サマーワンダーランド
※大学一回生の夏休みの話
「ヘイ愛しのマイハニー、おれと一緒にドライブ行かない?」
ボンネットに寄り掛かったハルくんが、わざとらしい仕草で親指を立てた。
わたしがぽかんとしていると、気まずそうに頭を掻いて「なんか反応してくれな、おれが恥ずいだけやんけ」と頰を染める。もしかすると、「愛しのマイダーリン」と返して欲しかったのかもしれない。
私たちが大学生になってから、はや四ヶ月。前期試験も終了し、長い夏休みが始まった。入学してから初めての試験にハルくんは悲鳴を上げていたけれど、それなりに単位は取得できたらしい。やっぱり彼はやればできる子なのだ。
せっかくの夏休みなのにハルくんは毎日サークル活動やバイトに明け暮れており、二人で会う時間はなかなか取れない。最近の彼は特に忙しそうで、今日は久しぶりにゆっくりデートできる機会に恵まれたのだ。
ハルくんから「明日は璃子の家まで迎えに行くわ、水着持ってきてな」というLINEが来たのはゆうべのこと。どこに行くのかと訊いてみたけれど、「当日のお楽しみ」と言って教えてくれなかった。
マンションの前でハルくんを待っていると、見慣れない青い車が目の前で止まった。颯爽と運転席から降りてきたハルくんは、渾身のキメ顔で冒頭の台詞を言ってのけたのだった。
「ど、どしたんこの車。ハルくんが運転してきたん!? ハルくん免許持ってたっけ!?」
「じゃじゃーん」
ハルくんはにやりと笑うと、私に向かってぴかぴかの運転免許証を突き出してきた。青い背景色の写真は実物以上に目つきが悪く、まるで凶悪犯のような顔になっている。
「璃子のこと驚かそうと思って、ずっと黙っててん。びっくりした?」
悪戯が成功した子どものような笑みを浮かべて、ハルくんは私の顔を覗き込んでくる。
最近忙しそうにしていたのは、こっそり教習所に通っていたからみたいだ。私は興奮気味に「びっくりした!」と答える。ハルくんは満足げに頷くと、恭しく助手席の扉を開けてくれた。
「免許取ったら、絶対璃子とドライブしたかってん。まあ、親の車やけどな」
促されるがままに助手席に乗り込むと、シートベルトを締める。運転席に座ったハルくんもシートベルトを締めてから、やや緊張した面持ちでエンジンを掛けた。仕方のないことだけど、あまり手慣れてるようには見えない。
「ハルくん、いつ免許取ったん?」
「……先週」
「取りたてホヤホヤやん……結構運転してるん?」
「母さんに買い物の足代わりにさせられてた。……まあ、まだ京都市内は脱出できてへんねんけど」
なるほど、まだまだ新米ドライバーみたいだ。今日は一体どこに行くつもりなのだろうか。
ハルくんはシフトレバーを切り替えて、アクセルを踏み込んだ。滑るように車が走り出して、ただそれだけのことで私は感動してしまった。わあ、ハルくんが車を運転してる!
「ハルくん、すごい! かっこいい!」
「まだなんもしてへんで。ほんま、璃子はちょっとおれに甘すぎるな」
「いいなあ、私も免許取ろうかなあ」
「……申し訳ないけど、璃子の運転する車にはあんま乗りたないわ」
苦笑したハルくんに、私は頬を膨らませる。ひどい、それってどう言う意味。
ちょっぴり腹が立ったけれど、運転席に座っている彼の横顔がかっこよくて、文句を言う気なんてどこかに行ってしまった。ハンドルを握る手がごつごつしているのも素敵だ。
わたしがうっとり見つめていると、ハルくんはやや居心地悪そうに身動ぎをした。
「そんな見られたら運転しにくいんやけど」
「ご、ごめん。かっこよすぎて……」
私は慌ててハルくんから視線を引き剥がすと、正面を向いた。
ハルくんはここに来るまでに既にナビを設定していたらしく、無機質な女性の声が「およそ三百メートル先、左方向です」と告げる。
「ハルくん、どこ向かってるん?」
「やっぱ夏といえば海やろ、海!」
そういえば、水着を持って来るように言われていた。でもお盆も終わったし、クラゲがたくさんいるんじゃないだろうか。ここから一番近い海水浴場といえば、須磨海岸あたりかな。もっと足を伸ばせば白浜あたりもあるのだろうけど、日帰りで行くにはちょっと大変な気がする。
「私、お泊まりの用意してないけど大丈夫かな……どこの海?」
「琵琶湖」
きっぱりと答えたハルくんに、私は脱力した。
「……ハルくん。琵琶湖は海ちゃうよ」
「わかってるけど、あんだけデカかったらほぼ海みたいなもんやろ。泳げるみたいやし」
ハルくんには、こういう適当なところがある(そういうところも好き)。でも琵琶湖だったらクラゲもいないし、海水で身体がベタベタになることもない。なにより琵琶湖のある滋賀県は京都から近い。免許取りたての大学生がちょっとしたドライブをするには、ちょうどいい距離だ。
