二流には分からない、2012
1
暑い。
それまで冷房が効き過ぎて、寒いくらいの室内にいたからか、余計にそう感じてしまう。夏の夜気は生温く不快で、すでにささくれ立っていたあたしの負の感情はさらに増していく。
こんな寂れたような雑居ビルに通い詰める姿なんて知り合いには絶対に見られたくないし、もしもここで何をやっているかばれてしまったら、あたしはそのひとから距離を取るだろう。もう話してやるもんか。ほとんどのひとはたぶん知られたところで、別に気にしないよ、なんて言ってくれるだろうけれど、あたし自身のプライドが許さない。
それも全部あいつのせいだ。
『ゆっくりと、あなたの話したいことを私に言ってくれればいいの。ただ嘘はつかないこと。嘘が真になるじゃないけれど、自分でついた嘘が自らの心を苛んでいくことがあるから、それはあなたのためにも良くない』
インターネット上の知り合いを通じて、そのカウンセラーのことを知ったのは半年ほど前だった。それまで通っていたカウンセリングルームの先生は悪いひととは思わないものの相性が合わず、場所を変えたかったあたしは、精神的にもだいぶ参っていたこともあって、怪しい雰囲気は承知のうえで、一部では有名な人物らしい、そのカウンセラーを頼ってみることにしたのだ。
カウンセラーとしてそれはどうなんだろうか、と思うほど、隠しきれない威圧的な雰囲気を持ちながらも、ただ声音は耳に心地よく心を落ち着かせてくれて、相槌のうまさもあり、話しやすい相手だった。うっかり全部を打ち明けてしまいたくなりそうな気持ちになってしまう。
見上げると濁りを混ぜたような藍色の雲の先に半月が浮かんでいる。
駅を下りて、家路につく足取りは重い。いや……大丈夫だ。もう最近はあいつの姿を見ていない。さすがにあそこまで言えば、あいつだって諦めるはずだ。
いつも帰り道に通る商店街はそのほとんどが営業時間を終えて、死んだよう、と表現がぴったりと当てはまる景色を形作っていた。
こつ、こつ……。こつ、こつ……。
あたしを怯えさせ続ける音が背後に聞こえる。もうそれだけで相手が誰だか分かるほどに聞き馴染みのある足音になってしまった。
こつ、こつ……。こつこつ。こつこつこつ。
不安定に鳴る靴音が、すこしずつ近付いてくる。縮まってくる距離に、あたしの不安と緊張は増していく。
あたしは足を止めず、振り返ることもせず、そんな足音など存在しないような振りをしながら、自宅のマンションを目指す。
いつまでも消えないその靴音のストレスは、はけ口もなく、胃の奥に怒りとなって溜まる一方だった。
普段よりもその道のりはずっと長く感じられて、自宅の前まで着いた時には、ようやくか……、という気持ちになった。そこであたしは、後ろを振り向こう、と決めた。一矢報いてやる、ほどの覚悟を持った行動ではなく、靴音の主がまず間違いなくあたしの想像通りだとしても、一目見てはっきりとさせておきたい、と思ったのだ。
「誰!」
意識した大きめの声とともにあたしが振り向くと、予想していた通りの人物がいた。街灯に照らされたその男は笑っている。笑っている、と言っても、ただ口の端を歪めているだけの、相手に不快感を与えるような粘っこい表情だ。彼が着ていたのは初めて会った時と同じ、夜の闇に同化しそうな黒いフード付きのパーカーで、そのポケットに手を突っ込みながら、何も言わずにじっとあたしの顔を見つめている。
確認は終わった。今までの行動パターンを考えれば、マンションに入ってしまえば、彼は帰るはずだ。これからどうするかはマンションに入ってから考えよう。
小走りにマンションの中に足を踏み入れ、オートロックになっている玄関を開けようとした、何かが手首を掴んだ。それは手だった。誰の手か、なんて考えるまでもない。
あたしは思わず悲鳴を上げた……つもりになっていただけで、恐怖のあまり声が実際に口から外に放たれることはなかった。
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