第5話 負けないで-5

 城跡の北側の広い道を抜け、線路を越えて第二坂輪道沿いに走る。昨日までとは違う方向をイチローは目指した。ゆっくりと曲がる坂は案外ペースを掴むのが難しく、変に息が上がってくる。こんな筈はないんだと思いながら、ようやく坂を登り切り、ゆっくりと下りの道へ入る。イチローはわざとペースを落とし息を整えながら走った。

 これまでと違う道を走る理由は、実は簡単で、同じ道を走って菜々子に会うのが照れくさかったからだった。あの時は勢いで割って入ったけれど、いま改めて会うとどうも照れくさくなってしまう。菜々子が可愛かったこともあるが、やはり、気恥ずかしい気持ちが先に立ってしまう。それと、しばらく会わないほうが、何となく格好いいようにも思える。とにかく、しばらくは道を変えてトレーニングをする事にした。

 小一時間ほど走ると、金城緑地公園に辿り着いた。イチローはそこで息を整え、ストレッチを始めた。

 見慣れない風景の中で息をするのが、こんなにも心地いいとは、ランニングを始める前には思いも寄らないことだった。風の匂いすら違うように感じる。この緑地公園は池が多いので幾分水の匂い、というよりはコケくさい匂いがする。同じ市内なので、植木の種類はそれほど変わらない。ただ、緑ヶ丘学園の近くの城仙公園は城跡が内在しているので、古い木々がたくさん残されている。史跡に指定されている関係上、開発の遅れた部分がぽっこり小山のように残っていて、それがだだっ広い緑地公園の淡い緑の芝生の風景の中に濃緑のビリジアンとしてアクセントになっていて、イチローはそれが好きだった。小学校の頃から城跡の堀でフナやタイワンドジョウを釣ったり、蛙を採ったり、近くの小川でザリガニを採ったりして遊んだ。野球も公園内でやっていた。

 父親が転勤になることを告げられたのは、六年の年末だった。ジローは仕方ないということで引っ越しを承諾するつもりだったが、イチローはどうしてもここを離れたくなかった。そんな時、城仙公園に一番近い緑ヶ丘学園の事を知った。私立なので入学試験があるから、初めから公立へ進学するつもりのイチローもジローも考えの範囲外だった。しかし、イチローが聞いた緑ヶ丘学園の話は、夢のような話だった。少数精鋭の進学校であることはもちろん、私立にも関わらず授業料が極めて安く、特待生制度があるということだった。

 それを知ったイチローは、親を説得してこの学校に行きたいと頼んだ。成績のあまり良くないイチローに親も担任も反対したが、どうしてもここで勉強したいと嘘を吐いた。親戚が下宿屋をしていることもあって、合格すればそこに住まわせてもらうということで何とか受験の許可をもらった。

 わずかな期間の猛勉強の末、イチローは合格した。もちろん、つきあいで受験したジローも合格した。そしてジローがお目付役として、一緒に住むことになったのだった。通ってみると緑ヶ丘学園は案外気楽な学校で、進学校の緊張感のない(?)学校だった。イチローより勉強のできない連中もたくさんいて、結局勉強をろくにしないまま、野球漬けの毎日だった。


 後から思ったことだが、成績だけで評価しているのではなく、面接だけでも合格者を決めている、そんな印象があった。成績の良くないヤツに個性的なヤツが多いように思える。新井もそうだし、新井と同じコンピューター研究会の山本もそうだ。イチローは、面接の時、面接官と園長と理事長を大笑いさせた。何がそんなに受けたのか良くわからなかった。ただ、照れながら愛想笑いをしていたことは覚えている。面接の後、ジローにどうだったと聞かれて、「受けたよ」と答えるとジローは怪訝な顔をして面接室へ向かった。そのあたりは覚えているが、肝心の部分がぽっかり抜けている。あれが緊張ってやつだな、と納得することにしている。


 後ろのポケットに突っ込んでいたタオルを取り出し、ピッチング練習を始める。一挙手一頭足を確かめながら、タオルを振り、フォームのチェックをする。フォームを固めることがコントロールをつける唯一の方法だとイチローは考えた。いまはボールを投げない。そう決めて、走った、そして、タオルを振った。これしかなかった。これで間違っていれば諦めてもいいつもりだった。ただ、干渉されたくなかった。特に、ジローには。ジローは多分干渉してこない。それでも、ジローの目に触れる場所ではやりたくなかった。ジローは自分より、勉強も野球も上手かった。それでもいいと思っていた。それでも、今回のように、監督自ら失格の烙印を押されると、悔しかった。それは単に自分に能力がないというだけではなく、ジローに対して悔しくなってきた。自分は自分、ジローはジローだと割り切るには、やはり辛かった。ジローは確かに努力している。ジローは努力型で自分はヒラメキ型だと思いながら、自分の中に怠け虫がいて、結局努力を怠っていた。それは美恵子の言う通りだった。だから、という訳でもないが、努力してみることにした。本屋で立ち読みして野球のトレーニング法を読みあさり、とりあえず走ることにした。それからだ、と自分に言い聞かせて走った。走ってみて自分の体力のなさを思い知らされた。チームで一二の駿足を自慢していたが、結局瞬発力だけで、5キロも満足に走れなかった。悔しくて走り続けて、ふらふらになってバスで帰ったのだった。いまはもう自信がある。足腰は充分鍛えた。あとは維持すること。野球向けの筋肉に作り上げること。フォームを固めること。急がない、急がない。また、イチローはそう言い聞かせて、素振りを続けた。


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