第5話 物語の“はじまり”


 殴られた頬の痛みが心の傷として残り続ける……


 酒ばかりを飲み、働きもせず、母に暴力ばかりを振るい続けた父がいた……。昔の父はそうでなかったような気がするけど、今はもう……覚えていない。だって、あたしにとっての父との記憶は、そんなことばかりだからだ。

 癇癪持ちで、少しでも何かあると、すぐに暴力に出る。殴られることなんて毎日のようにあり、あたしや母は、いつもどこかしらに怪我をしていた。だからこそ、学校では気味悪がられて、いつも友達ができなかった……。


 あたしのせいじゃない……


 いつもの通りの言い訳……。

 自分の不幸を他人のせいにすれば、幾分か楽になるため、心の安寧をそうやって保ちながらあたしは成長し続けた……。でも、それは長くは続かなかった。

 中学校の終わりぐらいだったか……


 いつも通りの重い足取りで家に帰ると、やけに静かだった。いつもならば、父の怒鳴り声が聞こえているのに、不思議でならなかった……。だからこそ、声を押し殺しつつ、ゆっくりと自室に隠れようとした。父が寝ているのならば、それはそれで好都合だと……


 今にして思えば、この時に逃げていれば、その後は救われていたのかもしれないと思う。でもそれは所詮、たれればの仮定の話だ。現実はそうではなかった。

 息を飲み、声を押し殺して廊下を歩き、リビングの方にわずかながら目を向けつつ歩いていくと、不意にあたしの足が止まった。


 滴るような水の音……

 広がっていく真っ赤な水たまり……

 水源である空のビール瓶……


 床に倒れ伏している母を見たとき、あたしは思わず固まってしまい、そのまま足がもつれるように倒れ、腰を抜かしてしまう。そんな物音に反応し、ザクロのような真っ赤な色がついたビール瓶を持つ父と目が合ってしまった。




 そこから先のことはよく憶えていない。

 興奮した父がこちらに覆いかぶさるように襲ってきて、逃げ惑うあたしの服を剥ぎ、犯されたのだと思う……。気が付いたときには、何かを飲まされて、朧げな意識になっていて、よだれなのか何なのかわからないが、体中がドロドロになって、首を絞められていた。

 覆いかぶされる恐怖や、殴られる恐怖は今更だった……


 ただ問題なのは、生存本能に従ったあたしの体が、自分の理性とは裏腹に父を蹴り飛ばし、駆け込んだキッチンから取り出した包丁で実の父をめった刺しにしていたことだ……

 自分でも、おかしな程に、力尽きるまで刺し続けた。


 残響も、絶叫も、サイレン、耳に届かない————————


 今にして思えば、最初に無理やり飲まされた薬のせいで理性や、その他の感覚が増幅されていたせいなのだと思う……

 だから、騒ぎを聞きつけた近所の通報で駆け込んできた警察に取り押さえられるまで、あたしは止まることはしなかった。包丁が骨にあたって砕けようと、拳の皮膚がはがれようとも、父を攻撃することを止めなかった。



 次に目覚めたのは、薬品の臭いが鼻につく、病院のベッドの上だ。両手や首元には包帯がまかれ、頬にはガーゼがつけられていた。何日眠っていたのかはわからないが、痛む体を起こして窓の外を見てみれば、やけに日光がまぶしかった。


 そこからは怒涛のような展開だった。


 目を覚ました後は、警察から事情聴取を受け、その後、刑事起訴となった。顔や体の形がなくなるまで攻撃を続けたあたしは、正当防衛が認められることはなかったが、精神が不安定であったことや、状況から情状酌量の余地ありとして、少年法に基づき、保護観察処分を受けた。


 家などは当然、売り払われ、あたしは親戚に引き取られることになった。ここで、その引き取った親戚の叔母や叔父が本当の意味で優しければ、このシナリオはきっと、救われていたのだろう。でも、現実はそうではなく、叔父と叔母は最初こそ優しくしてくれたが、本当の意味での家族には程遠かった。

 食事や文房具などはきちんと与えられ、体外的な印象を取り繕ってくれて、暴力を振るわないだけ、幾分かマシではあり、ある意味では幸せに思えた。

 そして、なんだかんだで、遠い土地で高校に進学し、友達もできて、ようやくあたしの人生が回り始める……そう思えた……あの時までは————————



 家の窓ガラスが唐突に割られ、石が投げ入れられた。

 家には、スプレー缶や張り紙で『人殺し』などと書かれ、近所では陰口を叩かれる。

 いつ広まったのかもわからないあたし自身の噂は尾ヒレ歯ヒレが付き、現実とは程遠い犯罪者にあたしを仕立て上げていた。

 それをきっかけに、叔父と叔母の態度は急変し、こちらを疎み、まるで生き物ではないように扱いだす……


 学校でもそうだ————————


 友達だと思っていた人物には距離を置かれ、机や下駄箱が荒らされていることなんて日常茶飯事……。お金が無くなっていたり、体操着が切り裂かれていたり、なんていうのもよくあった。

