未成年
せっか
未成年(本文)
***
たとえば。
誰かに気に入られるのが他の人より少しだけ上手で、気に入ってくれた人に能う限りのしあわせを返すのが他の人より少しだけ得意で、でも他の人とは少しだけ違って、幸せな日々のすべては必ず水の泡とはじけて消える、そんな「異常性」というものがあったとして。
たとえば。
その「異常性」がゆえに声も顔も記憶にないうちに両親を失い、引き取ってくれたという親戚も失い、その「異常性」とやらを聞きつけた「財団」とやらに確保され、気付いたら収容施設で保護されていた、という人がいたとして。
たとえば。
それでも無意識が人とのつながりを求めて別の人に飛び込んでいってしまうとして。
こんな人がいたとして。
この人はしあわせになれますか。
この人にしあわせはありますか。
しあわせって、なんですか。
たぶんしあわせにはなれない、と思う。その資格がないのだと思う。本能によって人を求め、本能によって人を喰い潰す、そんな「異常性」とやらを身に宿した人間にしあわせになる権利などないだろう。そもそも人の間と書いて人間、人とのつながりを悉く喰い潰す悪魔を人間と呼んでよいのかも怪しい。
まあぜんぶ僕のことなんだけど。
研究員の人たちが言うには、僕はそういう異常性の持ち主らしい。全く関わったことのない人と少し仲良くなって、少し仲良くなれた人ともっと仲良くなって、とっても仲良くなれた人の無二の存在になって、深く深く愛されて、愛して、そして、終了する。命の収奪を以て終了。僕のことを一定のレベルを超えて愛してしまった人は、どういうわけか死ぬらしい。
よく考えれば当たり前のことなのだけれど、最初の犠牲者は両親だったそうだ。「親」なら我が子を溺愛するのは尚のこと。僕が新生児室から退院した翌日にふたりとも死んだらしい。僕はこの身と命をひとつずつ収奪して、殺して逃げたというわけだ。
他にも僕に全てを奪われた人が何人かいたらしいが、記憶もないし、詳しくは教えてもらえない。
そういうわけで、研究員の人たちは僕を愛さない。とても良くしてくれるけど、愛に堕ちてはくれない。まあ当然だ、研究対象に愛着なんて抱いちゃってたら研究などできっこない。僕に接触する研究員はみなバイザーのような形をした真っ黒な箱で目を覆っている。僕と直接目を合わせてしまって異常性に引き込まれるなんてことのないように、って算段らしいけど、さすがに少し大仰すぎる気もする。
とはいえ不満はない。物心ついたころにはすでにこの環境で育てられていたのだから、愛されることなど知る由もない。
しかし、教育を受け、文化に触れ、芸術を摂取していれば、自ずとそれに興味が湧いてしまうもの。
加えて、人畜無害な人の間にこの異常性が曝されたままではまずいから、と云う理由で人生の大部分をこの施設で過ごしているのに、その異常性が施設内の人間にこうも無影響だとあまり快くはない。力を持ってるのだったら、使ってみたい。これがきっと幼心ってやつなのだろう。
あと、全員とは言わないけれど、人間に好かれるのは、普通に好き。こういうところが異常性って言われているものの根本なんだろうなぁ。
と、ここまで考えたところで普段は部屋の扉が開く。大体七時頃に目を覚まし、ベッドの上で体を起こしながら五分ほどこんな考えに浸っていると、観察・応対担当の研究員は毎朝このタイミングで様子を見に来るのだ。そして今日の気分はどうか、など軽い質問をいくつか受ける。これをかれこれ十五年も繰り返していれば嫌でも勝手に研究員を待つ体になっている。
のだが。そんなことを考えている今もドアは開かない。今日は来るのが遅れているみたいだ。
しばらくそのまま待っていると、部屋の外から足音が近づいてきた。音の主は部屋の前で止まるとすぐに扉を開ける。
色白で少し背の高い男性が部屋へと入ってきた。目元はバイザーに覆われて見えないが、白衣の縫い糸はところどころ解れているし、靴はだいぶくたびれているように見える。印象としては二十後半から三十くらいの独り身、といったところか。
「今日から新しく君の担当になる奥原だ、よろしくな、ハル」