途中コーヒーショップでドライブスルーをしたり、コンビニに寄ってお菓子を買ったりしながら、私たちは目的地へと向かった。
ハルくんは車線変更のたびにちょっと緊張していたけれど、ピカピカの初心者マークが輝くわたしたちに対して、他の車は優しかった。間に入れてくれた黒のワゴンにハザードランプを点灯させたハルくんは、「今の、ちょっとやってみたかってん」と笑っている。
カーステレオからは、ハルくんの好きなロックバンドのアルバムが流れている。ハルくんが時折「この歌好き」と言って口ずさむのも、私にとっては素敵なBGMだった。
私は胸をわくわくとときめかせながら、窓の外を流れていく景色を眺めた。青い空には雲ひとつなく、眩しい太陽がさんさんと降り注いでいる。滋賀県に入って大きな琵琶湖が見えたときには、二人して「海やー!」と叫んでしまった。海じゃないのは百も承知だ。
安全運転そのもので遊泳場に到着したハルくんは、駐車場に車を停めた。ほっとしたように、ふーっと息をついている。
「あードキドキした。璃子隣に乗せたまま、絶対事故れんからな」
「ハルくん、運転おつかれさま。ありがとう」
「どういたしまして」
ハルくんは笑ってエンジンを切った。シートベルトを外そうとしたけれど、ワンピースの金具にひっかかってしまった。私がモタモタしていると、ふいにハルくんがこちらに身を乗り出してきて――ごく軽く、唇を重ねてきた。
「これも、やりたかったやつ」
一瞬の短いキスをしたハルくんは、照れたように笑ってこつんと額を合わせてくる。
私が真っ赤になって俯いているうちに、かちゃんとシートベルトを外してくれた。なるほど、車だとこうやってこっそりイチャイチャできるのか……。突然のご褒美に、私の心はふわふわと浮き立っていく。
「行こ。はよ璃子の水着見たい」
一足先に車を降りたハルくんを追いかけるように私も扉を開けて、むっとした夏の空気の中に飛び込んでいった。
私が持ってきた水着は、二年前に購入したものと同じだった。あれ以来海やプールには行っていないので、新しい水着を買うタイミングがなかったのだ。もっと早く言ってくれれば、かわいいのを買ってきたのに。
更衣室でオフショルダーの水着に着替えると、上から白のTシャツを着る。貴重品をロッカーに入れて外に出ると、水着姿のハルくんがお行儀良く待っていた。飼い主を待っている、躾の行き届いたシベリアンハスキー。
「なんでTシャツ着てんねん!」
開口一番、ハルくんは不服そうに唇を尖らせた。私はTシャツの裾をぐいぐいと引きながら「恥ずかしいし……」と答える。それほどスタイルに自信があるわけでもないし、肌を露出していることに抵抗がある。
「もっとすごいカッコ、何回も見てるんやからええやろ。脱げー!」
「ぎゃーっ」
ハルくんは嫌がる私を捕まえて、Tシャツを頭からすぽんと脱がせてしまった。ギンガムチェックのオフショルダー水着が、彼の眼前に露わになる。私のTシャツを背中に隠したハルくんは、満足げに笑った。
「やっぱそれ似合ってる。かわいい」
「……ありがとう」
恥ずかしいけれど、褒めてもらえるのはやっぱり嬉しい。来年はもっとかわいいやつを買おう、と私は心に決めた。
ハルくんは私の手をぎゅっと握ると、サクサクと白い砂を踏んで歩き出した。灼熱の太陽を存分に浴びた砂は、ビーチサンダル越しでもわかるくらいに熱い。八月の終わりだというのに暑さは和らぐことはなく、ビーチは涼を求めたたくさんの人で賑わっていた。
透き通った湖は向こう岸が見えないくらいに大きくて、海と遜色ない。波は穏やかで、ちゃぷちゃぷと揺れる水面が太陽の光を跳ね返して輝いている。
夏休みに入って引きこもってばかりいたけれど、たまにはこういう場所に来るのもいいな、と私は思う。連れて来てくれたハルくんに感謝だ。
ハルくんは持ってきていたビーチボールを膨らませると、「ビーチバレーしよう」とはしゃいでいる。彼は私が運動音痴だと知ったうえで、そういうことを言ってくるから意地悪だ。渋る私の手を掴んで、砂浜へと引っ張っていく。
私はボールを真正面に打ち返すことすらできず、明後日の方向に飛ばしてばかりいた。全然上手にできないけれど、ハルくんが楽しそうに笑っているから私も楽しい。私の頭に直撃したボールは、少し離れたところで駄弁っている大学生くらいの男子グループの元へコロコロと転がっていった。
「すみませーん」
