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あべせい

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「すいません。お手洗いはどちらですか?」

 スーパーマーケットの店内で、中年男性が通りかかった若い女性店員に尋ねている。

 女性は、天井から吊り下がっている表示板を目で示し、

「あちらにございます矢印に沿って、お進みくださいませ」

 と、丁寧に答える。

 男性は礼を言って、矢印が示す方向に通路を歩いて行った。

 そこは、紳士用品売り場だ。春物のスーツや、替えズボン、カーディガンなど、男物が並んでいる。

 ところが、肝心のトイレがない。男性は通路の端まで歩いたが、トイレらしきものは見当たらない。

 男性は、不思議に思いながらも、通路を右に折れ、さらに進んだ。

 と、再び、トイレを示す絵と矢印の表示板が、天井から吊り下がっている。そうか。まだ先なのか。

 そのとき男性は、その表示板が示す方向に、意外な人物を見つけた。

 別れた元妻だ。離婚して、まだ2ヵ月足らず。男性は、元妻が嫌いで別れたわけではない。だから、まだまだ、未練がある。

 離婚原因は妻の浮気だった。妻の浮気相手が、男性が勤めていた製薬会社の同僚だった。そのことが職場にバレたため、許したくても許せなくなった。

 男性の名前は、杜川佐倉(もりかわさくら)。彼の元妻は、伊先麗希(いさきれいき)。伊先という姓は、麗希の旧姓だ。麗希が浮気した相手は、当時佐倉の同僚で鈴森蜂尾(すずもりはちお)と言い、麗希は近く彼と再婚を予定している。

 しかし、百日の壁に阻まれ、いまはまだ同居の仲だ。法律が改正され、妊娠していない事実が証明されれば、例え百日以内でも、再婚は認められるそうだが、麗希と鈴森は、それまでして籍にこだわっていない。2人とも、その時期が来れば入籍しよう、という程度にしか考えていない。

 鈴森は麗希との同棲と同時に、他の課に異動したから、佐倉にとって、鈴森は元同僚ということになる。

 麗希は、近寄って来る佐倉に気がついた。そして、同時に、うれしそうな笑みを浮かべる。

 佐倉は、つい頬が緩み、手を上げ、

「久しぶりだな」

 と言って立ち止まり、麗希と向き合った。

「そうね。いま、なにしているの?」

 トイレを探している、なンてバカなことは言えない。

「春物のズボンを買いにきたンだけれど……」

 と、ウソをついた。

 本当は、暇をもてあまし、昼食を兼ね、時間つぶしに来ただけだ。

 しかし、麗希は少し妙な顔つきをしてから、

「偶然ね。わたしも、あのひとのズボンを探しているところなの……」

 あのひと、ダッ。ぬけぬけと言う。ふつうなら、同棲を始めて2ヵ月なのだから、当然だろうが、元亭主の前だゾ。少しは、考えろヨ。

 結婚しているときも、麗希にはそういう無神経なところがあった。物事を大雑把にとらえて、そのくせ、要所要所だけはしっかり把握している。

 佐倉は、麗希とつきあっているとき、そういう彼女の性格に惚れたのだ。2ヵ月前までは、体を触れ合っていたのに……。

 佐倉は、麗希の体を思いだし、つい興奮してきた。

「どう、一緒に探してくれない?」

「一緒に、って。オレと?」

「そう。あなた、あのひとと体のサイズが、ほぼ同じなンだもの。助かるわ」

「ヨシッ。そういうことなら、協力しよう。ただし、誤解されないように、1m以上は、キミに近付かないから」

「いいわよ」

 と言って、麗希は、男心をくすぐるような目付きをした。

「その前に、ちょっとATMに用事があるから、それをすませてから、もう一度ここに来る。それでいいか?」

 尿意を呼び覚まされたのだ。

「このあたりで、待っているわ。いってらっしゃい」

 麗希は、そう言うと、くるりと向きを変え、紳士用ズボンの売り場に戻った。

 佐倉は、再びトイレの表示板が示す方向に歩を進める。尿意が、徐々にだが、強くなっている。

 ところが、トイレが見当たらない。通路の端に行くと、再び、トイレの絵と矢印があり、右方向を示している。結局、佐倉は、その売り場の外周を時計回りに一周する形で元の場所に戻ってしまった。

