面倒くさがり屋が世界最強になる方法

夏野漣

第1話 東秀という男

「はぁ……暇だ。誰か殺そうかな」

 少年、東秀は教室の中にいた。

 中肉中背、嫌味のある顔、目を覆うほどの長い髪。両手をポケットにつっこみ、ややうつむき加減で教室のイスに腰を下ろしている。

 地味で怪しげで根暗そうな出で立ちは、ある人は魔法使いのようだと言い、ある人は爬虫類のようだと言う。実際、その眠たそうな瞳から溢れる妖しげな眼光に陰湿さはなく、むしろ人を惹きつける不思議な魅力があった。

 時刻は夜の六時。冷え切った夜の風が教室の窓の隙間から吹き込み、肌を刺すような寒さを感じる。気だるさを感じながらも、眠るには心地よさが足りない夜だった。

「いや、殺すのはいいや。めんどいし……」

 東は気分を切り替えようと頭を振り、窓の外に視線を向けた。外には暗く沈んだ夜が揺蕩たゆたっており、細い雨がせつせつと降っている。窓を叩く風は強く、近いうちに嵐になりそうな予感がした。

「……」

 もしかすると、自分はずっとこの闇の中でもがいていくのかもしれない。窓の外に広がる闇をなんとはなしに眺めては、東はそんなことを考えた。

 面倒ごとばかり起こり、面倒ごとがなければ退屈で死にそうになる毎日だった。苦痛と退屈の二択しかない人生、そんなもの永遠の闇と変わらないではないかと思い、暗鬱な気分になる。

 夜の彼方を見つめながら、東は内心の虚無を吐き出すように軽く溜息をついた。

「おい、東ァ! よそ見しないでちゃんと授業を聞け!」

 教室の前方から、いわおのような声が響く。

 そこには、熱血という言葉を体現したような男が教師として君臨していた。褐色の肌に、筋肉質な体。熱烈峻厳たる意気を全身に横溢おういつさせ、双眸には決然たる使命感が冴え冴えと輝いている。

 生徒を正しく導く、という思いが確かな誇りの炎となって背の後ろで燃えていた。

「あぁ、悪い。退屈だったから聞いてなかった」

「なっ……」

 さすがにこの返答は予想外だったのだろう。

 教師の目が大きく見開かれる。それは驚きではなく、煮えたぎるような憤激と侮蔑によるものだった。

 対して東は、非難の目などどこ吹く風、飄々と受け流して斜に構えていた。

「テメェ、それが教師への口の利き方か! というか、授業を聞いてないにしても教科書くらいは開け!」

「あぁ、失礼。生まれてこの方、同じ教科書を二回以上開いたことがないもんでね。つい習慣的に開くのを忘れてしまったよ。何度も開かないと理解できない人間は苦労するよな。心中察するよ」

「あ? テメェ、教科書の内容は全部理解したっていうのか?」

「当たり前だろ。理解した上でお前の授業は退屈だと言ってんだ。進みは遅い、効率は悪い、教科書の丸写し、公式の丸暗記、こんな生ゴミを寄せ集めた三角コーナーみたいな授業、やる意味もなければ聞く価値もない。さっさと終わらせろ」

 瞬間、教卓のそばに置いてあった空き机が蹴り飛ばされた。

 教師の瞳に怒りの炎が灯る。瞳に宿した黒い炎は、目に映るものを全て一気阿世いっきかせいに焼き尽くさんとばかりに躍っていた。

 東を除く生徒たちは恐れ戦き、教師と目を合わせないよう、必死になって教科書に視線を落としている。皆、喉元に剣を突き付けられたような圧迫感を覚えていた。

「……全範囲学習済みだといったな。だったら、この問題を答えてもらおうか」

 手に持った教科書を教卓に叩きつけると、黒板に向き直り、数字や記号、問題文を殴り書いていく。そのあまりに鬼気迫った背中に、教室の中の何人かが怪しい汗を光らせた。

 ———数分後、黒板には何十行という文章問題が書き加えられた。

 教師の顔には、俺に逆らったことを後悔させてやる、という感情がにじみ出ている。

「オラ、さっさと解け。解けなかったら皆の前で土下座してもらうからな」

「はぁ……はいはい」

 椅子から立つのも面倒だと言わんばかりの顔で体を起こすと、黒板の前に立ってサラサラと答えを書き始める。三十秒ほど経って、黒板にはきれいな字で書かれた数式が二つ出来上がった。

