第6話 書庫


「あの、何かすることはないでしょうか」


 手持ち無沙汰になって私は問うた。雨竜さんは首を傾げて何かしたいのかと私に問い返してきた。


「何もしていないと落ち着かなくて……」


「そうは言ってもな。掃除の類も水希がしてしまうし、特段することもない。何か読むか?」


「本があるんですか?」


「まぁ、お前に読める代物であるかは保証できんがな」


 雨竜さんはくるりと背を向けて歩き出す。これは着いていって良いのかなと思いながら私も続いた。何も言わないからきっと着いて行って良かったんだろうと思う。私は察しが悪いからできれば言ってもらえた方が良いのだけど、それを頼むのも気が引けた。


「あぁ、水希は此処も掃除してくれていたか」


 ひとつの部屋に辿り着いて雨竜さんは中へ入った。私は入り口からそっと窺う。雨竜さんは行燈に火を入れて私が入ってきやすいようにしてくれたらしい。ほら、と白い手が差し出され、ずい、と行燈が移動する。川底だからなのか、それとも家の造りのせいなのか、建物全体は薄暗い。神様には問題ないのかもしれないけれど、私の目には暗くてよく見えない部分も多い。

 ありがとうございます、とお礼を言ったは良いものの、進むには部屋全体が暗くて怖い。ぽ、とまたひとつ行燈が灯って屈んだ雨竜さんの姿が見えた。そのまま上に吊るした行燈にも火を入れてくれたから、ぼんやりと部屋全体が照らされる。あまり大きな部屋ではない。板張り四畳半くらいの広さのそれは書庫のようで、小さな文机と座布団が部屋の奥に置いてある。挟むように棚が伸び、何冊もの本が収められていた。


「このくらいの灯りで見えるか?」


「はい、ありがとうございます」


 気遣われて私は恐縮しながら部屋の中へ足を踏み入れた。ひんやりとした床板はストッキングには冷たい。全体的にひんやりした部屋で私は小さく体を震わせた。でもそれより本が気になって棚へ視線を向ける。適当に見繕って取り出して開いてみたけれど、筆で書かれた上に難しくて私はがっくりと肩を落とした。古文の成績は悪かった私にこれは難易度が高すぎる。


「私にはちょっと、難しいみたいです。すみません、せっかく連れてきて頂いたのに」


 へら、と笑った私に雨竜さんは首を傾げた。どれ、と手を伸ばして私の手から本を取って中身を見る。昔話のようだが嫌いか? と問われて首を横に振る。お話は好きだ。本を読むのも。違う世界へすぐに行けるそれは、ひとりで過ごすことの多かった私にとって心強い存在だった。でも読めないなら、言葉に意味はない。


「僕で良ければ語り聞かせるが」


「え」


「読むのは上手い方ではないからな。退屈かもしれない」


「い、いえ。でもそんな、お手間を」


 おかけするわけには、と言う前に雨竜さんが嬉しそうに笑うから私は言葉を飲み込んだ。どうしてそんなに心が温かくなるみたいに嬉しそうに笑えるんだろう。穏やかに笑うからそんなことしなくてもと言い損ねてしまった。


「僕が読んでも良いか?」


「う、あの、えっと、ご面倒でなければ……」


 良いさ、と雨竜さんは言う。外へ出たいと言った時のように気軽に。


「でも此処は少し冷えるな。火鉢を持ってくるから、待っていて」


「え、あ」


 私が答えるより前に雨竜さんは出て行ってしまう。私はどうしてそんなに親切にしてもらえるか分からなくてまごついてしまった。私が妻だからそうしてくれているんだろうか。それとも、願いの叶え方を間違えてしまったと思うから良くしてくれるんだろうか。

 私はそんなに良くしてもらえるような人間ではない。人と上手く歩調を合わせられず、周囲を苛つかせることばかりだ。周りの空気を悪くすることにかけては天才なのかもしれないけれど、そんな才能は何処へ行っても鬱陶しがられるだけだ。身投げしたのだって、仕事をクビになったからだ。

 自分が上手くできないのは分かっていたから、ただ努力した。鈍臭くて、同じことをしたって人の何倍も時間がかかる。朝早く来て、夜遅くまで残った。それで何とか周りに置いて行かれないでできる程度だった。目の前の仕事をこなすだけで精一杯で、人と関係を築くまでは手が回らなかった。それでも仕事上だけの付き合いで良いと思っていた。でもそれが周りの士気に関わると言われたら、私には選択肢がなかった。


「深琴」


 深い声ではっと呼び戻される。よいせと火鉢を床に置いた雨竜さんがその後に羽織を広げて私を包むから、面食らって私は数歩後ろに下がった。がた、とふくらはぎが文机に当たってバランスを崩す。倒れる、と思って目を見開いた。


「おっとと……すまんすまん。大丈夫か?」


 さらり、と色素の薄い髪が頬を撫でて私は更に目を見開く。黒い目が行燈の光に反射しているのがよく見える。自分の驚いた顔さえ見えそうだ。ぐっと支えられた腰に当てられた手は温かい。羽織越しに密着した胸も。唇が触れそうな距離で、微かに湿った土の匂いがした気がした。


「深琴?」


 呼びかけられてハッとした。身を強張らせればゆっくりと雨竜さんは私の崩れたバランスを戻してくれる。抱きすくめられるように咄嗟に支えられた体から雨竜さんの熱が離れた。


「急にすまなかったな。寒いだろうと思って羽織を持ってきたんだが」


 困ったように笑う雨竜さんに、あなたは悪くないと言いたかったのに言葉が出てこなくて、いえ、しか言えない自分を呪った。


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