 こんなこと、ってあるかッ! 物事がきっちりしていないと気がすまない佐倉は、頭に血が上り、通りかかった女性店員を呼びとめた。

「キミィッ!」

「はァ?」

 店員は、佐倉のその強い口調と険しい表情を見て、何を感じ取ったのか、

「ご婦人でしたら、あちらでお待ちですよ」

 と言う。

 佐倉は、その瞬間、ハッとして、麗希を待たせていることを思い出した。用足しは後回しだ。あと30分は、充分我慢できる。

 ズボン売り場の方を見ると、麗希が彼を見て、手を振っている。

 佐倉は、我を忘れて駆け足で元妻のもとへ行った。

「ATMは混んでいたでしょ。きょうは25日だものね」

 そうだった。きょうは25日の土曜日だから、給与は昨日の金曜に振り込まれている。

 しかし、先月製薬会社を解雇された佐倉には、その振り込みはない。解雇理由は、交通費の水増し請求が発覚したためだ。しかし、水増しといっても、うっかり「5」を「6」と書き間違えただけなのだが、意地の悪い経理の中年女性が、問題にした。

 すると、以前にもやっていた水増し請求が次々と明らかになって退職に追い込まれた。

「アッ、ごめんなさい」

 麗希は、いくら部署が違うとはいえ、夫の鈴森蜂尾から、佐倉の動静を聞いている。元の夫が、職場をクビになったことを、麗希はどう思っているのだろうか。

 表情からは、話題にしたくないといった気持ちが読み取れる。

「ズボンは決まった?」

 佐倉は、麗希に対して、一緒に暮らしていた当時の口調で話すことにした。いいだろう。元妻に、元夫だ。離婚したての元夫婦じゃないか。

「エエ、このズボンなら、いいかなァと……」

 と言って麗希が示したのは、薄いブルーのストライプのズボンだ。

 佐倉の好みだ。鈴森も、こんなのが好みなのか?

「いいね。おれも一本、買っておくか」

「それがいい。イイわよ」

 麗希は、はしゃぐように相槌を打った。

 その瞬間、佐倉は我に返った。女房を寝取った男と同じズボンを履くつもりかッ。バカにするのもいい加減にしろッ!

「いや、やっぱりやめておくよ。キミの旦那に悪い。じゃ、試着してくるから」

 佐倉はそのズボンを持って試着室に入った。

 佐倉が自前のズボンから商品のズボンに履き替え、外に声を掛けた。

「裾丈を決めるから、店員さんにそう言ってくれないか?」

「店員さんは呼ばなくてもいいわよ。わたしがやるから」

 と麗希が、有無を言わせない早業で、サッとカーテンを開けると、佐倉の足下に屈みこんだ。

 佐倉は上から麗希を覗き、胃袋が口から跳び出るかと思うほど、驚愕した。

 なンと、ブラウスの襟元から、麗希の胸のふくらみが見えているのだ。勿論、しっかりブラをしているから、乳房の半分も見えていないのだが、麗希が、佐倉の前でこんな体勢になったことが、かつてあっただろうか。

 ナイ、ない、無いッ。佐倉は麗希の体を思い起こそうとするが、なぜか、霞がかかったように、記憶が判然としない。

「あなた、どう、このあたりでいい?」

 麗希は、佐倉の足の踵を、左手の人差し指の爪できつく押しながら、彼の顔を下からグイッと見上げている。苦しそうだ。しかし、佐倉には、それが快い。

 佐倉は、慌てて視線を麗希の襟元から眼に移して、

「いい。それでいいンじゃ、ないかな」

 と、無責任を承知で言った。

 オレなら、もう少し長めにする。まァ、いい。妻を寝取った男が、裾の短いズボンを履いて、笑われるがいいさッ。佐倉には、激しい嫉妬心が湧き起こっていた。

「じゃ、これレジに持って行って支払いをすませてくるから、待っていてね。お礼をしなくちゃ……」

 と麗希は言い、会計コーナーに行った。

 佐倉は、ヒップを左右に振りながら歩く、元妻のその後ろ姿を見ながら考える。

 これからどうなるのだろうか、と淡い期待を抱かざるを得ない。2ヵ月前までは、一緒の寝室で寝た仲だ。もっとも、その3年前から、ご無沙汰だったが、それにはオレに責任がある。

