第8話 勇者クライム・ブリューナスⅠ


 クライムは気が付くと、リーゼルフォンド国の中心にある屋敷の中で立っていた。甘ったるい花の臭いと共に、唐突に転移してきた勇者を見て、館内の人たちは戸惑いこそしたが、意識を失っているリタを見て、状況を理解し、何も言わずに手足を動かしてくれている。


 結論から言うのならば、威力偵察に出ていた二人が、明らかに惨敗して帰還してきたため、人々は不安を募らせてしまった。

 加えて、縋るはずの希望が、ただ俯き立ち上がろうとしないとなれば、自ずとその悪い空気は街中に伝播してしまう。そんな状況下にあっても、リタは呼吸こそしているが、一向に目覚める気配はなく、眠り続けている。

 このまま目を覚まさなければやがてはやせ衰え、そして衰弱死に至る。


 だからといって、リタの治療に時間を割くわけにはいかない……。魔物の統率者たる聖女ブロスティ・リーゼルフォンドを放置することはすなわち、国の崩壊のみならず、再び、世界が混沌の時代になる可能性すら見えているからである。



 それを理解しているからこそ、クライムは顔に暗い影を落としながらも、それを必死で喉の奥に押し込めて、たった一人、応接室にある地形図や書き記したメモなどを眺めていた。

 そんな折、その重苦しい空気を感じ取っている二代目の聖女エルミナは開け放たれた出入り口の扉に手をかけ、中に入る前に一度立ち止まってしまう。

 暗く、灯りである蠟燭すらもない室内の中を見れば、何かを小言のようにつぶやき続けている勇者が目の前にいて、その背中には、数えきれないほど多くの何かがのしかかっているようにも見えた。


 それは、聖女としての立場を受け継いでいる自分の重責よりも遥かに重く、自分という存在がとてもちっぽけであると自覚させられた瞬間でもあった。しかし、エルミナは膝を震わせ、拳を固く握り目ながらも、その勇者に近づいていき、陶磁器に入れて汲んで来た水を彼の目の前に置いた。


 「勇者様……少しお休みになられてはいかがですか?」

 「あ!? あぁ……すまない……」


 クライムは思いのほか自分の額が熱を帯びていることをここで初めて自覚した。根を詰め過ぎて、破裂寸前になっていたところに声をかけられ、ようやくそれを理解したのである。


 「勇者様のお仲間であるリタ様は休んでおられます。あなた様も休息を取らねば————————」

 「違う————————ッ!!」


 クライムは声を荒らげるようにして言葉を遮ってしまったことを遅れて気づき、同時に、体を震わせているエルミナが視界に映ったことで、ようやく正気に戻り始めた。

 クライムはたった一言「すまない」と言い、応接室のソファにうなだれるように腰かけた。


 「あれは……休んでいるんじゃない……精神や魂そのものにダメージを受けていて、目が覚めないんだ……」

 「それは……まさか……」

 「あぁ、たとえ彼女がどんなに丈夫な体を持っていようと、深い水底に意識が閉じ込められてしまえば、目が覚めない。このままいけば、彼女は死に至る……」

 「そんな————————ッ! なにか助ける方法は!」

 「あるにはある……が、しかし、それをすれば、敵の対処ができなくなる……」

 「そう……ですよね……。今、我々に敵と対等に渡り合えるのは、勇者様をおいてほかに居ませんから……」

 「くそ……どうして俺はいつもいつも、一人では何にもできないんだ……」

 「申し訳ありません。わたくしどもに力がないばかりに……」


 エルミナは唇を噛みしめつつ、自分の無力さを呪った。彼女にできることと言えば、簡単な治癒魔術を行える程度であり、戦闘経験はおろか、まともにモンスターすら対処できるかすらもわからない。だからこそ、不安にあおられ、思わず、掠れるような声で、心情を吐露してしまった。


 「こんな時、ブロスティ様がいらっしゃれば————————」


 クライムは思わず、テーブルを強く叩いてしまった。その衝撃を受け、大理石でできたテーブルはひび割れ、上に乗っていた資料はおろか、陶磁器に入れられた水すらも床に散乱してしまう。

