近くのベンチに案内して、しどろもどろに口を開いた。

「今年は退院したら唯を実家で過ごさせようと思って。どちらにしろ、今年は大学も休学しなければならないし。家賃のことは心配しないで、必ず払いますから。ご迷惑をかけてしまってごめんなさいね。」



そう言われると思っていた。きっとお母さんは僕らの愛のないただれた関係を見抜いていたのだろう。


いや、それとも唯が言ったのだろうか。



「そうなんですね、わかりました。僕のことはお気になさらず。彼女もご家族と一緒にいた方が安心できますし。退院までには唯の荷物をまとめておきますね。」


お母さんはほっとした顔をした。


「二人の邪魔をしてしまってごめんなさい。ありがとう。」

「いえ、それでは失礼します。」

僕はベンチを立ってちょうど来たエレベーターに乗り込んだ。




学校が終わって家に帰るとため息をついて書類棚に手を付けた。

実家に帰るのに何が要るんだっけ。保険証にパスポート、それから年金の申し込み書

もか。えっと、これが僕のでこっちが唯のか。


めんどくさ。


紙でごった返している棚から唯のものだけを探すのは一苦労だった。束になった唯の貴重書類を次々に彼女のカバンに放り込んでいった。その中に懐かしい物を見つけて僕はその手を止めた。

随分前に唯から貰った手紙だった。

こんな所に入れてたんだっけ。

中を開けると桜柄の便箋には唯の丸い文字が書き連ねあった。

手紙は唯の近況から始まって、最後は「愛してるよ」で締めくくられていた。

「愛してるよ」、か。

桜の便箋を眺めながら僕は唯に告白した日のことを思い出していた。







あの日も桜が咲いてた。高校の帰り道、川沿いでひらひらと散る桜が夕日に照らされていた。ブレザーにかかった茶色の髪が桜の花びらを反射してゆらゆらと揺れていた。

「帰り道に来たかったのってここ?」

僕は堤防の柵に寄りかかりながら唯の顔を見た。彼女は満足そうな笑顔を浮かべていた。

「そうだよ。私、桜の花が一番好きなんだ。」

「そっか。僕も桜が一番好きかな。」

唯の好きな花が僕も好きだった。

「キレイだね。」

そう言って唯は両手を上にあげた。頬を赤くして薄ピンク色の花びらを全身に浴びる彼女はまるで天使のようだった。

「確かに綺麗だね。」

「私きっと一生忘れないよ。修二と見たこの綺麗な桜。」

 その横顔に好きだという気持ちが喉までせりあがった。桜を映す唯の目を見た。

「好きだよ。」

ずっと隠しておくつもりつもりだった。思わずその言葉が口から出てしまったのはきっと桜の花のせいだ。僕は祈るように唯の顔を見た。


彼女は桜みたいに満開の笑顔をしていた。







あの時は惰性だなんて考えたこともなかった。あの時確かにあった愛情は沢山の時間と問題を抱えていつしか情に変わってしまった。

その証拠に僕は今、自分が見つけた手紙とは別にもう一通、見つけてはいけない手紙を見つけた。それは僕が記念日に唯に宛てて書いたものだった。


僕はそれを彼女のゴミ箱から見つけた。


唯はもうこのことを覚えてはいないのだろう。


僕はくしゃくしゃになってひどく醜くなったそれをアウターのポケットにしまった。


思えば幸せだった時間は線香花火みたいにあっという間だった。僕は何を考えるのも嫌になった。唯の部屋を漁るのを辞めて、まとまった分の彼女の荷物を玄関に置いた。寝室の電気を消して心地よい広さのベッドに横になった。