私が声をかけると、足元に転がったボールを男の子が拾い上げてくれた。ぽーんとゆるく投げ返されたボールを、見事顔面でキャッチしてしまう。どっと笑いが起こって、私の頰はかっと熱くなった。うう、恥ずかしい……。
ニヤニヤと馬鹿にするような視線を背中で受け止めながら、ボールを持ってハルくんのところに戻る。すると、ハルくんがふいに私の肩を抱き寄せた。裸の胸に顔がぶつかる。そういえば、彼の素肌にこんなに密着するのは久しぶりだ。ベッドの上で重なる肌の記憶が思い起こされて、こんな状況なのにはしたなく欲情してしまう。
「は、ハルくん……?」
顔を上げて様子を窺うと、ハルくんはさっきボールを拾ってくれた男子グループを睨みつけていた。
私は彼が優しいことをとてもよく知っているけれど、そういう顔をしているとやっぱりちょっと怖い。ハルくん、ともう一度名前を呼ぶと、なんだかふてくされたような顔で私を見つめてきた。
「璃子、やっぱりTシャツ着てこれば?」
面白くなさそうにそう言ったハルくんに、私は首を傾げる。脱げと言ったり着ろと言ったり、ハルくんの考えていることはよくわからない。
「……ま、ええか。泳ご、璃子」
「ぎゃっ」
ハルくんはそう言って、私の身体を軽々と抱え上げた。スタスタと砂浜から湖へと歩いていくハルくんは意地の悪い笑みを浮かべていて、私の背中を冷たい汗が流れる。
「ちょ、ちょっと待って……私が泳げへんの知ってるやんね!?」
「うん。せやから、おれに捕まってて」
「む、無理無理……! ぎゃー!」
ハルくんは私を抱えたまま、冷たい水の中にざぶんと浸かった。そのまま、足のつかない深いところまで連れて行かれる。
縋るようにぎゅっと首に腕を回すと、ハルくんも私を抱きしめてくれた。今彼が手を離せば私は溺れてしまうのに、彼のごつごつとした腕に包まれると安心してしまう。自分の頰を彼の頰に擦り寄せると、彼はおかしそうに笑みを溢した。
「ごめんな。怖い?」
「全然怖くない。……ハルくんが手ぇ離さへんってわかってるもん」
「じゃあなんでそんなに必死でしがみついてんの」
「……ハルくんにくっつきたいだけ」
「なんやねん、かわいい奴め」
下心丸出しの私の言葉にも、ハルくんは心の底から喜んでくれる。濡れて頰に張りついた髪に、彼の指が触れる。まるで大事な宝物に触れるような手つきに、私の胸はぎゅっと締めつけられる。
ずっと好きで好きでたまらなかった男の子が、見ていることしかできなかった男の子が、夢の中でしか触れ合うことができなかった男の子が。現実に私のことを好きと言って抱きしめてくれる。彼氏と彼女になって一年以上が経った今でも、信じられないような気持ちだ。こんなに幸せなことが、あっていいんだろうか。
「ハルくん」
「ん?」
「大好き」
溢れ出す気持ちのままにそう告げると、ハルくんは嬉しそうに破顔して、返事の代わりに短いキスをしてくれた。濡れた唇はひんやりと冷たくて、気持ち良かった。
存分に湖水浴を楽しんだ私たちは、日が落ちる前に遊泳場を後にした。車に戻ってナビを設定しているハルくんの動きが、ぴたりと止まる。
「どうしたん?」
シートベルトを締めた私が顔を覗き込むと、ハルくんは頰を掻いて、やや言いにくそうに口を開いた。
「……おれさあ、今日一日ずっと我慢してて」
「うん?」
「璃子の水着やっぱかわいいし、よく考えたら最近璃子としてないし、そんな状態で抱きつかれたらちょっとやばいし……」
ハルくんはそこで言葉を切ると、シートに覆いかぶさるようにして私の唇を塞いだ。昼間したものとは違う、欲のこもった深いキスだ。唇の隙間を割るように侵入してきた舌に、私はなすすべもなく翻弄される。
「……っ、はぁ……」
「おれ、このままなんもせずに京都まで運転できる自信ない……」
切羽詰まったような、必死ささえ感じるハルくんの声。耳元で「なあ璃子」と強請られると、私の背筋はぞくりと震える。
普段は隠れている私の不埒な欲を、ハルくんはいとも容易く引き出してしまう。……私だって、もっとハルくんに触れたい。おなかの下あたりが、期待するようにきゅんと震えるのがわかる。
私がこくんと頷くと、ハルくんは私から身体を離して、無言でスマホを弄り始めた。しばらくしてナビに住所を打ち込むと、「ルート案内を開始します」と無機質な声が車内に響いた。
目的地であるホテルまでは、車で十五分。その短い時間ですら我慢の効かない私たちは、信号待ちのたびに互いの指を絡め合わせた。クーラーの効いている車内がやけに暑く感じるのは、体の奥底から発せられる欲のせいだ。私も彼も、きっと夏の熱を持て余している。
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