「解けたけど、なんか文句ある?」

 それは、必要なものだけを詰め込んだ美しい解法だった。暗算や公式を使って無駄な計算式を最大限省き、シンプルさを究極まで洗練させた、もはや作品と言うべきものだ。

 このような解法は一朝一夕で身につくものではない。学内でも抜きん出て優秀な生徒でも達成できるか不明な一種の偉業である。

 だが、教師はその計算式を見てつまらなそうに鼻を鳴らすと、憎々しげに吐き捨てた。

「ほう、六分の一公式を使ったのか。そこはまだ授業で教えてねぇよなぁ? えぇ? 習ってない公式を使うなって小学生の頃に教わらなかったか? それに途中式を省略しすぎだ。こんなんじゃ答えを見たと疑われても仕方ないし、大人に『時間をかけて頑張りました』って誠意を示せないだろ。あのなぁ、お前、社会を舐めてんのか? とにかく、下の者は上の者に逆らわず、『自分が悪かったです』って頭を垂れて付き従ってりゃいいんだよ。その上の者に対する忠誠心こそが社会の潤滑油であるわけだし、ゆくゆくはお前らのためにもなるん————」

「はぁ…………面倒くせぇ、これいつまで続くんだ?」

 東は盛大に顔を歪める。感嘆とともに、胸の中にどす黒い鬱憤がガスのように充満していく。

 東はよく言えば効率重視の合理主義者であり、悪く言えば面倒くさがり屋な人間であった。時間のかかるものをひどく嫌い、何事も迅速かつ最速で、結果が同じなら手間のかからない手段を取る。最小努力最大効果こそが最も尊ぶべき信念であり、彼にとっての金科玉条だった。

 そんな東にとって、やり方一つ解き方一つで長々と説教するのは唾棄だきすべき行為であり、心の中でひどく虫唾が奔る思いがしたが、彼は自分を褒め称えたくなるほどの克己心で、益体のない話を延々と聞かされる苦行に耐え続ける。

「今日も一日が長いな」

 ぽつり、と窓に滴る雫のように呟いた。


 夜。

 街並みは深く、暗く、寝静まっていた。動くものとてほとんどなく、聞こえる音とてほとんどない。細い雨が降る中、誰もいない通りの中を一人歩き続ける。

 同病相憐れむというわけではないが、暗澹あんたんたる感情に沈んだ東にとって、孤独な闇は何とも身になじむ場所であった。

「———ったく、俺が悪いみてぇじゃねえか」

 なんとはなしに天を仰ぎ、呟く。

 頭上には一面の黒い曇。東は罪人のように、悄然しょうぜんと雨に打たれていた。

「にしてもあいつ、『時間をかけて頑張りましたという誠意』って、わけわかんねぇよ。十秒でやろうが一日かけてやろうが、結果が同じなら早い方がいいに決まってんだろ。ああいうヤツほど残業時間や睡眠不足でマウント取ってくるんだよなー。あーめんどくせー。仕事が遅いのを誇るバカばかりで嫌になる」

 空を見ながら、心に溜まった鬱憤を吐き出す、いつも通りの帰り道。まだ夜の七時前だというのに静まり返った通りの真ん中を、雨に濡れながら歩く。

「……?」

 ふと、そのいつも通りに東は違和感を覚えた。

 無人の街並み。光のない路地裏。いつもなら気にも留めない当たり前の風景。今はそれが別のもののように見える気がする。うかつに踏み込むことをためらわせる荒波のような激しい気配がした。

「おい、誰かいるのか?」

 闇に向かって誰何すいかする。返事などなく、物言わぬ影法師が揺らぐだけ。

「……」

 漠然と体が震えだす。暗い気持ちにかげっていた心中が、別の不安で満たされていく。

 行き先のない迷路に迷い込んだような、あるいはどこまでも深く昏い海の底を覗き込んだような逃れようのない恐怖が彼の心中を襲う。心臓は高く響きながらも、心拍数を下げていた。