今朝はひどい雨だった。

僕はずぶぬれになったパーカーの袖をたくし上げて病室のドアを開けた。

雨のせいか平日だからなのか共同病室の見舞客は一人もいなかった。患者が仕切られたカーテンがただ静かに並んでいた。

「おはよう。」

唯の居るカーテンを開けると、彼女は降りしきる雨を茫然と眺めていた。

「どうしたの?」

唯は黙ったままだった。彼女はテーブルから静かにケータイを引き寄せた。


「メール。してくれるって約束したよね。」


唯の声は雨のように冷たかった。僕はうつむいた。湿った紙袋の紐を強く握った。


「ごめん。忘れてた。」


「ねえ。」

唯はケータイをそっとベッドの上に置いた。そして普段温厚な彼女から考えられない

ほど唯は鋭い目で僕を見つめた。




「君はどうして毎日ここに来てくれるの?」




どうしてって言われても。

「唯が心配だから。」

「違うよ。」



 唯は僕から目を逸らさなかった。全てを見透かしているような目だった。



「修二は私のことちっとも心配だなんて思ってないでしょ。」

「修二が病院に来る理由、当ててあげるよ。」

唯は声を震わせて叫んだ。

華奢な体からは想像もできないほどの声だった。

「私が彼女だからでしょ。私がそういうキャラクターだから、そういう設定だから、彼女のお見舞いに来ない彼氏なんていないから。義務だから。」



何も知らない、何も覚えていないからこその無垢な言葉が鋭く僕の心をえぐった。

彼女は続けざまに言った。

「何もわからないほど、私がそんなに馬鹿に見える?」

唯は震えた手で赤いケータイ電話を握り締めた。

「違うよ…。」

僕は自分にできる精一杯の否定をした。

バシャっという音がした。彼女の手元にあったコップの水は空になっていた。

代わりに僕の黒い髪からはポタポタと水が滴っていた。

「帰ってよ。」

唯はうつむいて紙コップを握りしめていた。

僕は黙ってカーテンを開け放った。

去り際に見た唯の目はほんの少し赤かった。

病室にはガタンとドアを閉める音と雨音だけが響いていた。


病院を飛び出した。

途中廊下を走って看護師に怒鳴られたがそんなことはどうでもよかった。

片手でくしゃくしゃにされた唯に宛てた手紙をポケットの中で探った。


「お前だって。」

涙で滲んだ病院の帰り道には大嫌いな桜の花びらが絨毯のように敷き詰められていた。









玄関を開けると相変わらず部屋の中は真っ暗だった。

僕は靴を脱ぎ捨ててリビングに向かった。

棚から手探りで唯がくれた手紙を取り出した。僕はその桜の便箋をビリビリに破いた。八つ当たりだということは分かっていた。だけれども僕の中にあるどす黒い感情を抑えることはできなかった。


目を背けたいことばかりに向き合いなさいと言ってくる唯は

本当に嫌な女だ。

 












その日、僕は彼女がまだ事故に遭う前の日の夢を見た。

カーテンから漏れる朝日で目を覚ますと、まだぐっすりと眠っている唯の横顔があった。僕が起きたのに気付いて彼女も気だるそうに瞼を開けた。

「おはよう。」

「おはよう。」

ぐでぐでと寝ている僕をよそに、唯は上半身を起こしてだれたパジャマを着直した。

「朝ごはん作るね。ちゃっちゃと準備して。今日は行きたい所があるんだから。」

「寒い。もう少し寝てたいよ。」

僕は布団を手繰り寄せて駄々をこねた。

「だーめ。」

 唯は僕のひたいにキスをしてベッドから立ち去った。

唯がいなくなったベッドには彼女の髪の甘い香りだけが残っていた。













まだ薄暗い部屋の中で僕は目を覚ました。静かな朝だった。

「夢か。」

当たり前のように唯は隣に居なかった。

彼女が居ない部屋の中はやけに広くて、とても暗かった。

僕はおもむろに唯の使っていた枕を抱き寄せた。

寝ても覚めても隣には変わらない彼女の顔があった。

そんな変わらない日常に絶望に近いものを感じていた。

でも僕は変える勇気も行動力もなくて、彼女と一緒に過ごし続けてきた。


いや 


長い間一緒に居すぎて彼女が居ない時間に耐えられるのか僕は不安だったんだ。

彼女が居ない毎日が僕には想像できなくて、そんな毎日に耐えられるのか怖くて、僕は唯からずっと離れられなかったんだ。

惰性なんかじゃ、義務なんかじゃなかった。僕は僕がそうしたいから

唯を愛していたから彼女の隣に居続けたんだ。

「馬鹿だな。」

薄暗がりの中でこぼれ落ちた涙がきらりと頬を伝った。











今朝も昨日のように外は相変わらずどんよりとして絶え間なく雨が降り続いていた。僕は病室のドアの前に立っていた。廊下では看護師が忙しそうに行きかっていた。

本当にこの扉を開けても良いのだろうか。

僕は思わず後ずさりした。

でもここで逃げる訳には行かない。

僕はドアを開けて病室へ踏み出した。

昨日のように共同病室の人はまばらだった。彼女のベッドがあるカーテンを開けると唯は上半身をゆっくりと起こして、昨日と寸分違わない鋭い目で僕を見つめた。長い沈黙が走った。病室には雨音だけが響いていた。先に口を開いたのは唯だった。