そういうと彼は左手を差し出した。大き目で無骨な印象を与える手。しかし透き通るようなそのきれいな指は、真っ直ぐこちらに伸びている。こちらもおずおずおと手を差し出すと、彼はその手で僕の左手を優しく包み込んだ。
「じゃあ早速今日の質問をしていこう。君の名前は?」
「ハル。佐藤晴」
「んまぁ、佐藤の方は便宜上名乗っているだけだから厳密には君の名前ではないんだが……。まぁいい」
「なんで佐藤なの?」
「日本で一番多い名字なんだよ。偽名を名乗るときは佐藤か田中と相場が決まってる」
「田中はだめなの?」
「田中晴って漢字が続くと田んぼのカカシみたいな字面になっちまうからな」
「そういうもん?」
「そういうもんだ。次。今日の日付は?」
「えーと、四月一日……。あっ」
カレンダーを見ながら気づいた。
「そっか、今日から新年度」
「あぁ、だから今日から君の担当者は俺に変わったんだ。それに五日からはついに君も大学生だ。この施設に閉じ込められたまんまだった今までとは段違いの自由が訪れるぞ」
「ちょっとそわそわする。たぶんこれが楽しみってやつなのかな」
「そうだな。楽しみにしてくれてるみたいで俺も嬉しいよ。じゃあ最後の質問だ。今日の気分は?」
「悪くない」
彼は質問事項の記入を済ませるとクリップボードを右脇に抱えて立ち上がった。
「よし、これで終わりだ。お疲れさん」
バタン、と閉まる扉を横目に思い返す。奥原さん、他の研究員の人たちとは少し感じが違った。今までの担当者は機械的に問診を済ませるだけだったけど、彼の場合は明らかに余計な会話が多かった。それも研究のうち、なのか。
***
結局大学、というか学校と云うものに通ったとて、僕の手にした自由は些細なものに限られていた。僕が大学にいる間は、構内のどこかに監視員が潜んでいるらしい。そもそも社会からの隔離対象として施設に収容されているものを、一般人の社会に放り込んでいるのだから、監視のひとつやふたつは当たり前なのだろう。物心ついた時からのことなので、それに抵抗や拒絶の念はない。
しかし僕は、為されるが儘というのもいけ好かない性分のようで、何かひとつ、ひとつだけで良いから僕だけのものを、監視の届かないこの腕の中へと欲した。
僕はそれを人間に求めた。
いくら隠したとて、僕の腕の中では見つかってしまう。だから僕はまず腕の中ではなく胸の内に隠さねばと思った。
しかし気付いてしまったのだ。僕の胸の内に、愛を隠す場所などない。僕は愛を受けるというものを知らない。たとえそれを手に入れたとて、仕舞う場所もわからない。
だから外に。誰かの内に忍ばせようと考えた。幸い、僕は人間を好きになることができる。そして僕の「異常性」とやらは人の中にそれを忍ばせることに向いているみたいだ。
おそらくこれは人々が言うところの「取り入る」とか「誑かす」なのだろう。そして研究員の人たちに言わせれば「異常性」なのだろう。僕の本性はそれを求めていた。
***
サークルと云うものがあるらしい。奥原さんが言うには、講義の外でのかかわりを持つための趣向の合う人間同士の集まり、だそうだ。趣向があまり合わなくても特には咎められず、特別な道具などもいらない、という様子だったので、僕は文芸サークルに入った。
僕は、自分が愛を受容するための器を持っていないことを自覚しているので、自分で仕舞って隠すのは早々に諦め、それを人の中に忍ばせることにした。しかし、文芸、いや「芸」に、心のどこかで期待を寄せていた。
言葉の轆轤を回し続ければ、いつかその真ん中に器を
サークルと云うものには案外簡単に馴染めた。「異常性」のお陰かは知らないが、ちいさな共同体の隙間へあまりにもあっさりと入り込めてしまったので、拍子抜けしたというか、調子が狂うというか。ともあれ、それを奥原さんに笑顔で報告すると、彼も嬉しそうに聞いてくれた。
「なんで奥原さんが嬉しそうなのさ」
「ん? 人間はな、共感性ってのがあってな。誰かが喜んでると一緒に喜ぶもんなんだ」
「じゃあ今まで話した研究員の人たちはあんまり共感性なかったかも」
彼はハハハ、と笑った。
「まあ研究員ってのは少しとち狂ってるところがあるからな。俺の方が至って正常ってもんだ」
「そういうもん?」
「そういうもんだ」
彼は大きな掌で僕の頭をガシガシと撫でた。妙に落ち着いた。