「……ッ」

 ここに来て雨が強くなってきた。

 増大する悪寒と恐怖と雨で、視界が点滅し始める。歩みを進めるにつれ、怪しい気配は濃くなっていく。

「ん……? やっぱ誰かいるな……」

 気配の正体がはっきりしてきた。

 男と女。二人が向かい合うように立っている。

 女の方は若く整った顔立ちでスタイルも良く、毎日手入れしているだろう美しい栗色の髪の毛が艶やかさを醸成している。  一方、男は年齢が四十から五十、小太りで頭皮が薄く、いかにも中年サラリーマンといった冴えない相貌をしていた。

「離してください、離してください! いやぁ……」

 見ると、女は男に腕を掴まれ、顔を迫られていた。顔は血の気が引いて首元まで青ざめており、逃げ出そうと必死になって抵抗していた。

「なぁ! お前、俺のことが好きなんだろ? なんでそんなに俺のことを拒むんだよ⁉︎ 好きならもっと近づいて話し合おうよ!」

 男の方は憤死が危ぶまれるほどの興奮状態だった。目は充血しきっており、焦点がまるであっていない。息遣いも荒く、呂律ろれつが回らなくなっているのか、大量に唾を吐きながら喋っている。不潔さと不快感を全身でまき散らしていた。

「好きじゃありません‼︎ どうしてそうなるんですか! 離してください!」

「だって、先月の会議のとき、『あなたの企画、素敵ですね』って褒めてくれたじゃん! あれは俺のことが好きだから褒めてくれたんだろ⁉︎ なぁ頼むよぉ、キスとかハグとかしようよぉ‼︎ そうだ、人目が気になるなら、どこかそこら辺のホテルでも……」

「いやぁぁぁぁ‼︎ 離してぇぇ‼︎」

 どうやら痴話げんか中のようであり、どちらも血を吐きそうな勢いで叫んでいる。男の体は殺気を帯び、女の方は悪鬼を見据えるような必死さで抵抗している。

 落花狼藉らっかろうぜき、踏んだり蹴ったりの修羅場となっていた。

「なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんだよぉ‼︎ なんでオマエまで俺を拒むんだよぉぉ‼︎ 俺には、オマエしかいねぇんだ‼︎ だったら、オマエにも俺しかいねぇだろぉぉぉおおお⁉︎」

 際限のない怨嗟の声。殺意にも似た恋慕れんぼの情。愛と哀、嫌悪と憎悪が入り交じり、阿鼻叫喚のるつぼと化している。

 面倒ごとに自ら首を突っ込むのは趣味ではなかったが、さすがにここまでくると、東とて見て見ぬふりはできなかった。大げさについた溜息は白く染まっている。

「チッ、めんどくせーな。後は自分らでどうにかしろよ」

 大儀そうにスマートフォンを取り出すと、警察に繋げるために119を押す。

 降りしきる豪雨の中、一瞬だけ視界が銀色に光ると、突然————

「え?」

 血。

 血の花が、咲いた。

「—————————————、あ」

 びゅうびゅうと花弁が舞う。

 腹から紅いツボミが出てくる。

 視界には、無惨に飛び散った血痕。

 それでも男は満ち足りなかったのだろう。太もも、二の腕、顔にまでナイフを突き立て、柔らかい肉を荒々しく刻んでいく。

 刃がパックリと食い込んでいき、数秒前まで女の形だったモノをどんどん開いていく。

 よほど愉快なのか、男は血を吐くように笑っていた。

「……ッ‼︎」

 恐怖で背筋が凍り、吐き気と悪寒で意識が途切れそうになる。

 無論、東とて他人が殺されているのを見ただけで生存を諦めるような脆弱ぜいじゃくな器量の持ち主ではない。動転する思考とは別の、心の中で一番醒めた部分が『逃げるべきだ』と冷静に叫んでいた。

