第3話

 妻は、騒がなかった。

 内心で舞い上がっているだろうことは上ずった声で丸わかりだが、周囲の目を気にしているのか「コレチカ君!」と叫ぶこともなかった。

 握手を求めたあとで、ドラマを観ていること、ファンだということを、あくまで冷静に説明する妻に、長谷川は笑顔で対応した。

「どうしてこんな田舎に? 撮影か何かですか?」

 頬を上気させた妻が訊ねると、長谷川は「明日、中学の同窓会があるから帰ってきたんです」と静かに答えた。

 心臓の音が、やかましい。破裂しそうなほどに激しく鼓動を打っている。

 どうか俺のことに気がつきませんようにと祈り続けていた。

「ここがコレチカ君の故郷なんて、夢みたい……。あの、同窓会のくだり、ドラマに絡めたネタかと思ってました」

「あ、先日放送の、観てくださったんですね」

「はい、もう、イジメ、絶対許せないです」

 体ごと、隣のテーブルを向いて憤る妻。俺は顔を伏せ、コップを両手で握り締めた。

「あれはテレビ用なんで、実際そんなに悲惨じゃなかったんですよ」

「でも、登校拒否になったんですよね? やっぱり、悪者退治に、復讐しに戻ってきたとか?」

 嫌な汗が止まらない。喉から心臓が出そうだ。気分が悪い。

「バレちゃいましたか」

 長谷川が言った。

 頭が、真っ白になる。

 わなわな震える手に、コップからこぼれた水が降り注ぐ。

「お掃除の時間です」

 長谷川が声色を使って言うと、妻がキャアーと歓喜の声を上げる。

「もちろん、冗談ですよ」

「やだ、コレチカ君、面白い。もっとファンになっちゃった」

 あはは、うふふ、と笑い合う声がやけに遠くで聞こえた。

 俺は、気を失いかけている。

「あれ? そういえばヨシ君も明日中学の同窓会だよね?」

「ヒッ」

 無様な悲鳴が漏れてしまった。

「え? まさか同じ中学校? 同い年だし、学年も一緒だよね?」

 がし、と腕を掴まれて、気を取り戻した。妻が激しく揺さぶってくる。恐る恐る長谷川を見ると、目が合った。俺が誰か、わかったらしい。

「……松島、君?」

 名前を呼ばれたら言い逃れはできない。

 終わった。

 コレチカット臭の名付け親はこいつですと、きっと、ぶちまけられる。

「やっぱり同級生? なんで黙ってたの?」

「ちが、違う、ただ、忘れてて」

「あのリコーダーのエピソード見ても思い出せなかったの? おかしくない?」

 妻が疑わしそうに言った。

「その日は俺、休みだったのかな。全然、覚えてなくて」

「何その言い訳。ヨシ君もしかして」

 長谷川が、まあまあと妻をなだめた。

「一年生で登校拒否になって、それ以来ずっと学校行かなかったんで、記憶に残らなくても無理はないです」

「でも」

「うどん、来ましたよ。食べてください」

 お盆を持った店員が、妻の剣幕に押されて棒立ちになっている。

「それじゃあ、お先に失礼します」

 テーブルに二つの丼が置かれると、長谷川が席を立ち、頭を下げた。

「ずっと応援してます」

 妻が言うと、長谷川が「ありがとう」と頭を下げつつ、目線を下に動かした。

「幸せですね」

 その言葉の意味に気づき、妻が自分の腹を撫でた。表情は、翳っている。

 長谷川は俺に軽く会釈をして、店を出た。

 俺たちは、うどんを食べた。

 妻は、一言も喋らない。

 うどんは、味がしなかった。

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