エンジェリック・バレット

黒陽 光

プロローグ:月夜に煌めく金色の瞳、四二五〇メートルの彼方から

 プロローグ:月夜に煌めく金色の瞳、四二五〇メートルの彼方から



 真夜中、とあるビルの建設現場。格子状に組まれた鉄骨が辛うじてシルエットを形作っているような、そんな作りかけのビルの中腹に……一人の乙女が腹ばいになって伏せていた。

 深夜の静寂に包まれた空気を肌で感じながら、静かに伏せるその乙女。一七七センチの長身と、それに見合うだけの長く華奢な両足を投げ出した格好で伏せるその乙女は……名をレイラ・フェアフィールドといった。

 真っ青な髪はセミショート丈、クールな切れ長の瞳は満月のように輝く金色。肘下辺りで袖を折った黒いジャケットを白いキャミソールの上から羽織り、下はデニム地のショートパンツに黒のニーハイソックス。足を包むのはナイフポケット付きの焦げ茶のロングブーツ。そんな格好で、レイラはこんな真夜中、こんな場所で息をひそめていた。

 誰も彼もが寝息を立てているような、静寂のみが支配する深夜の頃合い。草木も眠る丑三つ時をとうに過ぎたこの時刻に、しかしレイラはその神経を研ぎ澄ませている。

 その理由は――――彼女が右手を銃把に添えるライフルこそが、何よりも雄弁に物語っていた。

 伏せるレイラが構えるのは、マクミランTAC‐50対物狙撃ライフル。キロメートル級の狙撃の為にあつらえられた、大口径のボルト・アクション式スナイパーライフルだ。

 それを、レイラは背を低くした三脚……トライポッドの上に乗せる形で安定させ、伏せ撃ちの格好で構えている。

 レイラはそんなマクミランの上に乗った狙撃スコープ、ナイトフォース製の高精度スコープ越しに、遙か彼方の景色をその右眼でじっと見つめ続けていた。

「…………」

 彼女がスコープ越しに見つめるのは、ある身なりの良い男の姿だった。

 今まさに黒塗りのメルセデス・ベンツの後部座席から降りてきた男、フルオーダーメイドのビジネススーツで身を固めた……四〇代後半ぐらいの男だろうか。顔つきや肌の色からして、どう見ても日本人ではないその男の周りには、何人もの護衛らしき黒服の男たちの姿もある。

 その男は半年ほど前に崩壊した、ある世界規模の巨大財団の元幹部。生き残りともいえる立場にある男だった。

 レイラはその元幹部の男を撃ち抜くため、こうしてスコープ越しにじっと彼を睨み付けている。

 ――――その距離、およそ四二五〇メートル。

 彼女がライフルを構えるビル建設現場から、男の場所までの距離はおよそ四二五〇メートル。とてもじゃないが、人間が狙える距離を超えた超長距離狙撃だ。

 参考までに述べておくと、公的に認可されている狙撃の最長記録はざっくり三五〇〇メートルちょっと。その記録から七〇〇メートル以上も遠い距離から、レイラは狙いを定めていたのだ。

 これほどまでの超長距離狙撃となると、風向きや風速、気温や湿度の他に、地球そのものが自転する速度まで考慮に入れて計算しないとならない。何キロも先の風向きなんかも読んで、計算に入れて……その上で撃たねばならない、極限までロジックな世界なのだ。超長距離狙撃の世界は。

 着弾までにかかる時間は、超音速の弾丸を以てしてもおよそ十数秒。そんな永遠にも等しい時間、その中での自然環境の変化や、標的の動きまで読まなければならないのだ。

 ――――とてもじゃないが、人間業ではない。

 三五〇〇メートルでも凄まじい話なのに、それ以上の四二五〇メートルというのは……ハッキリ言って、人間が出来る範囲を超えた話だ。ほぼ不可能だと言ってもいい。

 だが――――彼女ならば、その不可能を容易に可能に出来るのだ。他の人間には不可能でも、彼女になら……レイラ・フェアフィールドになら、それが可能なのだ。彼女だけが持つ、人間離れして研ぎ澄まされた感覚ならば。

「ふぅ……っ」

 レイラは小さく息をつきながら、そっと狙いを定める。

 標的を確認。あそこまでの距離は既に計測済み。風向に風量、今日の気温や湿度……後は狙撃地点からの高低差も全て考慮に入れ、弾道は計算済み。

 後は……この研ぎ澄まされた感覚を信じて、最終調整をするだけだ。

「……今日の空気は、綺麗なエメラルドグリーンね」

 呟きながら、レイラは左手でスコープのウィンテージ・ノブ、即ち左右調整のノブをひと目盛り分だけ左に回す。

 彼女には見えるのだ、空気の色というものが。それは彼女にしか認識できない世界、レイラ・フェアフィールドにしか感じ取れない世界の話。レイラはそれを頼りにスコープの最終調整をして……そっと、ライフルのボルトを引く。

 開いた排莢口から、大きな五〇口径のカートリッジを一発、装填する。

 装填する前に弾頭へ小さくキスをして、それから薬室に挿入し。ボルトをそっと戻して閉鎖すれば、レイラはライフルを構え直す。

「ふぅ…………っ」

 少しずつ息を吐き出しながら、全神経を右眼と人差し指に集中させ――そして、レイラは引鉄ひきがねを引いた。

 ――――五〇口径のけたたましい銃声が、真夜中の工事現場に木霊する。

 右肩を襲うのは鋭い反動、視界に瞬くのは銃口から噴き出た激しい火花。雷鳴のような銃声とともに撃ち出された五〇口径のライフル弾は、十数秒の長い時間をかけて飛翔し……レイラの思い描いた通りの弾道を描けば、そのまま綺麗に男の側頭部に飛び込んだ。

 レイラの見つめるスコープの中、四二五〇メートルの向こうで、男の頭がパンッと弾けるように消し飛ぶ。

 首から上が、文字通り消し飛ばされたのだ。赤い血煙となって頭が消えた男は、当然即死。首から上が無くなった身体がバタンと地面に倒れれば、護衛の男たちは泡を食ったように騒ぎ出すが……そんな喧噪も、これほどまでの遠距離となっては聞こえるはずもない。

 見事なまでの一撃必殺、ワンショット・ワンキルだった。

「…………標的の排除を確認。仕事は終わりね」

 小さく息をつき、呟きながらレイラはライフル片手に起き上がる。

 伏せ撃ちの構えから膝立ちの格好に起き上がり、ライフルを片手に遙か彼方を見据えつつ。今まさに自らが成し遂げた、常軌を逸した超長距離狙撃の感慨に浸ることもなく……レイラ・フェアフィールドは月夜の下、ただ遠くを見つめていた。その金色の瞳に、月明かりを反射させながら。





(プロローグ『月夜に煌めく金色の瞳、四二五〇メートルの彼方から』了)

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