握られた手

一本杉 朋恵

握られた手

 手をとつぜん握られて、私は目を覚ました。

 深夜の布団の中、私しかいないはずの空間に突如として現れた“それ”は私の手をぎゅっと握りしめ、私はその冷たさに驚いた。

 修学旅行の夜だった。瞬いて、いつもと違う布団の重さにまずはここがどこか思い出さなければならなかった。部屋には眠る直前までみんなで食べていたスナック菓子のにおいがまだ充満していた。深夜だと思うが、何時かはわからない。自分で布団に入ったのは覚えているし、視線を少し動かすとなぜか備え付けの椅子に寝ている友人の一人の横顔を見つけることができた。机に突っ伏して寝ている友人もいる。電気は消えていたから、誰かが消したのだろう。

 私の手を握るそれはぎゅうううと力を増していた。痛いほどではないが、手をつなぐという優しさは感じない。

 まず、親友のミサトを疑った。よくふざけて手をつなぐこともあったし、仲が良い彼女なら夜中に心細くなって私の布団に入ってきたのかと思ったのだ。しかし、ミサトはしっかりと隣の布団で寝息を立てていた。決してよい寝相と呼べるわけではなく、両手が布団の外にほっぽりだされていたので、確かだ。

 では、誰か別の友人が? しかし、目線を動かしても近くに他に人はいないし、この部屋には六人しかいないはず――他のグループの子が遊びに来ていただろうか? いや、そんな記憶はない。そもそも、修学旅行三日目、疲れが出てきていた。みんなで夜通し起きていた初日二日目とは違い、テンションも落ちてきていたし、体力の限界もあり、私も惜しい気はしたが翌日のために布団に入ったのだ。

 (え、えええ……)

誰かが自分の布団に入るはずがないという事実に気づいてしまった私は途端に怖くなって、目線を動かすことすら嫌になり、目をぎゅっと閉じた。手はその間も私の右手をぎゅうううと握っている。私以外の人間が(人間か?)この布団の中にいると思うとものすごい恐怖だ。この中は私だけの絶対的な聖域だと思い込んでいただけにそこに侵入された恐怖といえば!

 しかし、それだけだった。私は目を固く閉じている間にまた寝てしまったようだ。永遠にも思えた長い時間だったが、気付くと朝がきていた。朝がくると、友人たちが起きだす気配がして、私も自然に目が覚めた。その時には、もうすでに私の右手は解放されており、特に痣が残っているわけでもなかった。あの冷たさも消えていた。私の手にはなんの痕跡も残されていなかった。夢だったのだろうか? 一応、ミサトに尋ねてみたが、私の布団に手を突っ込んだ記憶はないと言っていたし、ミサトは私の左側に寝ていたのだから、右手を握ることは難しいだろうなと思った。私の布団の右側はそう言われてみればザラザラとした壁だったのだ。充電コードが届くようにコンセントの近くの布団を勝ち取った。――そうだった、それでは一体誰が私の右手を握ったのだろう。ぶるっと背筋を冷たさが伝ったが、私は夢であろうと考えることにした。友人たちにもミサト以外には言わなかった。ミサトにもさらっと聞いただけだ。『昨日、私の布団に入った?』と軽く――そう聞いただけだ。だから、誰も私がそんな体験をしたとは思っていないだろう。夢だったのだから、騒ぎ立てるほどのことでもない。

 それから数年がたった。私は、すっかりそのことを忘れていたが、ある日、その観光地の記事をSNSで見かけて、ふとその時のことを思い出した。私は、大学生になっていた。

 (あれは一体なんだったのだろう?)

