第10話 あの日の景色をもう一度


 暗い暗い水底で、少女はうずくまっていた。


 膝を折り、腰を下ろし、頭を下げ、誰もいない虚無の中で目を瞑り続けている。


 ブレザー服のような学生服を着た年相応の茶色の髪をした少女は紛れもなく、自分であると、リタは自覚できた。それを自覚した瞬間、ここが自分の心の奥底であり、今まで思い出せなかった少女としての心だということにも気づくことができた。


 だからと言って、何かをできるわけではない————————



 顔を上げたところで、光が見えるはずもなく、周囲を見渡したところで、何かあるわけでもない。ただ、立場が違う小さな少女の丸まった背中を、眺めていることしかできなかった。

 記憶の共有は今しがた行い、アリッサとしての自分が、どれだけの苦痛を味わったのかが分かった。それは、16歳になったばかりの少女にはあまりに酷であり、相応の訓練を受けていない彼女にとっては、精神を壊す当然の理由にもなったはずだ。



 例え、傷が癒えようとも、その時の痛みがすぐにフラッシュバックし、幻覚痛が体表を駆け抜ける。誰が呼んでいるのか、誰が喋っているのかも耳には届かない。どれだけ泣き叫ぼうと、永遠に終わることのない地獄がそこにあり続ける……。



 もし、この少女が、何に対しても無気力であり、誰とも出会わず、平穏に過ごせる選択があったのならばと、切に願わずにはいられない……



 思えば、夏休み前、元魔王に敗北した後、フローラに励まされ、廊下で出会ったその元魔王の頼みを受けていなければ、その後の事件には深く足を踏み入れることなく、闇の世界すらも知らずに過ごせたのだろう。






 だがそれがどうというのか————————



 そんなことをすればきっと、少女は彼には出会えなった————————


 自分に同じ“転生者”として、あるべき姿や、強くなる秘訣。そして、勉強や訓練に付き合ってくれた優しい“先輩”と共に居ることはできなかったのだろう。

 キサラやフローラという友人はいたのかもしれないが、彼女たちと本気で肩を並べて助け合うことができたのだろうか……


 全ては結果論に過ぎない————————



 でも————————



 その選択をしたおかげで、苦しいことがあった半面、嬉しいこともその数倍はあった。いろいろな人と出会い、そして、色々なことを経験することができた。

 そんな彼女を、右も左もわからず、長い旅路を彷徨い続けたリタは『羨ましい』と思ってしまう。


 もしも、ここに『先輩』がいたのならば、悩むことなく、もっと早く答えにたどり着けたのだろうと思わずにはいられない……。


 リタには確かに仲間がいるが、それはいずれ別れを告げる一期一会の関係だ。強い絆で結ばれたアリッサの『月のゆりかご』とは違う。



 それなのに————————



 そんな仲間がいるのにも関わらず、何をメソメソとうずくまって泣き叫んでいるのだ、とリタは憤慨する。自分よりも上手く体を使いこなし、自分よりも上手に魔術行使できるアリッサがどうして、こんなところで立ち止まっているのだと怒りを覚えずにはいられない。



 そんな感情の揺れ動きは、魔力となり心臓を動かし、水底で呼吸すらできないはずのリタの唇をゆっくりと動かした。


 「何をしている————————」


 うずくまっている少女は何も答えない。それどころか、指一本すらも動かそうともしない。


 「何をしているんだ、お前は———————」


 何度も何度も、自分の選択に干渉しておいて、今更その体たらくは何だと、リタは感情を高ぶらせる。




 「お前さえいなければ、私はここで幸せに生きれたはずだ」





 その言葉に対し、ようやくアリッサは震えるような声を発し、顔を上げることなく、うめく。


 「うるさい……」

 「散々、帰ることを願っておいて、今更、譲るっていうのか」

 「だって……」

 「嫌な思いをもうしたくないから、ここでずっとこのままにしているつもりか」

 「仕方ないじゃん……」

 「それがお前のしたいことか……」


 少女は答えない。ただただ、俯いたまま全てを諦め、目を逸らし続ける。その光景が酷く滑稽で、リタは胸の奥底からうねりにも似た嫌悪感が噴出する。奥歯を噛みしめて耐えれば少しだけ鉄の味がして、不快に思えた。


