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時計の短針と長針が重なった時、あたしの頭の中で警告にも似た鐘の音が鳴る。
足もとを見ると、ひっ、と情けない声が漏れる。毎日ではないが、頻繁に現れるそいつに、あたしはいまだに慣れることができずにいる。足もとに目を向けると、薄暗い部屋に茶褐色のフローリングという場所でも目立つ赤黒いしみのようなものが、人の顔らしき形を作っていた。その顔をあたしは知っている。夜中のたった数時間程度のことだが、一度見てしまうと、そいつが消えるまでの時間は数日間の出来事ようにも感じてしまう。
真夜中零時を過ぎると現れるそいつに、ここ数年、あたしは悩まされ続けてきた。
この顔は、あたしの人生の汚点だ。
気のせいだ、と思い込もうとした時期もあった。カーペットでその部分を覆い隠して、そんなしみなど存在しないもののように扱ってみたこともあったが、一時しのぎにしかならず、次は壁に、次は天井に、と結局そいつはあたしの視界のどこかに入り込んできて、解決策にならないと知り、そういった対策はもうやめてしまった。
耐え切れず住む場所を変えても、そいつは追い掛けてきた。そのしみが狙うのはあたしであり、住む場所がどこかなど、どうでもいいに違いない。あたしはそれを知っているからこそ、落胆こそあったが驚きはすくなかった。
恐怖はいつまでも変わらずにあったものの、その恐怖と同じくらいに、そいつに対する憎しみが日に日に強まっていく自身の心の内にも気付いている。
だってあたしはこの顔を知っている。
なんであたしばっかりこんな目に遭わなければいけないの……。死んでもなお、彼はあたしの心を苛んでいく。
真夜中の来訪を告げるインターフォンの音が鳴り、突然の、予想もしていなかった音に、あたしの口から思わず、ひっ、というさっきと同じ声が、さっきよりも大きな声で出てしまった。ぴんぽーん、と高く響くこの音が本当に嫌いだ。あたしはドアホンのモニターから来訪者の片割れの顔を確認して、安堵とともにオートロックのドアを開ける。そして玄関のドアの前でいまから来るふたり組を待つことにした。
ひとりは顔さえも知らない相手なので、やはり緊張してしまう。
「あら、そんな部屋の前で待っていなくてもいいのに」
「いえ、そんな。ずっとお待ちしていました」
実際は母親と息子くらいに年齢が離れているはずだが、外見からは姉弟ほどにしか変わらないように見える男女のふたり組は、独特な雰囲気を纏っていた。男性のほうはあたしとそれほど年齢も変わらないような見た目で、この若い男とはすでに何度か会っていて顔は知っていたのだが、ふたりが揃った状態で見ると、より不思議な印象を抱いてしまう。
「ごめんね。事前に連絡もなく、急に来て。どうしても嫌な予感がしたものだから。近くを通った時に嫌な予感がして」
「そちらのコウさんから、急に行くことがあるかもしれない、と聞いていたので大丈夫です」
でも電話一本くらい事前に……、というのが本音だった。もし不在だったらどうするつもりだったのか、諦めて帰るつもりだったのだろうか。
真夜中に不似合いなサングラスを掛けたその女性の背後に立つ、若い男がちいさく頭を下げる。長髪の彼の本名を、あたしは知らないのだが、彼が初めて会った時にコウと呼んで欲しい、と言っていたので、それに従うことにしていた。本名ではない、という含みを持たせた名乗り方だったので、おそらく偽名だろう。コウさんが鋭いまなざしをあたしに送っている。怒っているわけではなく、それが元々の表情なのだろう。
「まぁ、とりあえず入っても大丈夫?」
この女性こそあたしが求めていた相手なのだが、彼女のことをあたしは言葉のうえでしか知らず、実際にその顔を見るのは初めてのはずなのに、声には聞き覚えがあった。
「先生、来てくれてありがとうございます」
置いた座布団のうえに正座する、先生、の姿を、あたしがじっと見つめていると、
「どうしたの? そんなに見つめられると、照れる」
と、先生が薄い笑みを浮かべた。
先生、と呼ぶことは、先日コウさんと会った時に厳命されていた。
先生。
あたしが先生と呼ぶそのひとは、教師でもなければ医者でもなく、もちろん政治家でもない。ただ、いまのあたしにとってはそのどれよりも、先生、として敬うべき相手だった。とは言っても、何をしている人間か、というと、これも一言で説明するのが難しく、カウンセラー、占い師、霊能者、探偵……など、ひとつの役割ではなく、ひとりで多くの役割を兼ねながら、その多くの界隈で、それなりに名を馳せている女性だった。
「あ、すみません……。こんな綺麗なひと、初めて見た、と思って」
それはお世辞ではなく本音だった。サングラスを掛けていて目元までは分からないが、女性のあたしから見てもはっと目を惹くほどの美しさは、一度見てしまうともう忘れられない、と思ってしまうほどに印象的だった。その美しさは、世俗的なものから距離を取ったような人形を思わせるもので、そんなことを本人に伝えれば怒ってしまうだろうことをあたしは考えてしまっていた。ただ先生は多くの貴金属を身に纏っていて、その無機物が放つ煌びやかさが、何故か反対にそのひとを人間のように思わせてくれる。
「あら? 初めて?」
「違うんですか……?」
「あぁそうか、これで分かる?」
と、先生が掛けていたサングラスを外して、あたしを見る。
そのひとをあたしは知っている。
数年前、あたしが大学生だった頃にお世話になったカウンセラーの先生だ。その時はサングラスもしていなくて、派手な格好をしていなかったのですぐには気付けなかったが、サングラスを取った彼女の顔は、あの時のまま、見間違えようもない。
「先生……。急に行かなくなってしまって、すみません」
「いえ、そういうひとはめずらしくないから、気にしなくて大丈夫」
あの時、カウンセリングの先生として相談に乗ってもらっていた人物が、いまは霊能者としてあたしの目の前にいる。それは不思議な感覚だった。その時は鈴木だったか佐藤だったか、そんな風に名乗っていたはずだが、それはきっと偽名なのだろう。あれが本当の名前ならば、いまさら隠す必要はないし、気付いていないあたしに面識があることを伝えたりしないだろう。
あたしが相談に行かなくなった理由はひとつ、行く必要がなくなったからだ。
彼の死によって……。
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