やはり彼もなかなか変わり者だと思う。思いはするが、撫でてもらえなくなると困るのでしばらくは言わないでおくことにする。
***
七月になって、批評会というイベントがやってきた。文芸サークルとして活動している以上、サークル員がみな参加する文芸活動というのが必要らしい。僕は『ひとり』という詩を出した。
三十分ほどで書き終わった詩を、一時間もかけて批評された。サークル員のみんなが「ここの表現がこれこれを暗示していて……」とか「いやこれは○○のアトリビュートで……」とか言いながら難しそうな顔をしているのを眺めるのが精いっぱいで、何も言うことができなかった。
僕の知っているものと、思ったことと、感じた言葉を素直にただ並べただけだったのだ。無心で轆轤の上の土に触れていたに過ぎないのだ。轆轤の回し方など考えもしなかった。
議論は時間を追うごとに錯綜していき、次第に危険な熱を帯び始め、その熱が加速度的に強まっていく。僕は口を噤んだまま、心中であたふたするしかなかった。
すると、サークル長の久遠さんが言った。
「ごめんね、私、むずかしい事はあんまりわからないんだけど……。佐藤くんの作品、すごくむずかしいから批評が白熱しちゃうのもわかるんだけど、いったん休憩しよ、ね?」
放っておけば発火しそうなほど高まった熱は彼女の一言によって、一瞬蠢くように揺れたのち、すぐにクーラーの風の中へと溶けていった。
休憩時間となった空き教室の一番端っこの席で、僕は先程までのひりつくような熱に根源的な恐怖を覚えていた。おそらく今まで一度もぶつけられたことのない感情の量とベクトル。愛情にも引けを取らないほどの圧。
そのまま放っておけば人間の「怒り」という感情に結びつくはずだった熱はこの場から引いても、それが僕の心に負わせたひりつきはなかなか消えない。
とにかく、恐ろしい。
まだ数カ月とはいえ同じサークルの部員、僕の中ではだいぶ身近な人になる。教科書に載っていた「怒り」というものが、どれほど生易しくて解像度の低いものだったかを知った。
一発でもまともに喰らったら僕の「異常性」はきっと死ぬ。これからは身近な人を怒らせないことに全力を注ぐことにしよう。
そんな決意を固めたところで休憩は終わり、久遠さんが次の作品の批評に移るよう計らってくれた。
批評会の終了を見計らったかのようなタイミングで奥原さんから「打ち上げやるなら行ってよし」との連絡が来たので、批評会後の打ち上げにそのまま僕も参加することになった。つい数時間前のひりついた空気は嘘のように行方をくらまし、すっかり居心地の良さを醸すあたたかいものになっていた。
大学の最寄りから数駅の比較的大きめな駅から、サークルの行きつけらしい徒歩五分の居酒屋に移動する。二、三列になって各々が好きな話をしながら歩いていた。その最後尾で一団から少しだけ距離を取りながら、久遠さんと声のトーンを抑えて話す。
「さっきはごめんね、せっかく君の作品の批評をしてたのに途中で切っちゃって」
「いえいえ、むしろ助かりました。ありがとうございます」
「いやいやこっちこそ……」
「いえいえこちらこそ……」
譲り合って話がぜんぜん進まないのので、ちょっと笑ってしまった。
「詩を書いてくる人あんまりいなかったからさ、みんな舞い上がっちゃったのかも。読み手に考えさせる表現も多かったし」
「あー、やっぱそうなんですかね……」
「うん、たくさん考えられてしっかり練られた分ちょっと難しいところはあったかなぁ」
「やっぱそうなんですね……。あれ実はそんなに考えて書いてなかったんですよ。なので議論が白熱しちゃっても正解がないから何も言えなくて……。」
「考えてない? の?」
「そうですね……。自分の感じたままの感情を乗せただけ、っていうか。あんまり作り込んでるって感覚がなくて、自分をそのままアウトプットしちゃった感じですかね」
「感じたまま、か……」
久遠さんが一瞬、ほんの少しだけ目を伏せた。何か気に障る事を言ったのでは、と不安になる。とはいえ、今なにか気に障ることを言ったか、なんて直接訊けるわけもない。
困っていたら何気ない話題に変えられてしまい、やっぱり改めて訊き直そうか悩む間もなくお店に着いてしまった。