 酷いときには机の上に花瓶が置かれたり、校舎裏に呼び出されて暴行を受けることもあった……。


 でも、それらを相談しても、教師は「じゃれているだけ」と一蹴し、叔父や叔母は聞く耳すら持たなかった。


 あたしは全てに裏切られた————————


 何もできず、何も抗えず、次第にエスカレートしていく誹謗中傷やいじめ……。それは次第に人間的行為の範疇を越え始め、食事に針や虫を入れられ、便器に顔を押し付けられることも日常的になり始めた。

 そして最後には、勝手に書かれた遺書を見せられて、脅されながら全裸にされ、そして、冬の極寒の中、屋上から横断幕と共に吊るされた……。


 後ろに描かれていた文字は、『私は人殺しの犯罪者です。生きていてごめんなさい』だ……。まったくもって、非人道的すぎる行為……。


 正直に言えば、この後、これを行った彼ら彼女らがどうなったのか、あたしはわからない。何故なら、あたしは、長時間吊るされた鬱血と、寒さによる低体温症により、そのまま息を引き取ったからである。


 恨みはない……でも、そいつらに同じ不幸が訪れればいいと思わずにはいられない。


 何はともあれ、こうして、あたしの短い人生は終わりを迎え、気が付けばここに、この姿で目覚めた。

 それは、何かの運命だったのかもしれないし、神様の気まぐれだったのかもしれない。いずれにしても、あたしは、今までで一番の幸運ではないかと思わずにはいられない。何故なら、初めて、心の底から信頼できる人物と出会えたのだから……。


 これが、妻吹いつきの“しょうもない”人生のお話である————————



 ◆◆◆◆




 あたしはレムナントに全てを打ち明けた。

 レムナントは食事をとりながら、時折寂しそうな顔をしながら、一言もしゃべることなくそれを聞き届ける。そうして、全てを話し終えた後も、レムナントは何も言うことなく、「少しだけ時間が欲しい」と言い残して眠りについた。


 あたしは、それを拒否の表れだと自覚しつつ、それ以上は何も語らず少しだけ離れた位置で横になった。

 明日になれば、この奇妙な共闘も終わりを告げる。そうすればレムナントとも別れることになり、気にしなくてもよくなる。でも、それまでは険悪なムードを出すことなど、モチベーション低下のデメリットが大きすぎる。だから、レムナントは押し黙ったに違いない……

 あたしは朝に目覚めて、出発の間際になるまで、そう……思っていた。


 荷物をまとめ、テントを畳み、出かけた後で歩くと、しばらくは無言であり、レムナントとあたしは一言もしゃべらなかった。しかしながら、しばらくした後、レムナントはこちらに振り向くことなく、歩きながらゆっくりと口火を切った。


 「昨日のこと……少しだけ考えマシた……」


 横から見ても、彼女の真っ直ぐな表情は変わらない。恐らくは、本気で、あたしと向き合ってくれているのだろう……。


 「殺人は……レムナントにも経験がありマス。もちろん、生きるためのものもありマシたが、意味もなく、命令に従ったものもありマシた……。でも、それで、傷つくことはなかったデス」

 「それは……やっぱり……そういう時代だからだよ……。あたしみたいに平和な世の中じゃないしね」

 「倫理観は関係ありマセん。原因は、自分自身の考え方デス」

 「どういうこと?」


 レムナントは白無垢の裾をふわりと空中に舞わせ、手の中に漆黒の大鎌を生み出す。そして、それをこちらの首元に押し付けた。


 「あなたが、父親を殺して後悔するのは他でもなく、あなた自身によるものというわけデス。誰かを大切に思っていなければ、こうして誰かを傷つけようとしても心が痛むことはない」


 言葉が詰まる————————

 でも、否定しなければ、決定的事実を受け入れてしまいそうで怖かった。


 「じゃあ……あたしは、あの父親のことを……大切にしていたってこと?」

 「全部がそうではないと思いマス。しかし、ほんのちょっとでも、大切にしていた感情があったからこそ、あなたは苦しんだ。違いマスか?」

 「認めたくない……でも……それが事実なんだよね、きっと……」


 そうだ……。

 きっと、あたしを遊び感覚で殺したあのクズ共は、きっと、あたしが死んでも、玩具が壊れたような感想しか抱かない。だからこそ、こちらが苦しんでいることなど意に返さずに、いつも笑っていた。

