第114話 ひとつの石ころ 2

 エルセーの前にスッと膝跨いだネストールは伏せ目がちにこうべをたれた。


「ケール様に『えにし』を持つ御身に…アドニス・マリエスタに代わり、お預かりしていた全てを償還いたします」


 当然のように自分にひざまづき、何のためらいもなく自分に全てを差し出すネストールを見下ろしていたエルセーは僅かに戸惑い、言葉を失った。


 その様子を見ながらもネストールは話しを続ける。


「オリビエ、当家…いや、マリエスタの名を継ぐ者には代々受け継いできたある責務があるのだよ」


「せきむ?」


 ネストールはうなずく。


「残念ながら失ってしまったものも多いのだが…ひとつはアドニスがケール様からお預かりした領地と領民を守り続けること。そしてもうひとつは…ケール様、もしくはケール様ゆかりの者が現れた時、それに相応しいと判断できた時には、それら全てをお返しする役目を負ってきたのだよ」


 それはエルセーが呆れるほどの忠誠心から受け継がれてきた一族の掟だった。


「あなた…あなた達はいまだにケールの帰りを待っていたと言うの?」


「本当に帰ってきて頂けるかは……問題では無いのだよ」


「それに可哀そうだけど、ケールはあなた達を捨てていったのよ?」


 それはウレイアが覗き見たケールの記憶から分かったこと、おそらく事実だろう。そしてこの言葉にネストールは疑問を感じた。


「ケール様はご自分の代わりに信頼していた弟子を預けてくださったのだよ?本当にお戻りにならないなら全員を連れて行かれただろう。それより、君はどこまで知っているんだい?」


(…エリス、ね。レイ、やはりあなたの中のケールの記憶は、本物のようね)


「私とケールの間には『えん』はあったかもしれないけれど、『ゆかり』と呼べるものなど皆無なのよ?」


 ネストールは神妙に少し考えを巡らせると


「ケール様とご友人だったのは君の師匠という話しだったが、あらためて聞くが、君自身はどこまでケール様のことを知っているのだい?」


 興味を抱かれるのは仕方のないことだが、彼の方から危険な領域に踏み込もうとしてくる。


(どこまで話して良いものか?そもそも話す意味と価値があるのかしら?)


 このままネストールを丸め込んで全てを奪ってしまうのは簡単かも知れない。元々そんな企みもあったし、不安要素となり得るなら殺しても仕方がないとも思っていた相手だ。


 が、しかし、短い人生の彼が自分に捧げてきた時間は本物であったし、エルセーがネストールを気に入って夫婦ごっこを楽しんでいたことも事実だった。


 ならばお互いの気持ちを否定し、それを裏切るようなことなど、自分の誇りにかけて出来るはずはなかった。


「まだケールが考えの至らない未熟な娘だった頃に、私の師はケールと知り合ったのよ。それと…私達の生きている世界はね、あなたが見てきた世界とはまるで違うと、まずは言っておくわ。だから師とケールが信頼し合っていたことなどあり得ないけれど、長い間語り合っていたのは事実ね。そして、それだけでも十分特別だと言える関係なんだけどね」


「ふ、ふむ…」


「私は師からケールの多くを聞かされた。そのほとんどは経験の浅かった彼女の失態と、奔放で感情的な振る舞いくらい。あまり、良い評価では無かったかもねえ?」


 エルセーは具体的には内容を漏らさなかったが、都合の良い嘘を語ることはしなかった。しかしネストールは


「少なくとも私たちや領民にとってケール様は母親と言っても良い方だったんだよ。それに初めから全てを備えている者などいないだろう?そんなケール様を名君にまで育ててくれたのは、君の師匠だったのではないのかな?…つまり、ケール様と君は、兄弟弟子ということにならないかい?」


「なっ?」


 まったくもって都合の良い解釈である。頭の良いエルセーでも思いもしなかったことだし、ケールをその序列に加えたいなどと思うわけがなかった。


 たしかにかいつまんで話を聞けば、そう受け取られるかもしれない。


 たしかにオネイロにも少しはそんな意識があったのかもしれない。だからケールの失態の結果をあれほど気に病んでいたとも考えられる。とにかく今、ネストールの中でエルセーはケールの妹ということになった。


 そしてあのエルセーが呆気にとられていると、急にネストールも呆れたように含み笑いをした。


「分かっているよ、こんなものは自分に都合の良い商人の屁理屈だということは…それだけ私も必死なのだよ、勝手にも君をこの地に縛りつけるためにね」


「まったくねえ…でもあなた?ケールが本当に戻ってきた時、譲り受けたものを返すことを私が渋ったらどうなると思っているの?」


 ネストールの目が丸くなった。


「え……?いや…き、君たちは一体、どれくらい生きられるんだい?」


「んん?そう聞き返されると私も困ってしまうけど…ただ、ケールがまだ生きている可能性は、十分考えられるわよ?」


 彼が驚いた時間はほんの少し、すぐに気を取り直すとエルセーの話しを懸命に飲み込んだ。


「私の想像も及ばない世界があるんだね…?まあ私が見たかったもの、確かめてきた事は君の人となりだけで十分なのだから、君たちの世界を知る必要は無いのだろうな?興味は尽きないが…」