 「卑怯者————————」

 「なんとでも言えばいい……」

 「辛いことがあったぐらいで目を瞑って、何かをしようともせず、引き籠っているだけの卑怯者……」

 「お前に何がわかる……」

 「大切な仲間すらも見捨てて、大好きな人からも目を逸らして、何もかもを無駄だと諦めてここにいる卑怯者が……」

 「お前に何がわかる————————ッ!!」


 今まで小声でしか反論してこなかった少女が声を荒らげて、怒りを口にする。


 「貴女はいいよね……何もせず、最初から強い力を持っていて……苦労もせずに仲間を手に入れて、さぞ気持ちよかったんだろうね」

 「気持ちよかった? 何言ってるんだ。最初から最後まで気持ち悪かったさ……。何か大切なものを忘れていて、何か大切な人との思い出を失って……。胸がいつも苦しくて……。その理由がようやくわかったと思ったらこれだ……」

 「だったらそれを全てわかった今、悩むことはないじゃん……」

 「この時代に残れと? 本気で言っているんだったら、本当に手の付けようがない阿保だと思うけど?」

 「じゃあ、また、嫌な思い出に苛まれながら生き続けろと……嫌だよそんなの……痛いのも、苦しいのも……何もかもいや……。もう、そんな思いはしたくない……」


 リタは息を飲む。まぶたを閉じ、もう一度よく考える。

 確かに少女の言う通り、もう一度あんな苦しい思いをするくらいならば、ここで安寧を求めた方がいいのかもしれない。

 記憶に蓋をして、何もかもを投げ捨てて、狂ったように何かに打ち込めば、やがては全てを忘れて幸福になれるのかもしれない。でも、そうしようとしない自分がいるのはきっと……

 リタはあらゆる記憶を頭の中で逡巡させ、一つの答えにたどり着く。








 「ねぇ……あなたの脚はまだ繋がってる?」





 その言葉を聞いた瞬間、うずくまっていたはずの少女の顔がわずかに動いた。


 「まだ歩けるよね……。まだ走れるよね。まだ跳べるよね……。足だけじゃない、腕も頭も何もかもがまだ動くよね……。なのになんで諦めるの?」

 「それは……」

 「懐かしいグラウンドを車椅子の上で眺めているだけのあなたじゃないでしょ……。まだ体を自由に動かせて、楽しいことも、辛いことも、誰かとわけあえるだけの自分がそこにいる……」

 「でも、もう二度と……」


 リタは一歩、また一歩と前に進み、少女の前でしゃがみ込み、うずくまった小さな体を包み込むように両手を回した。


 「そうだね……痛いことも苦しいことも、二度とごめん……」


 そして、リタは、少女の耳元で「だけれども」と言葉を続けた。


 「大切な人たちが頑張っているのを、何もできずに、遠くから眺めているなんてもっとごめんだ……」

 「わかってる……だけど……」

 「痛いことも苦しいこともあるかもしれない……。でもそれと同じ分だけ、あなたはたくさんの人から受け取ったものがある」

 「わかっているよ……」

 「なら、大好きな人を待たせておく理由はないんじゃないの?」



 暗い水底に差すはずのない光が刺した気がした。少女しかいないはずの暗黒にたった一筋の……されど、彼女が立ち上がるには十分すぎる程の勇気理由がそこにあった。


 他者から見れば『くだらない』と、嘲笑されてしまうほどの単純な理由。でも、アリッサにとってはそれが何よりも大切で、何よりも代えがたいこと。

 望郷の中に見たあの日の夕焼けに比べれば、地獄の炎はぬるま湯にすら思える。


 誰かから奇異の眼差しを向けられ、誰かから哀れみの目で見られ、苦しかったあの日々———————


 体を動かそうとしても、自分の命令通りに動こうとしない半身———————


 努力していたものが一瞬のうちに奪われ、何もできずに、仲間が汗水を拭い、練習に打ち込むさまを、遠いところから眺めていることしかできなかった——————



 けれども、今は違う————————


 自由に体を動かすことができ、息を吸い込めば肺一杯に酸素が取り込まれる。気持ちよく体を動かしながら、誰かと競い合い、誰かと笑い合い、誰かと喧嘩し、誰かと悲しみを分かち合う。

 その熱は失われることなく、いつもアリッサの心を動かし続けてくれていた。



 そんな当たり前の日々こそが、アリッサにとっての何よりも代えがたく、失いたくないものだ————————




 それを自覚した瞬間、ふと、自分の耳元でささやき続けてくれた誰かが消え、肩の重みが消えた気がした。顔を上げてみれば、意外にも視界は冴え、光が差し込んだ水面に映る薄桃色の瞳は色あせていないように見える。


 両の手足に力を入れてゆっくりと立ち上がってみれば、そこには、三年の月日を過ごしてくれたリタではなく、彼女に背中を押され、ようやく前に向けて歩き出そうとしていたアリッサという少女がそこにいた————————


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