 まったくもって理不尽だ……

 理不尽すぎる————————


 「納得……しマシたか?」


 そういいながら、ゆっくりとレムナントは大鎌を地面におろす。その瞬間に、大鎌は黒い霧となって霧散し、闇に溶けるように消えていく。


 「きっと……レムちゃんにとっても……あたしは……きっと、殺しても傷つかない存在なんだね……」


 あたしは弱々しくため息を漏らし、作り笑顔を浮かべた。あまり考えたくはなかったが、こちらに武器を向けられた時点でその可能性は頭の中にあった。結局、あたしは……





 「いいえ……そうではありマセんよ……」


 唐突に胸元が熱くなる。

 それは、レムナントの返した言葉の重みだったのか、それとも、白無垢を優雅に舞わせながら、こちらの腰に腕を回した彼女の優しさだったのかはわからない。しかしながら、正面から抱きしめられて、あたしはレムナントという温かさを感じたことは間違いない。

 身長差があるレムナントとあたしでは、身長の低いレムナントが子供のように思えてしまう。でも、その温もりだけは……どんなものよりも大きく……そして……


 「確かにはじめは、ただの共闘関係デシた……。けれど、今は違いマス……。あなたのことを、“戦友”として、受け入れていマス」

 「“戦友”かぁ……どっちかと言ったら、友達の方がよかったかなぁ……」

 「トモダチ? あなたが望むのならそれでも構いマセんが……」

 「そっか、友達……友達かぁ……。友達……」


 目頭が熱くなり、頬を液体が伝っていく。何故泣いているのか、どうして胸の鼓動が止まらないのか、わからない……

 今までも、「友達だ」と言える存在はいたはずだ……。


 いいや、そうではない————————


 だってそいつらは、周囲の状況を見て、手のひらを容易に返したのだ。挙句の果てに、こちらを傷つけることに加担し、一緒に笑っていた……。

 レムナントと一緒にする方がおこがましい……

 そうでなければ、あたしが、顔をぐしゃぐしゃにしながら泣いている理由が見当たらない。


 「辛かったデスね……苦しかったデスね……。大丈夫デス……。ワタシは、あなたの過去を否定しマセん……。あなたの思いを笑いマセん……」

 「あたしは……あたしは……」


 誰かに認めてもらいたかったのか……。

 たぶん、それは少しだけ違う……

 あたしは、たぶん、自分という存在を肯定してもらいたかったのだ。


 “生きていてもいいよ”と言ってもらいたかっただけなのだ————————


 過去を抱えたまま、ありのままの自分を受け入れて、それでもなお、同じ目で見てくれる人が傍にいてほしかった……。でもそれは、前世では一人もいなくて、死んでからようやく出会えた……。


 「イツキは、立派な人間デス。自分の過ちに正面から向き合うことができる立派な大人デスよ……」

 「苦しい……いやだよ、こんなの……」

 「それでも、目を瞑って逃げ続けている誰かよりはずっと立派デス」


 レムナントは一度抱擁を止め、見上げるように、泣きはらしたこちらの顔をのぞき込む。


 「苦しむ時間はもう終わりデス。ここから先は、イツキが、自分自身の為に生きる時間デス」

 「どうすればいいのかな……」

 「それは、あなたにしかわかりマセん。だって、その選択権はあなた自身がもっているのデスから……」

 「あたしが……決める……」


 自分自身で決めることなど今までなかったが故に、少しだけ戸惑ってしまう。今までは、恐怖や悔悟の感情に押しつぶされて、全て他人の感情に押し流されてきた。でも、今はそうではない……

 ここには、そんな感情を押し付けてくる人物たちはいない……

 たしかに、自分で考えることは辛いけれど……それでも、それはほんの少しだけ戸惑っているだけで、明確な恐怖ではない。


 「わからないのならば、最初の一歩は、一緒に踏み出しマショう」


 そう言いながらレムナントはこちらの手を引き歩き出す。あたしはそれにつられるようにしてよろけるように前に進みだす。

 ランタンの淡い灯りしかない暗い坑道内ではあったけれども、それは、何よりも眩しく、そして何よりも温かく思えた。


 「レムちゃん……あたしは……ううん……一緒にここを出よう!」

 「当たり前デス。それが、最初の一歩デスよ!」


 あたしはレムナントと手を繋いだまま、歩幅を合わせるようにレムナントの隣を歩き始める。狭い坑道内は、二人が歩くにはギリギリの幅ではあったが、肩が擦れることなど忘れる程に、胸の奥底が熱かったことを憶えている。



 こうしてようやく、イツキというあたしの物語が始まった————————



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