 彼女の話をろくすっぽ聞いてやらなかった。仕事の疲れを口実に、いい加減に聞き流した。専業主婦だった麗希にすれば、おもしろくなかっただろう。

 結婚して12年。小学4年の娘・麗佐(れいさ)は、母親になついていて、佐倉と一緒に暮らすことを拒否した。

 麗希がいつ元同僚の鈴森と親しくなったのか。それが正直、佐倉にもよくわからない。彼を自宅に連れて来たことはなかった。

 鈴森は独身で、婚活パーティによく出ていると聞いていた。

 麗希の連絡先はわからない。いま、どこに暮らしているのかもだ。離婚調停の際、娘との面接交渉権は得たが、毎月1日に、その月の面会日と時刻、場所を、麗希のほうから電話で指定してくることで、決着した。

 そういえば、今月の1日、ファックスで「26日の日曜日、午後2時、東京タワー展望台」とあった。26日といえば、明日だ。うっかりしていた。

 先月は離婚直後ということで娘には会わなかったから、今度が最初の面会になる。麗希はそのことを承知で、元夫を相手に、こんなことをしているのだろうか。何か、企みがあるのか。いや、それはあり得ない。

 しかし、娘の麗佐は、どこだ。まさかッ!?

 佐倉は、突然冷や汗が出てきた。

「お待たせしたわね」

 麗希が、勘定をすませて戻ってきた。手には、このスーパーのレジ袋を下げている。ズボンの裾上げは、彼女自身が行うのか。佐倉は、12年の結婚生活で、麗希が裁縫をしている姿を見たことがない。勿論、佐倉たち2人の家にはミシンもなかった。

 彼女はそうした才能を隠していたのか。信じられない。いや……そういうことじゃないのかも……。またまた、佐倉に邪念が湧き起こる。

 佐倉は、何食わぬ顔をして、周囲に警戒の目を走らせた。どこからか、この光景が見られているのだろうか。

「どこに行こうかしら。どこか、気のきいたお店、知らない?」

「おれなら、ここのフードコートでもいいけれど……」

 いいわけがない。未練たっぷりの元妻と一緒に過ごすのだ。しかし、この近くで、おしゃれな喫茶店など、知らない。知るわけがない。

 何せ、このスーパーは初めてきたのだ。自宅のマンション前のバス停から当て所もなくバスに乗り、窓から見つけて降りたのだから。

「フードコート? いやね。いいわ。こうしましょう。このスーパーの前で待っていて。わたし、車を持ってくるから。いいでしょ?」

 と言い、エレベータの方に行きかけたが、すぐに戻ってくると、

「これ、持っていて」

 麗希はそう言って、押し付けるようにして佐倉に真新しいズボンの入ったレジ袋を預けると、小走りに消えた。


「あなた、代わりに受付けをすませてきて」

 佐倉は麗希に言われ、彼女をエレベータホールに残して受付カウンターに行った。

 そこは、20室ある郊外型のカラオケ施設。駐車場も完備している。

 佐倉はカラオケルームやカラオケボックスというものは初めてだった。受付けをすませ、麗希と一緒に、指示された一室に入る。

 ドリンクと食べ物が注文できるが、2人は麗希の車で来ているため、アルコールは飲めない。ところが、麗希は、ここからは助手席に乗るつもりなのか、構わずにビールをオーダーした。

 車は鈴森のものだろう。佐倉は、離婚を機会に、車を売り払っていた。

 麗希は歌が得意だ。特に、CDで知ったらしく、すでに引退している「ちあきなおみ」や、その全盛期を知らない「倍賞千恵子」が好みで、その2人のヒット曲を続けて歌った。

 佐倉は麗希の甘い高音の歌声を聴いているうちに気持ちがよくなり、ついビールに手を出した。

 いつもそうなのだが、この日もビールは1杯で飽きてしまい、ウイスキーの水割りを取り寄せ、立て続けに3杯飲んだ。

 麗希はマイクを握りながら、そのようすを見ていたが、驚いた風も見せず、止めようともしない。

 しばらくして、麗希はトイレに行くと言って姿を消した。その間、佐倉は、膨大な曲の中から、麗希に聴かせようと狙っていた、山本譲二の「みちのくひとり旅」を選び、モニター画面に出した。

 トイレは5分はかかるだろうと踏んで、一度一通り歌い終えた。

 しかし、それでも、麗希は帰って来ない。こんどは、帰って来るタイミングを計りながら、カラオケを操作して、再び歌い始めた。2度目だから、声も出るようになっている。

 佐倉が、「ここで一緒に……」と歌いだし、「背(せな)でたちきる……」と歌ったとき、画面を一時停止にして、我慢強くドアが開くのを待った。8分、9分……そして、13分待ったとき、麗希が、