「そうねえ、興味を持つのはあまりお勧めしないわ。見る必要も無いし、確かめたくても踏み込まない方が安全よ?」


「それほど…?そうか。では話しを戻そう、もしケール様が戻ったとして、君が返還を渋ったら…という話しだったね?はたして君は返還を渋るかな?君は私の妻なのだから私が死ねば全ては君のものだ、しかし、それを先ほどまでの君は惜し気もなく捨てようとしていたじゃないか?」


「あら…痛いところを突いてきたわね。でも今はそうでも、例えばこの後…100年積み上げたものを突然全て返せと言われたら?差し出したくなくなるのも当然ではなくて?」


「ひゃ、100年後?」


 無理やりに言われるがまま納得してはいても、具体的に言葉にされるとやはり彼には驚きであるようだ。


「ううむ…」


「まあ、ゆっくり考えてくださいな。さっき言ったように今は何も答えてあげられないの。でもあれね…この厄介ごとを収めた後に戻ることを許されるのなら……問題があるわねぇ」


「問題?」


 それは10年以上をかけて積み上げてきた、この老け顔の傑作である。


 自分で鏡を覗き込んでも作品を確認することはできない、自分の顔を頭の中で想像しながらシワを刻み、肌をたるませ、マテリアルを併用しながらも常に何割かの力を割いていた。


 解いてしまうのは簡単でも、これをまたイチから作り直すにはちょっとした時間が必要になるし、まったく同じ顔を再現することは不可能だとエルセーは考えていた。


「今のこの姿はねえ、作りものなのよ」


「ん?つくりもの…とは?」


 既にネストールの思考はエルセーの話しに追いつけなくなっていた。


「にせものよ。本当の姿はねえ、あなたと出会った頃と何も変わっていないのよ?」


「えっ、と?!そう…なのかい?」


 一体実年齢は幾つなのか?どのくらい生きられるのか?顔を変えるとはどういうことなのか?彼女らのちからとは何なのか?一体何が出来るのか?


 頭の中は手一杯で何ひとつまとまらない。回転の速さに自身のあったネストールの頭でも、未知の世界の真実に対しては手の施しようが無い。


「ふう、つまりねえ、今度会うときには若返っているものだからっ……顔を隠して戻らないと使用人が騒ぐでしょう?」


 ようやくここら辺でエルセーの説明に反応する。


「わ、若返るのかいっ?あの頃にっ?」


「いえ、そうではなくて…まあ、いいわ、帰ってきた時に実際に見てもらってから説明するわ」


 ネストールには幾つかの事実を教えた。その上で数日考えてもらうとしよう。とりあえずは命を奪う必要は無いとしておいた。


(いやねぇ、レイの甘さが移ってしまったかしら?)


「いやっ、でも、まあ…君の危惧していることは起こらないと思うよ?驚きはするだろうが」


 落ち着きを取り戻したのはおそらくエルセーの言葉から推測や憶測することを捨てて、会話の内容だけを受け止め始めたからだろう。そして彼は自信ありげな態度を見せたがエルセーは苦も無くその理由を看破する。


「代々守られた秘密と血脈は、使用人にまで及んでいるのね?」


「さすがだね…その通りだよ、当家の使用人達はアドニスの時代から家系を替えずに勤めを果たし続けているんだよ。そしてマリエスタの秘密も守り続けてきた」


「イウラ・マギサス…」


 エルセーはわざと唐突に名前を出してネストールの反応を確かめた。


 イウラ・マギサスとは魔女を崇拝する宗教と言ってもいい団体である。信者の中には自ら魔女となるべく自虐的な行為を繰り返す者も多い。


「イウラ?マギ…何だい?」


「……何でもないわ、忘れてちょうだい」


 しかしそれは、どうやらエルセーの杞憂であったようだ。イウラの信者、彼らは彼女たちの闇の部分だけが集まって淀み固まったような存在である。もう長い間彼らの噂を聞かなくなったが、今でもどこかで自らの欲望の泥の中に身を沈めている人間がいるだろう。


「それでは、またここに戻って来てもかまわないのね?」


「もちろんだよ。ここは君の家なのだから…もし必要であるなら当家の全てを自由に使ってもらってもかまわない、君の厄介ごとの役に立つならね。それに、また美しい君を見ることが楽しみで仕方がないよ」


 エルセーの眉尻がぴくりと動いた。

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