 だというのに、体はピクリとも動かず、呼吸をすることさえも忘れてしまっていた。

「この、この、このぉ! ふざけやがってふざけやがってふざけやがって‼︎ 期待させるだけさせておいて裏切るのかぁ‼︎ オマエも俺と同じ苦しみを味わわせてやる‼︎」

 肉を裂き、断ち、穿つ。

 血潮が噴き出し、深紅の薔薇のように輝く。

 ばしゃり、ざばざば。ザクザク、ぐちゃぐちゃ。

 紅く赤い花が咲く。

 大きなカタマリが無惨に転がっていく。

 切り傷は深く、指一本くらいならすっぽり入ってしまいそうなほどである。

「…………て、——————すけて…………」

 目の前の光景を否定したがる脳が、精神を急速に凍らせていく。必死の思いで意識を繋ぎ止め、喉までせり上がった叫びを飲み込む。

 薄闇に息を潜め、事の顛末を見ていた。その時、


 男と、目が合ってしまった。


「あ、————————————————」

 時間が固まる。

 野生を忘れようと、何度進化を重ねようと、命をつなぐものとして決して消えることのない防衛本能、生物としての勘が告げている——死の予兆を。

「あ、ああ」

 対して男は別に慌てた風もなく、今の状況を泰然と受け入れている。

 かすかに微笑み、ゆったりと歩くその様は、古い友人に再会したようなある種の親愛すら感じられる。

 別に見られてもよかったのだろう。男は浅いため息をつくと、冷静に判断し、

「殺す」

 慣れ親しんだ挨拶のように平然と言い放った。

「あ、うわああああああ——————————‼︎」

 東は叫んだ。叫んだことすら気付かなかった。

 足が勝手に走り出す。それが死を回避するためと気付いて、彼は体の全てを逃走することに費やした。

 荒れ狂う心音、痛いほど弾む動悸を抑えて死に物狂いで駆けていく。

「はぁ、はぁ、はぁ———、がぁぁぁぁッ……」

 息が弾んで心臓が軋む。本当なら足はもう一歩だって動かない。筋という筋がブチブチと音を立て、股から骨がもげてちぎれてしまいそうになっている。

 だが、背後の気配は刻一刻と近づいてくる。死の足音は大きくなっていく。

 止まらない。止まれない。止まったら殺される。全身を切開された後、内臓を弄ぶようにして殺される。身体中の肉という肉を、切り刻まれて殺される。体表についている柔らかい部分をえぐるようにして殺される。

「はぁ、はぁ、はぁ、ぁ、ぁ、ぁ、ぁ、うわぁぁぁぁッ……」

 呼吸ができない。足がもげそうになる。だが、それがどうした。そんなものは気合で耐えろ。呼吸ができなくても体は動くし、足がもげそうなら、もげたときにどうにかすればいい。

 一度でも止まったら立ち上がれないほどの痛みを、猛りだけで蓋をして前進する。

 だが、その日は雨で足場が悪かった。

「——え?」

 転んだ。起き上がろうとして、また転んだ。

 転ぶ、転ぶ、転ぶ。

 何度起き上がろうとしても、足が体を支える機能を果たさず、糸の切れた操り人形のようにガクンと体が地面に落ちる。限界まで動かした足は止まった瞬間、棒のように動かなくなってしまった。

「……うぅ、うぐ……!」

 足が動かぬのなら手を動かせ、と東は横たわったまま腕を使って進み続ける。

 命がけの匍匐ほふく前進。雨に濡れ、ボロボロになりながら無様に地面を這っていくその様は、さながら路地裏でエサを探す餓死寸前の野良犬のようであった。

 数分後、東は背後から近づく気配を感じ、ひっくり返って顔を上に向けると、

 男の姿が、目の前にあった。

「少年、大人を困らせちゃダメだよぉ」

 その顔は深く、慈悲に満ちていた。嬉しそうに目を細め、口の端を大きく吊り上げている。

 手には見知らぬ誰かの血の付いたナイフ。男は張り付いたような笑顔のまま、仰向けになった東にのしかかった。

「あ、ああ———……」

 男の顔が近い。

 キョウキが近い。

 死が近い。

 これから人を殺すというのに、気持ち悪いほどの笑顔を浮かべている。

「なんで——、なんで……」

 なんで、俺が死ななくてはいけないんだ。東はそう叫ぼうとした。

 今頃、変わらぬ日常を過ごしているはずだった。進路とか、恋愛とか、趣味とか、友情とか、人生とかを考えながら帰路につき、帰ったら帰ったでご飯を食べて、シャワーを浴びて、テレビを見る。それからベッドに潜り、寝ながらスマホをいじる。そんな当たり前な夜を過ごしているはずだった。死ぬ覚悟なんてできていない。非日常的な死という現象を受け入れる用意はしていない。