「ごめんなさい」

 と言って戻ってきた。その声を耳にした瞬間、佐倉は再び画面を再生し、ここぞとばかり「道しるべェー……」と、声を張り上げた。

「生きていたならいつかは逢える 夢でも逢えるだろうォー!」。

 さらに麗希の表情を見つめながら、歌い続け、最後の歌詞に移ると、「お前が俺には最後の女 俺にはお前が最後の女ァ―」と熱っぽく歌い上げた。

「相変わらず、その歌が好きなのね」

 歌い終わると、麗希が拍手して、佐倉の熱唱を称えた。

 そのときだった。廊下を歩く靴音がやけに響く。5、6人が早足で歩いてくる気配だ。

 突然麗希が、佐倉にしがみついた。

 佐倉は期待していたことだけに、しっかり元妻を抱きとめる。

 ところが、だ。麗希の次の言葉に、佐倉は耳を疑った。

「やめてくださいッ! わたしには夫がいます!」

 と言って、佐倉の頬を拳で力一杯、殴りつけた。

 そのとき、勢いよくドアが開いた。

 5人のスーツ姿の男たちがなだれ込むように入って来ると、先頭にいた最も恰幅のいい一人が、

「警察ですッ。強制猥褻、及び、監禁容疑で逮捕します」

 と言い放った。

 佐倉は。目を大きく見開いたまま、声が出ない。まだ、事態が飲み込めないのだ。

「いったい。どうしたンですか。何事ですか! 私は、ここで歌っていただけですよ。猥褻とか、監禁とか……」

「事情は署でお聴きします。さア、立って……」

 2人目の男が、黒い手錠を取りだし、佐倉の手首を掴んだ。現行犯逮捕らしい。


 佐倉は翌々日、留置所から解放された。被害を訴えた麗希が、強制猥褻と監禁について、「思い過ごしかも知れない」と警察署に申し出たためだ。

 しかし、

「元夫から、ストーカーをされていたのは事実です」

 と、強く主張し、接近禁止命令を出すように求めた。

 佐倉はすべて、麗希の望む通りに従うことにした。麗希が警察に通報した事実が、佐倉の妄想を叩き壊していた。

 もう、何も信じられないッ。佐倉は、おのれの不明と不徳を呪った。どうでもいい。あいつの言う通り、やればいい。投げやりな気持ちが、佐倉の孤独を支配した。

 勿論、麗佐との面会は消えた。協議離婚で取り決めた項目のなかに、愛娘との面接交渉権は、元夫に著しい反社会的な言動があった場合、3年間これを停止するという一文が記載されていた。ストーカー及び、監禁、猥褻を疑わせる、今回の擬似行為が、それに当たると裁判所が認定したためだ。

 1ヵ月後。

 佐倉は、仕事を探しているが、自分に合いそうな仕事がなかなか見つからない。以前と同じ薬品関係の会社がないかと、この日もハローワークに出かけた。

 求人をしている会社の一覧を見ているうちに、ふとひらめいた。鈴森が元妻と出会った場所だ。

 鈴森は、医薬品の営業で診療所、すなわち開業医回りをしている。そのとき、麗佐を連れて受診にきていた麗希を見たのだ。そうに違いない。

 そのとき、「杜川」という比較的珍しい名前から、おれの妻と察知したのだろう。佐倉は、同僚の鈴森に娘の名前を「麗佐」と教えていた。

 しかし、こんなことに今頃気がつくようじゃ、妻を寝取られても仕方ないか。佐倉は、再び、ぐったりと意気消沈して、この日はハローワークを出た。

 午後はすることがない。本を読むわけでもなく、映画を観るわけでもない。パチンコをする金もない。

 で、仕方なく、時間つぶしにバスに乗った。そして、またまた、そうとは気がつかずに、麗希と再会したスーパーに行った。

 中に入ってから、それと気がついたのだが、すぐに出るのも妙だと思い直し、フードコートにでも行ってみようと2階へ。すると、トイレの表示板が目に入った。

 あの日、あのトイレの表示板さえしっかりしていれば、麗希と出会うこともなく、翌日は大威張りで娘と会うことが出来たのだ。

 しかし、麗佐は10才になる娘だ。好き嫌いの判別ができ、自分の意思を伝えることも出来る年齢だ。仮に、あの日、元妻との出会いがなくても、約束した翌日の面会が実現したかは、甚だ怪しい。佐倉は、そんな気持ちがしてきた。

