第二酒 『響』

第二酒 『響』一章

 1




 ――完全にやってしまった。


 いつもより割増しで重力を感じながら紫は起き上がる。鈍器で頭を叩かれているような痛みを伴い、胸からは不快感が押しあがってくる。


 一般的な二日酔いの症状だ。


 枕もとの時計は既に午後を指しおり、カーテンから溢れんばかりの斜光が降り注いでいた。化粧を落としてないし髪はボサボサで最悪のコンディションだ。


「――気持ち悪い……」


 とぼやきながらのっそりリビングに向かう。紫が暮らしている大学近郊のアパートは、両親が家賃を出してくれていることもあり、一人暮らしには少し贅沢な1RDKだ。


 平日は授業を受けた後に居酒屋で馬車馬の如く働き、休暇は動画編集に勤しんでいた。そのお陰もあり、動画映えを狙いバイト代をはたいて購入したワインセラーは、誰に気を遣う必要もなく置くことができている。


 キッチンに入り、インスタントコーヒーを飲むためお湯を沸かしながら、昨日の記憶を捜索し始める。どうやら着替えずに寝ていたらしく、土が軽く付いた服と布団は洗濯が億劫だ。最悪だ。お風呂も入ってないし、なんで私はいつもズボラ何だろう……。


 紫は軽く自己嫌悪を挟みながら給湯器から上がる蒸気をぼーっと眺める。やっぱり一人暮らしだと誰かが面倒見てくれないからこうなるんだ、イケメンで家事ができる優しい彼氏が同棲してくれたら私もしっかり生きれるに違いないんだ。


「やっと起きたのか、遅かったのう。人間よ」


 そんな甘い妄想をしていたら前触れなく、凛とした声が紫の家で響いた。居るはずのない同居人の存在に跳ね上がり、防御態勢をとりながら声の発生源に踵きびすを返す。


 最初に目を惹き寄せたのは月光を集めて作った様な長く濃い銀髪と水晶であしらわれた簪かんざしだった。整った相好そうごうには蒼玉をはめ込んだように光る瞳。華奢きゃしゃな体躯を古風な巫女装束で包んでおり、凄艶せいえんな佇まいだ。


 そして明らかに胡乱うろんなのは、人間のものとは似つかないピンと立ち上がったイヌ科の耳と、ゆらゆら揺らされている尻尾……。


「へ、変態美少女コスプレイヤーストーカー……?」


「こ?なんじゃそれは?我わえはとうに数百年は生きておる、少女と呼ばれるのはこそばゆいぞ」


「お嬢さん。な、なんで私の家にいるの?迷子?もしかして私酔った勢いで美少女誘拐してきたの……?」


「なんじゃ、汝覚えておらんのか?」


 と、顔色を失う紫に少女が窘たしなめる。眉間に皺を寄せる少女も数寄を凝らした人形の様だ。


「はよう、あの琥珀こはくを溶かした酒をよこさぬか。わざわざ御山から降りてきてやったのだぞ」


 ――琥珀?紫は狼狽ろうばいしながら部屋を見渡した。宝石の類は余り持っていないし、琥珀のアクセサリーなどはなかったはず……。


 それに彼女は酒と口にしていた。彼女の言の葉を反芻はんすうしながらふと、ワインセラーに視線を向けると確かに琥珀色の洋酒が陳列されていることに気が付いた。


「――もしかして、ウイスキーのことですか……?」


「うむ、そんな名であったな。汝が昨夜自慢した高価なういすきーがあるのであろう。我に献上したいと宣うので飲みに来てやったぞ、光栄に思え人間」


 得意げに語る少女?を見ていて突如、記憶の片鱗が脳に流れ込んできた。見知らぬ神社、巨躯の神々しい狼、紫はウイスキー片手に動画配信のことや自身の秘蔵のコレクションのことをペラペラと話したらしい。酔うと口が軽くなってしまいよく失敗するから、いつも程々で止めていたのに緊張でたかが外れていた。


 更には目前の彼女おおかみに豪胆にも高価な洋酒を振る舞う約束までしてしまっていた。昨日の自分の振る舞いに頭痛が一層と増してくるが、彼女の蒼い瞳から発せられる期待の色には抗いようのない行使力があった。