一回気になりだすと、なんとなく喉に魚の骨が刺さったようにずっと気にかかるようになった。右手に冷たい感触がした。そしてその圧迫感。安らぎは感じなかった。けれど、心霊特集などで語られるような恐怖を感じることもなかった。当時は怖いような気もしたが、ただ手を握られた記憶しかないし、それは幽霊の姿を見ることよりも怖いことだとは到底思えなかった。ただただ不思議なできごとだ。時々、その記憶を思い起こそうと氷の塊を握ってみたりしたが、あの手はそこまで冷たくはなかった。ただ寝入っていた思春期の私の手はとても暑かっただろうから、それに比べればとても冷たかったとしか言えない。なんだかひどく中途半端な体験だと思った。特段、誰かに聞かせるようなネタでもない。怖い話だと前置きをしてするには、恐ろしくない話だし、笑い話にしようにもオチがない。そもそも、夢のような気もするし――うだうだ思い出しては悩んでみて、そのたびに自分の中でその手の存在が大きくなり、私はもう一回あの場所に行ってみようとそう思ったのだった。

 同じ部屋をとれるとは思わなかったし、実際違う部屋だった。修学旅行時は、広い角部屋だったようにも思う。もうそこらへんもはっきりとはしない遠い記憶なのだ。けれど、旅館の自動ドアを抜けると、確かにこの宿だったと思い出す。学生の時には気付けなかった情緒豊かな装飾や、温泉や食事を楽しんで、私はひとり早めに布団にもぐった。

 そして、深夜にまたぎゅうううと手を握られた。

 冷たい手が私の右手を掴んでいた。

 (あ、ほんとうだったんだ)

目が覚めて、その冷たさに気づいて、思考が動き出すその時まで、私は自分のことを信用していなかったことに気づいた。

 また、手を握られると信じていなかった。いや、半分くらいは思っていたかも――だけど、ほとんど夢だと結論づけていた。それでもどこかで自分を信じていたい私がいて、その私は、この手を求めてこの旅館にやってきた。

 目線を静かに動かす。何か、この世のものではないものが見えたらどうしよう、そう恐れていたが、今度こそ確かめなければならないという謎の使命感が私を奮い立たせた。しかし、何も見えない。整頓された部屋には闇が広がるだけだ。

 それでは、布団の中は? しかし、自分の胸が上下しているところしか見えない。布団と体の間に隙間がない。布団は不自然に盛り上がっていることはなかった。つまり、私の上にもう一人人間が乗っているような膨らみ方はしていなかった。心臓の音はうるさいが、部屋は静かだった。

 (冷たい手……)

けれど、やはり氷ほどではない。身を切るような冷たさではないし、なんなら、私の手から温かさを奪ってほんのり汗ばんできているような気さえもする。(それは言いすぎた。私の手が緊張して汗ばんだだけだ)

握られていることはわかるが、ちぎられるような強さでもない。

なんだかすべてが中途半端だった。

 どれくらいそうしていたのだろう。あの日よりは長い時間、私はその手と手をつないで、固まっていた。怖い? もちろん、こわい。けれど、やはり誰かに語るような衝撃的な内容でもない。ただ、驚いている? いや、この現象を確認しにきたのだから、そこまでは驚愕していない。自分の記憶が本物だったことについて、戸惑ってはいた。

 だれ、と聞こうとして、私は何度も口を動かしかけて、結局やめた。どうしてかはわからないが、言葉を発したら逃げてしまう気がした。逃げてしまう? 私は、その手に逃げられたくなかったのだろうか? 気味が悪く、他人の睡眠時間を奪ってくるような存在に、なぜかその時は去ってほしいと思わなかったのだ。とても不思議なことに、私はその夜何もせずただただ硬直していた。

 そして、眠らないようにしていたのに、なぜかそのうちに眠ってしまっていた。

 朝になるとやはり手は消えていた。私の手にはなんの痕跡も残っていなかった。

 私は、その手について、どう考えればよいのかわからなかった。

 そして、私は社会人になった。しかし、その手をどうにも忘れることができなかった。常にその手のことを思い出すわけではない。けれど、仕事が終わらずにひとりで残業しているとき、同僚達と飲みに行って愚痴を言い合いながらふと皆との雑談から引いてしまったとき、疲れ切って昼まで寝てしまった休日に、ふと思い出すのだ。

