終章 数えきれない思い出


 夜が明ける————————


 戦闘に熱中し過ぎたせいか、時間を忘れていたことをアリッサは自覚する。昇る朝日を遮るように、半透明になった右手をかざしてみれば、疲れと共に、少しばかりの後悔が胸に突き刺さる。

 本当ならば、帰国して、グリーゼから色々と出立の道具などを貰う手筈であったが、こうなった以上はそれも望めない。アリッサという記憶を取り戻した時点で、彼女はこの時代にとって異物であり、即座に排除されてしまう。

 今、こうして残れているのは、体の至る所から匂う甘い花の香りのせいだろう。だが、それももうすぐ終わる……。与えられた役割を終えた今、ここに留まることなどできない。何より、これ以上、歴史に干渉してしまうことは、元の時代に戻る際に悪影響を及ぼしかねない。


 それでも、『もう少しぐらいは、ここにいてもいいのではないか』と思うほどに、存外に愛着を持ってしまっていた。アリッサはそんな自分の考えを鼻で笑って風に流しつつ、疲れた体を休ませるように、抉れた地面にゆっくりと腰を下ろした。


 膝を折り、右手を地面について顔を上げてみれば、朝日が上り始め、荒れ果てた大地が徐々に赤みを帯び始めている。それは、酷く汚れていたのかもしれないが、それでもアリッサにはそれがとても美しく見えてしまった。


 そんな折、そんなアリッサに影を作るかのように、誰かが目の前に立った。アリッサがそれに気づいて顔を向けると、そこには、心配そうにこちらを見下ろしているクライムがいた。


 「お出迎え? それとも、お別れを言いに来たの?」

 「さぁ、どっちだろうね……」

 「まぁ、どちらでもいいけどさ……。悪いけど、グリーゼには謝っておいてくれるかな」


 アリッサはクライムに向けて苦笑いを浮かべる。するとクライムは明らかに怪訝な顔をしながらアリッサを睨み返して来る。


 「残念だけど、私には戻る場所があるんだ。もう、ここにはいられない……」

 「そうか……きみにとっての大切な場所なんだね」

 「うん……何よりも捨てがたい、私の宝物……」

 「そうか……なら、仕方ないな……」

 「うん? 随分と諦めがいいね」

 「まぁね……。元より、きみを引き留める権利なんてないからさ」


 アリッサは寂しそうに笑うクライムを見て、少しだけ胸が苦しかったが、それでも、それを胸の奥底に押し込めて、不器用に笑って見せる。その瞬間、この時代で過ごした沢山の思い出が頭の中で逡巡し、リタとして過ごした記憶……つまりは楽しかったこと、辛かったことなど、ありとあらゆる“大切な思い出”がアリッサの中に溶けていくような気がした。


 「大丈夫……。また会えるよ……。長い長い時間がかかるかもしれないけどさ……」

 「それは……俺の“呪い”に関係しているのか?」

 「そうだね……。あなたは魔王と再会するまで絶対に死ぬことはなかったよ。それこそ、伝説になるぐらい……」

 「ははは、それは笑えるな……」

 「————————でも、そんな長い時間を経ても、あなたはあなたのままだった。それは、この……」


 アリッサは『このアリッサが証明する』と自分の名前を言おうとして、言葉に詰まる。まるで、名前そのものを言うことが不可能であるかのように……。おそらく、何らかの魔術もしくは世界そのものの干渉を受けているのだろう。

 それに気づいたアリッサは一度深呼吸をして、もう一度言い直した。


 「どんなに長い時間がたっても、あなたは出会いを何一つ忘れてなかった。おじいちゃんになって、白髪まみれだったけど、それでも、誰よりも輝いていた勇者だったよ」

 「それは、きみが見聞きしていたことかい?」

 「さぁね……。私が見たことかもしれないし、適当な妄想を言っているのかもしれない」

 「よく言うよ……」


 自嘲気味に笑う二人……。それはすぐに収まり、しばしの沈黙が2人を襲う。二人は、互いの瞳を交差させたまま、何も言わず、口を紡いだ。どちらも、別れの言葉など言えるはずがなかったのである。

 だが、アリッサはその空気を感じ取り、一度深呼吸をすると、まるでクライムを追い払うかのようにジェスチャーでいなくなるように促し始める。


 「さぁ、行った、行った! 聖女様に報告して、とっとと嫁さんのところに帰りな」

 「キミらしい言葉だな……」


 その言葉を聞いて、クライムは不器用に笑うと、アリッサの言葉に従うかのように背中を向け、ゆっくりと歩き出す。アリッサはそんな朝日に向けて歩き出すクライムを見送り、静かに呟いた。


 「またね————————。クライム……」


 クライムは風に乗ったその言葉を聞き、勢いよく振り返る。だがそこには、リタの姿はなく、荒れ果てた大地の身が永遠と広がっていた。

 それでも、クライムは誰もいない空間に向けて微笑む。そしてたった一言だけ呟いた。


 「また会おう、リタ————————」


 そうして、また踵を返し、明日へ向けて勇者は進み続けるのであった。

 クライムはこの日の出来事を忘れない。

 歴史の一ページに埋もれた、小さな小さな出来事であったが、それでも、その少女との出会いは、クライムが人間でいられた、“大事な記憶”の一つとなるのであった。


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