 当然のことながらエルミナは再び怯え、肩を震わせて、クライムの顔色を伺い始めた。


 「やめてくれ……今は……その名を言わないでくれ……」

 「やはり……ブロスティ様は……我らを護るために……」

 「違う……そうじゃないんだ……そうじゃ……」


 クライムは聖女ブロスティ・リーゼルフォンドが件の敵であることは話さない。話してしまえば、この街のみならず、今まで彼女が必死に護り続けたものが一瞬で崩壊してしまうと理解しているからである。だからこそ、彼女たちには、『死んだ』と告げた方が、都合が良い。

 それを頭で理解しているが故に、誰にも話すことができずに、より深みに落ちて行ってしまう。


 「こんな時、ブロスティ様なら……きっと……ううん。絶対、『俯くな、顔を上げろ』と言うに違いありません……。だって我々は、そのように教えを受けてきましたから……」

 「キミは……勤勉な信徒なんだな……」

 「はい……。『人はいつか死ぬ、だからその時まで後悔のないよう必死で生きろ』という言葉も、昨日のことのように思い起こされます……。不思議です……しばらく、顔を合わせていないのに……いつも、傍で見守っておられるようで————————」


 エルミナは自分の頬から大粒の涙があふれ出していることに遅れて気づく。止めようにも、止まらず、服の裾で拭いたとしてもとめどなく溢れ出てしまう。その光景を見て、クライムは自分の“嘘”が突き刺さり、胸が苦しかった……。


 「こんなところで……泣いているわけにはいかないんです……。わたくしは……わたくしは……聖女なのですから……」

 「無理をしなくていい……慕っている者の死など、乗り越えられる人の方が少ないものだ」

 「無理なんてしてません————————ッ!」


 涙を震わせ、両手を固く握りしめながら、小さな聖女は吠え猛る。


 「わたくしが先に泣くわけにはいかないのです。一番お辛いのは、勇者様ではありませんか……。それを差し置いて、わたくしだけが泣き喚くなど、言語道断です……」

 「それは……」

 「だから、ここで俯くわけにはいかないのです。たとえ、わたくしが偽物の聖女であろうとも……何の力もない、ただの村娘であろうとも……」


 その言葉を聞いて、クライムは「もしも—————」と考えてしまう。

 もしも、あの時、帰還を選択していたのならば————————


 クライム・ブリューナスは紛れもない転生者だ————————


 ここではない遠い世界の、こことは少し違う時代の、同じような気候に街で生まれたごく普通の青年だった。それが、この世界に来て、様々なことを経験し、旅の最中、元の世界に帰還を選択できるタイミングで……彼はそれを選ばなかった。

 だからこそ、『選ばなかった方の可能性』を夢見てしまうことはよくある。それは、平和な世界で、武器を取らず、自らが争うことなく、安全に暮らし、こんな重圧も背負うことすらなかったのだろう……。


 思えば、そこからの旅路で、随分と心がすれてしまったような気がした。


 数々の出会いと別れを経て、成長はしたが、同時に自分の中の何か大事なものが消えていく感触が拭えなかった。だからこそ、久方ぶりに、誰かの死で感情が揺れ動いてしまった自分自身に驚きもしていた。




 ——————でも



 ————————だからこそ




 彼は勇者であるが故に、その干渉を今は胸の奥底に押し込め、思考や手足を動かし続けることができた。

 そして、クライム・ブリューナスは、その最後に残った何か大切なものを、自分の中にしまい込み、泣いているエルミナの頭を撫で、優しく微笑んだ。


 「大丈夫————————。俺がここにいる限り、悪い魔女は必ず討ち取って見せる」

 「———————でも……でも……」

 「先の偵察でアイツの弱点は既にわかっている……。例え、不死身の化け物だろうとも、この勇者が討ち取れないものなんてないさ……」


 実際は、偵察で得た情報じゃない……。彼が、聖女ブロスティ・リーゼルフォンドを傍で見続けたが故に、知りえている情報だらけの、ウソに塗り固められた報告……。

 それでも、その笑顔に救われる人々は確かにいる。目の前にいるちっぽけな聖女もその一人である。


 「勇者様……お願いします……。どうか、この国を……」

 「あぁ、わかっている……。必ずや平和を取り戻そう——————」


 勇者が浮かべた笑みに誰も疑問を抱かない。

 誰も、彼を信じて疑わない————————

 その決断に、どれだけ彼の心がひび割れていくのか、ということを知りもしないのであった。


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