「君はどうして毎日ここに来てくれるの?」



昨日と同じ質問だった。

まるで答えは出たのかと問いただされているようだった。僕は唯の目を見て答えた。



「君を愛してるから。」



僕はこんな簡単な答えに昨日やっと気づいたんだ。

その時間は沢山あったはずなのに。


唯は何も答えなかった。ただじっと僕の目を見つめていた。

「唯は怒ってるんだろ。どうして僕が唯にこんな態度を取るのか、分からなくて僕を疑ってるんだろ。唯が僕の態度に傷ついてたことくらい分かってるよ。五年も一緒に居たんだから。」


僕はくしゃくしゃになった手紙をポケットから取り出して唯の前に置いた。

 

「でも僕だって傷ついた。苦しかった。こんなことする君が嫌いだった。いきなり今までのことを忘れてリセットなんて僕には無理だよ。君が覚えていない時間の中に僕らは沢山のわだかまりを抱えているんだ。それを分かって欲しい。自分勝手なのは分ってるけど、もう少し僕に、僕達が失くした時間を、惰性だと思って過ごしてた時間を埋める機会を下さい。」


唯は繊細な指でしゃくしゃになった手紙をゆっくりと広げた。

彼女は噛み締めるようにその手紙をしばらく眺めていた。


「ごめん。」


唯は小さな声でつぶやいた。

「私はあなたの事がわからなかった。いきなり私は修二と付き合ってた。恋人だって言うくせに、嫌々病室に来たりして。冷たくされて。訳が分からなくて、怖かった。でも君にそんなことさせた原因は私の方にもあったんだね。」


そう言って唯は大きな目に涙を溜めた。

「水掛けちゃってごめんね。手紙のこと覚えてなくてごめんね。私たち、お互いを知る時間が足りなかったね。」


唯はうつむいて手紙の上に涙を落とした。


「ごめん。謝らないで。唯は何にも知らないのに。唯は何も悪くないのに。」

僕は震える唯の手をそっと握った。


気づけば降り続いていた雨は止んでいた。












その日は病室の窓から清々しい程の青空が顔を覗かせていた。

共同病室はいつものように見舞客で賑わっていた。

僕は片手にいつものように唯の着替えと花を詰めた紙袋を下げていた。彼女の病室のカーテンを開けると唯はベッドではなく、車椅子に座っていた。パジャマに外出用の茶色いコートを羽織っていて何だかちぐはぐな恰好だった。

彼女は包帯でグルグル巻きにされた華奢な足をゆらゆらとさせていて見てるこっちを不安にさせた。

「楽しみにしてたよ!」

唯は僕を見上げて顔をほころばせた。 

「お待たせ。行こうか。」

病室の机に紙袋を置いて唯の車椅子の持ち手を握った。

エレベーターを降りて病院の出入り口まで行くと少し前より暖かくなった風が吹き抜けた。彼女の長い髪がさらりと揺れた。

春の訪れを告げる風だった。

「随分と温かくなったね。」

「私ずっと病院の中に居たからあんまり違いがわかんないや。病院の桜、まだ咲いてるかな。」

「来るときに確認してきたけど、結構散り始めてはいたかな。」

僕の言葉を聞いて唯は小さな肩をさらに小さくさせた。

僕達はスロープを降りて桜の咲いている病院の駐車場へと向かった。

「あ、あれあれ。」

唯の車椅子をできるだけ桜の傍に近づけた。


彼女は五年前の帰り道のように桜を見て満面の笑みを浮かべていた。

「すごい。キレイだね。」

「やっと一緒に桜を見る約束がはたせたね。」

唯はまるで初めて桜を見る人のようにはしゃいでいた。

目をキラキラと輝かせて、ころころとその表情を変えた。


「私、桜の花が一番好きかも。」

「僕もだよ。」


その笑顔を見て僕も思わず笑みがこぼれた。

事故から一ヶ月が経ったけど相変わらず彼女の記憶は空っぽのままだった。でも例え記憶が戻らなくても余った隙間はこれからの僕達の時間で埋めていけばいい。


降りしきる花びらの中にいる彼女はやはり天使のようだった。

そのこげ茶色の瞳にはひらひらと散るピンク色の桜が映っていた。

唯は魅入られたように桜が散っていくのを眺めていた。

不意に彼女が僕の顔を見た。



「高校の帰り道に桜の花を見にいったよね。私思い出したよ。忘れなかった。」

桜を映した彼女の目には涙が浮かんでいた。

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