第63話 セレーネ 4

 しかし真正面で自分を見つめて気高く微笑むウレイアに見つめられた途端、些細な緊張どころかこの世界に生まれてからずっと自分の上にもたれかかっていた黒い雲が一瞬のうちに払い除けられるのを感じた。


「どうしたのエルシー?」


「あ……いま…………」


「?」


「いえ、なんでも…ないです」


 そしてみっともなくも、追ってすがってようやくこの人の正面に座ることが許された。


「私の名前はウレイアよ」


 当然だがさらりと、あれほど教えてはくれなかった名前をかの人は名乗った。


「っ!!、ウレイアさまっ!」


 エルシーは座ったまま跳ねた。


「私はトリィア」


「トリィア姉さんっ…」


(ああ、私は『さま』は付かないんだ、まあ良いですけどー)


 エルシーはすっと立ち上がり、おへそに両手を揃えた。


「お待ちなさい……」


「え?」


「それはあなたには相応しくないわ。トリィア…」


「はい、お姉様…」


 トリィアは立ち上がってソファーから1歩ずれると、左手を胸に添え、右手でスカートを摘むと、右足を少しだけ下げてうつむき加減に軽く膝を折る。


「トリィアと申します」


 ふわっとトリィアのまわりが華やいだ。慌てて見たものが消えてしまう前に、エルシーも後にならった。


「エ、エルシーと申します」


「良く出来ました」


 なんともぎこちなく、頼りない淑女だったが今はそれで十分だ。


「メイドの仕事中はしょうがないけど、それ以外、特にかしこまった場では今の挨拶を通しなさい」


「は、はいっ」


「ふむ……」


 ウレイアが満足気にうなずいている。メイドの挨拶は相応しくないと言われ、新しい挨拶を教わっただけなのに、エルシーは自分が生まれ変わったような気がした。


「あなたに名乗った名前は私達の間だけの本当の名前、決して口外してはダメよ?」


「は、はいっ。でも……2人とも綺麗な名前」


「とおぜんですっ。お姉様に付けていただいた女神様の名前なのだから。まあ…トリーも頂いた名前だけど、あれはそう…幼名よ、幼名」


「お師さまにっ?」


 羨ましそうにトリィアを見つめて、物欲しそうな目でウレイアを見る。そんなエルシーの目を見ながらウレイアは確かめるように聞いた。


「エルシーと言うのは死ぬ前の本名なのでしょう?」


「死ぬ前?」


 またしてもエルシーの答えに疑問符が付いている。


「?」


「?……」


 すれ違う受け答えに、思ってもいなかったことをウレイアとトリィアは気がついた。


「エルシー?あなたまさかっ、自分が1度死んだことが分かっていないの??」


「え……私は死んだの?」 


 突然の死の宣告にまったくついて来れずに、まるで無関心な返事をトリィアに返しているが……いや、存外有り得ない話ではないかもしれない。


 意識が無かったり、もしくは何かの突然に死んでしまうと、死を認識できなくても当然ではないかっ。しかも死んだのかと素直に問われると、そもそも自分達が本当に死んだのかさえ疑問に思えてくる、生き物的には死んだと思えるのだが……


「死んだ故に私達の力が目覚めたのよ?でもこれは…あなたにはもっと根本から教えなくてはいけないわね。まあ追々にね」


 なるほど、出会ってから今まで、あまりに無知であったり、話が微妙に噛み合わなかったのは、この認識のズレもあったのだろう。だとすれば尚のこと自分や力に対して、探究するほどの興味は湧かないはずだ。


「エルシー、名字は何と言うの?」


「名字なんて無いよ。修道所の孤児院で付けられた名前だから」


「修道所?エクサパティシ教の?」


「そう、です」


「そう……」


 ウレイアは数秒考えた。


「では今の名前よりも新しい名前が欲しい?」


「!、はいっ」


「私に付けさせてくれる?」


「うんっ、はいっ!」


 大切な名前で無いなら教会に貰った名前などなんの価値も無い。ウレイアはエルシーを見つめながら頭の中のイメージから名前を選び出した。


「『セレーネ』…というのはどうかしら?」


「セレーネ…」


「あなたは月が似合う大人になるわ。だからセレーネ」


「セレーネ……はいっお師さまっずっと大切にしますっ!」


 成長したこの娘が満月の下を颯爽と歩く姿が様になっている。そんな景色が浮かんだのだ。


「うんうんっさすがお姉様、美しい名前です。エルシー、セレーネは月の女神様のお名前よ。その名に恥じない女性になりなさい」


「ありがとう姉さん、でもエルシーじゃなくてセレーネって呼んでよっ?」


「あら?」


「ふふ、それはそうね、それにトリィア、妹ができたのだからこれからはセレーネの面倒を見てあげなければいけないのよ?丁度いいから基本的なことはトリィアに教わるといいわ」


「はい?」


 薮から棒、晴天の霹靂と言えば大袈裟かもしれないが、誰かに甘えることは特権だと思って生きてきた自分が、人生を左右する程のことを人に教える不安にトリィアは青ざめた。


「お、お姉様?年端もいかない私に何を教えろとおっしゃるのですか?」


「あら?ふうん……あなたの年端もあと何年かすれば4…」


「ひーっ、やめて下さいっ!」


 トリィアは両手で耳を塞いだ。


「姉さんは40歳くらいなの?あたしは…にじゅう、ろくかな……?お師さまは?」


「私っ?私は160くらいね。多分……」


 想像もしていなかった答えにセレーネは目を丸くした。


「ひゃくろくじゅうっ?そんなに生きられるの?!私もっ?」


「だからそういうことからトリィアは教えてあげればいいのよ。それにしても……いざ聞かれると、もう歳なんて数えるのも面倒なだけね……」


「えーっ?わかりました……その程度のことでしたら」


 結局、1人で生きていくとはこうゆうことである。


 ずっとひとりだった旧エルシーは、この後も自分と自分の力の理解を深めることが出来ず、世界に置いていかれる孤独を埋めてくれるものを探し続けることになっていただろう。

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