 そのとき、女性店員が通りかかった。1ヵ月前、佐倉がトイレの所在を尋ねた店員によく似ている。

「すいません。トイレはどちらですか?」

「この階のトイレは、いま改装工事中です。下の階のトイレをお使いください」

「この前、1階のトイレを探していたら、表示板の通りにいくら進んでも、見つからなかった。どうしてなンですか?」

「ですから、1階のお手洗いは当時、改装しておりまして、係員が表示板の付け替えを間違えたのだと思います。申し訳ありません」

「そうですか……」

 間違いなら仕方ない。佐倉は納得せざるを得ない。

 ここは、2階だ。1階のトイレは、この前、改装していたのか。だから、表示板の付け替えで混乱して、でたらめに表示されていた。

 しかし、そのことがなかったら、元妻と出会うこともなく、娘との面接交渉も……。いや、繰り言だ。やめよう。佐倉は、目を転じて、フードコートに足を向けた。

 コーヒーを飲み、サンドイッチでも食べよう。佐倉がテーブルについていると、突然、目の前に中年の男が腰掛けた。

「失礼します」

「いや……」

 平日だから、ほかにいくらも空席があるのに、男は、佐倉がいる4人掛けの、しかも、佐倉の真向かいの席に腰を降ろした。

 そして、自分で買って来たコーヒーとカレーの載ったトレイを置き、カレーを食べ出した。

「私は、こういう者です」

 男はスプーンを使いながら、胸のポケットから、角がよれた1枚の名刺を差し出す。

 佐倉が受け取らないでいると、佐倉の目の前に置き、

「そこにありますように、私はひとさまのご依頼を受けて、いろいろなことをしています。昨今は不景気で、仕事がなかなか入りません……」

 佐倉はようやく、その名刺に視線を落とす。

 名刺には「多宮企画総合調査 代表多宮洋次」とある。

「それで、この前は奥さまのご依頼で、あなたさまがこちらのスーパーに来られるまで……」

 エッ、ナニィ!

「キミ、あの日、私を尾行していたのかッ! それで、麗希はあの紳士用品売り場にいたというのか!」

「当然でしょう。奥さまのお住まいは、この店から車で30分近くかかります。どうして、こんなところまで、ズボンを買いに来る必要があるンですか。ありえない。どうして、そこに気がつかないかなァ」

 多宮という探偵は、薄笑いを浮かべて、佐倉を見つめる。

 佐倉は、麗希に嵌められたのだと初めて気がついた。元妻が、愛娘と父親を会わせないために仕組んだのか。

 しばらく、佐倉は口がきけず、押し黙る。こんなことって、許されるのか。しかし、麗佐の気持ちを忖度すれば……。一概に麗希の行為を責めることも出来ない。

「私がここに来ましたのは……」

「また、あの日のようにあとをつけて来たンだろう」

「勿論、そうですが、あなたに用件があってのことです」

「なんだ?」

 佐倉は多宮を睨み付けながら、相手になった。

「奥さまからのお支払いでトラブルになっています。請求金額の半分しか、いただけなかった」

「オイ、いい加減に、奥さまはやめろ。あいつは、元妻だ。いまは、赤の他人といっていい」

「そうでした。それは失礼しました。では、改めまして、伊先麗希さまからのお支払いが滞っています。そこで……」

「おれから取ろうというのじゃないだろうな」

「そんなわけのわからないことはいたしません。伊先麗希さまは、成功報酬をくださらないのです。正規の金額だけなので、私はその対抗策として、元のご主人であるあなたの味方になろうと考えた次第です。伊先麗希さまは、現在、鈴森さまとご一緒にお暮らしです。しかし、この鈴森さまも怪しい。いろいろ秘密がありそうです。それを調べれば、伊先麗希さまはきっと、ご立腹なされて、同居を解消なさるに違いない……」

 そういうことか。

 佐倉は、目の前の下品な探偵が、急に頼もしく見えてきた。鈴森のスキャンダルを見つけ、鼻を明かす。そうすれば、麗希も目が覚めるに違いない、と……。

                    (了)



 

 




 

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