 あの手は一体なんだったのだろう? 中度半端なあの手。ただ私の右手を握った、その手。圧迫感は感じるけれど、放してくれないというほどではない。もしかしたら頼めば解放してくれたのかも、それくらいの強さで握ってくる手。雪のように冷たければ、その寒さで眠れなかっただろうに、ただ違和感を感じるくらいの低い温度で、私の熱を奪うだけだった。

 特に私のことを求めているわけではなかった。直感的にそう感じた。どこかに連れていこうだとか、痛い目に遭わせてやろうだとか、そんな目的もなく、そこに私の右手があったので『まあ、この手でいいか』くらいの熱量で握られた手。私自身を求めているわけではないその手。

 そして、私も、その手に応えることはなかった。握り返すこともできず、話しかけることもできず、向こうの手にしてみれば何の反応も返さずに固まっていた無様な人間。

 (つぎ――もし次があれば、私も握ってみようかしら)

私はある日そう思った。デスクで書類の端を揃えながら、ふとそう思った。それだけだった。次があれば、そうしよう、そう思っただけだった。

 それからまた数年が経った。職場に行き、ある日いつものようにふとあの手を思い出して、帰りにその旅館のWEBサイトを検索した。今度の休日か、もしくは来月か、安そうな日に泊まりに行こう。行けば、あの手は私の右手をまた握るだろう、そう確信していた。けれど、その読みは外れた。旅館は廃業していたのだ。

 私は急いで、近くの宿をとることもせず、次の休みに現地に向かった。旅館の跡地は、建物ごと残っていた。ただし、ロータリーの入口からロープが張られ、見るからに廃屋と化していた。窓が割られたり落書きされているなんてことはない。ただ、電気が消え、表の自動ドアの前には椅子や使われていただろう家具が積み重ねられているところが遠目にも見えた。

 私は立ち尽くした。

 たとえば、地元の不良たちに荒らされている建物ならば、私も探検と称して中に入ってみたかもしれない。けれど、特にそんな荒んだ様子ではなかった。行儀よく風化していく建物は、私が侵入できる隙間がなかった。いや、本当はあったかもしれない。私が見つけられなかっただけで、どこか破壊されていて、侵入路が作られていたのかも。裏口の鍵は開いていたかも。けれど、私はそれを探すことすらせず、確かめることすらせず、ただ呆然とロータリーの入口にあるロープのこちら側から遠い玄関を見つめながら立ち尽くすだけだった。

 そして、一時間もしないで、私は写真のひとつも撮らずに、そこから静かに立ち去った。ただなんとなく帰りがたく、他の宿を探して、そこに泊まることにした。暇だった私はその部屋で、廃業したホテルの噂話がないかどうか検索したが、特に何も出てこない。一年以上前に廃業したこと、口コミはそれほど悪くなかったこと――“手”については口コミすべてに目を通したがもちろん誰も書いていなかった。

 その日、私は目がさえていたが、早めに布団に入った。そして目を瞑っていたが、もちろんあのささやかな手はやってこなかった。何の異変もなかった。

 そしてまた数年たった。私は今でもときどき思い出す。ふと何かをしているときにあの手を思い出すのだ。けれど、あれが何だったのか今でも私にはわからないのだ。誰でもよかっただろうに、当時あの部屋に泊まった六人の内から私を選んだその手に、その意味を問いただすことはできない。選んだくせに、私のことを惜しむ風でもなく一夜が明ければ消えてしまったその手。けれど、私がまた向かえば私の手を握るその手。私が握り返すことのできなかったあの手――。

あの手の事実を知る機会はもう一切今の私の前にはないような気がしている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

握られた手 一本杉 朋恵 @jasmine500

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