 約束してしまったなら仕方ない。とりあえず、美少女コスプレイヤーの話は置いておこう。


 紫はワインセラーと向き合う。ここには誕生日に両親が贈ってくれた高価な日本酒や、SNSで仕入れの情報を探し酒屋で購入した稀少なウイスキーが並んでいる。


 お陰でいつも懐が寒いんだよな、心の中で愚痴を吐露しながら『響 JAPANESE HARMONY』を丁寧に取り出した。


「この色は、ウイスキーの製造方法に理由があるんです。木の樽で長時間熟成させる過程で独特の琥珀色に変化していくみたいです。貴方はその……まだ狐に頬を抓まれた気分だけど神様なんですか?」


 グラスを二つ取り出し、加水過程の味わいや香りを楽しめる『ランプ・オブ・アイス』をからんころんと落とす。


「なるほどのう、面妖な作り方じゃ。ますます、ういすきーとやらに興味が湧いたぞ。


――その通りじゃ、御山と麓の集落を守護する土地神だった。貢ぎ物が途切れることはなく、参拝する村人も数多とおった。


――それも今や昔のことじゃ。人は時代が進むにつれて成長し、自分たちで生きる術を得ていった。多くの山々が拓かれ、光が灯るようになった。我々は居場所追われ、人々の記憶から風化していった……。


神は人間から畏怖されることで存在を保てるのじゃ。必然、我は次第に零落れいらくして力を失い、記憶さえ抜け落ちつつある。今や己の真名さえ忘れてしもうた。本当に度し難い生き物よな、人間は」


 神様はその相貌に一抹の寂寞せきばくの色を見せたが、「それよりも酒じゃ!」と紫を急かした。


 「響 JAPANESE HARMONY」の24面カットボトルはライトの光を多様に反射、透過することで水晶を彷彿とさせる。蓋を外すと熟成した樽の香りと微かに甘美なアロマが起ち込めた。  




 ――とっとっととととと……。




 軽快な音色が空間を支配する。琥珀色の流体がグラス内で跋扈ばっこし、アイスの表層を容赦なく蹂躙する。綯い交じり、波紋を描きながら加水されていく風景は、二人の心を耽溺させた。




「で、できました」




 紫は彼女の話に複雑な気持ちになり何か言おうと思ったが、彼女の毅然とした態度に口を噤んでしまった。せめてもの慰めになればと思い、出来上がった「響」のロックを彼女の前にそっと置く。


「おお、これはなかなか。香りは我が御山を思い出させる木々の匂いよのう。では、一献……」


 彼女は徐に酒を呷る。グラスとランプアイスが衝突し軽快な音色を奏でた。


「――んん、はあ……。喉元を焼くような刺激の後にまろやかな後味じゃ……」


 恍惚こうこつと語る少女に紫はウイスキーを飲みながら重ねて質問する。


「そのおおかみさまは、お酒がお好きなのですか?」


「ほう、その呼び方久しく聞かなかったが懐かしいのう。そうじゃな、各地を渡り地酒を飲み回ったものじゃ」


 おおかみさまは遠い目をしながら、グラスの縁を指でなぞる。


「先も述べたが、記憶が曖昧でな。誰かと共に回っておったと思うのじゃが靄が掛かっておる。これも其奴からの贈り物だったのにのう……」


今はもう思い出すことも叶わない『誰か』からの贈り物を愛おしそうに撫でながらおおかみさまは俯いた。


水晶ですみれを象った簪は彼女の銀髪に良く映えている。ああ、きっとその『誰か』もおおかみさまのことを大切に思ってたんだな、とふと思った紫は聞き返した。


「何処かで飲んだお酒の銘柄思い出せないですか。やはり昔なら日本酒ですかね?」


 動画配信のネタの為に各地の地酒や洋酒をかなり調べてきた。その知識から記憶を探せる手掛かりを掴めるかもしれないと考えたからだ。


「ううむ、思い出せぬ。しかし、酒を飲んでいると微かに記憶が甦りそうじゃ。ああ、もうここまで出かけとる!」


「もう一杯お注ぎしますね!」


「うむ、旨いのう。ほれもっと注がぬか」


 と、先ほどとは対象的におおかみさまはひどく楽しそうに言いながら酒を呷るのだった。

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