 俺はまだ、死とは無関係な人間でありたい。心の中で泣きながら、必死に懇願する。

「なんで、か」

 男は一瞬だけ首をひねると、なにかを思いついたように嬉しそうな顔をして、ぞっとするほど冷ややかな猫撫で声で、いらうように先を続けた。

「そうか、君はまだ若いから知らないのか。この世界はな、バランスを保つことで成り立っているんだよ。罪があるから罰があり、悪があるから正義があり、光があるから影がある。何かを埋め合わせるようにして、動いている世界を“平和”と言うんだ。それは感情も同じだ。負の感情と釣り合いが取れるように、正の感情がある。俺の心を汚したヤツは正義の心を以って討ち滅ぼして心のバランスを保つ必要があるんだ。だから、俺が悲しんだら、誰かが罰を受けなきゃいけないし、俺を苦しませたら、そいつは同じくらい苦しんで死ななきゃあいけないんだよ」

 男の眼は子供のように輝いている。世界はすべて思い通りと誇るように、世界のすべてを知っているとうそぶくように、得意げな仕草で熱弁する。

 そして、世界の王たる我への不敬は万死に値する、と焼き尽くすような殺意を向けてきた。

「君は見ちゃったもんね? 見ちゃったよねぇ⁉︎ じゃあ死ななきゃダメじゃん! 殺さなきゃダメじゃん‼︎ おじさんを苦しめといて、陥れてといて、なにのうのうと生きてんだよぉ‼︎ なんでいちいちこんな当たり前のことをこんなガキに説明しなきゃいけないんだよぉぉ‼︎ 見たらさっさと死ねよこのクソがあぁぁ‼︎」

 男は充血した眼で東を一瞥すると、鋭利な金属を振り下ろし、勢いよく胸に刺し込んだ。

「ぎ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 紅が噴火する。

 心臓は割れた水風船のように原型がなく、破れた箇所から血が暴れ、逆流し、喉を通って口の中に溜まる。びた鉄の味が口いっぱいに広がり、あまりの気色悪さに色々なものを吐き出す。

 酸素を求めても、広がった心臓の穴から血と共に溢れ出てしまう。酸欠による強烈な目眩で意識が混濁し、手足の痺れはやがて全身に広がっていく。

「うっ……あ……ぁ……」

 助からない。そう悟った東は焦点の定まらない目で力なく空を仰いだ。

 視界には一面の曇天、今の自分には太陽が遠すぎると思い、ふと、一筋の光を手繰り寄せるように手を伸ばす。

 するとその刹那、光を失った眼に一つの光景が飛び込んできた。

「え——?」

 それがどこの景色か、東には分からなかった。光の息吹の中、草の絨毯の上、逆光で顔の見えない少女が遠くの空を背景に、東を見つめている。

 それはおそらく走馬灯、生死を分かつ、極限状態の直前に、記憶がフラッシュバックし断片的に己が半生を垣間見る現象だ。

しかし、東はその光景に見覚えはない。

 ——いや、そもそもこの光景は現実世界のものなのだろうか?

 そんな疑問が湧くほど神秘的で幻想的な風景に、心臓の痛みを忘れてしまっていた。

「……」

 少女の透き通るような白い髪が風に踊り、きめ細かく色白な肌が陽光を浴びて輝いている。憂うように天を仰ぐ様はまるで天女か巫女のようだと思った。

(東くん)

 少女が笑った。

 揺蕩うように薄れる視界の中、 少女の笑顔だけはしっかりと目に焼き付けた。

(あ……が………で………………た)

 少女の声は最後まで聞き取れなかった。だが、なんとなく何が言いたいのかは分かった。

 きっと許しの言葉だったのだろう。子守唄のように優しく、穏やかな声はそっと東の魂を解放に導いていくようであった。

「……フッ」

 ならば、今はそれで良しとしよう。それを冥途の土産として聞き置いておこう。そう、納得するように東は笑い、そして、ゆっくりと目を閉じた。


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