打ち上げ、といっても時間制でご飯を食べるだけなのだけれど、気付けばすぐに終わりの時間になっていた。店を出て、みんなで駅まで戻り、ちょっと締めの空気なんかも出して解散した。とはいえ乗る電車が違う人やバスで帰る人もいるわけで、解散直後はみんなで一緒に歩いていたのに、だんだんと人が減っていく。結局地下鉄の2番ホームまで残ったのは久遠さんと僕だけだった。
「久遠さんも地下鉄でしたっけ」
「うん、乗り換えで使ってるんだ。途中まで一緒だね」
「ですね」
微妙な沈黙が訪れる。
久遠さんが切り出した。
「あのね、今日の詩のことなんだけど」
「あ、はい」
「自分の感想ちゃんと言ってなかったなと思って。私ね、ちょっとさみしそうに感じたの」
「さみしそう、ですか」
「言葉じゃちょっとうまく言い表せないんだけどね、なんかどこかさみしそうで、それが感じたままだって言う君も少しさみしそうで……」
「そう、なのかもですね……」
久遠さんが何か言おうと口を開いたが、電車の到着を告げる大音量のアナウンスに押し流されてしまった。
アナウンスが鳴り止み、また久遠さんが言う。
「もう四年生なのに実家暮らしでかまけてる私だからそう感じただけかも、気にしないでね」
何か言おうと思ったが、電車がホームに雪崩れ込む音に掻き流されてしまった。
やって来た電車に乗り込む。
「そいえば君って実家生だったっけ?」
「えーっと……。実家ではない……。けど一人暮らしでもない……。ですかね」
「シェアハウスみたいな感じ?」
「あー、えっと、まあそんな感じです」
嘘を吐くこともできたはずなのに、口はうまく動いてくれなかった。これ以上この話をしていてもボロを出すだけだと思って、話題を逸らした。その話題が終わらないうちに久遠さんは乗り換えで降りていった。久遠さんが手を振ったので、僕も小さく手を振った。誰かに手を振るのはこれがはじめてだったかもしれない。
部屋に帰ると奥原さんが待っていた。
「どうだった、ハルが初めて書いた作品の批評は」
「少し荒れそうで怖かった」
「荒れそうだったのか?」
「まあでも平気だった。あとさみしそうって言われた」
「さみしそう、か?」
「うん。その先輩は実家生だからそう感じるだけかも、って言ってたけど」
奥原さんは悲しそうに俯いた。いつものバイザーのせいで表情は見えないが、さっきの久遠さんにどこか似ていた。
「なんで奥原さんまで悲しそうなの?」
「すまない、俺らのせいだ。ハルをこんな風に研究対象として雑に扱っているせいだ」
「研究対象だとだめなの?」
「ハルには住む実家も帰る実家もない。だからさみしそうに見えたのかもしれない」
「奥原さんまでさみしそうにしないでよ」
不意に大きな腕で抱き締められた。そのまま大きな手で頭を撫でられた。
「すまん」
「奥原さんもさみしいの?」
「……すまない」
彼の広い背中にめいっぱい手を回してさすっていたら、頭をいつもより多めに撫でられた。少し楽しくなってそんなことを続けていたが、奥原さんはすっと僕から体を離すと、もう遅いから今日は寝ろと言った。奥原さんもね、と返した。
***
二人組でチームを組んで戦う流行りのゲームをやりたい、と奥原さんに言ったら付き合ってくれることになった。
「勉強とかはうまく教えてくれるのにゲームは下手なんだね奥原さん」
「るせぇな、苦手のひとつやふたつくらい誰にでもあるもんだろうが」
「とはいえ今のミスる人いる?」
「悪かったな!」
ああだのこうだの言いながら一緒にゲームをするのは楽しかった。ゲームの処理で余った脳の領域でふと思いついた言葉を、そのまま口から垂れ流す。
「奥原さんってなんか年の離れたお兄ちゃん感あるよね」
「そうか?」
「うん。たぶん僕に兄弟とか従兄弟とかいたらこんな感じなのかなって」
「そうか……」
奥原さんは意外にも悲しげな声を出した。
やらかした。悲しい声を聴きたいわけじゃなかったのに。
「別に家族がいなくてさみしいってわけじゃないんだ。ごめんね」
一瞬の逡巡の後、奥原さんは言った。
「……俺は、ハルの兄弟になれるのか?」
面食らったし、戸惑ったし、嬉しかったので、答えに詰まった。
どう言うべきなのかわからなかったので、余っている脳の処理領域と脊髄の反射に任せることにした。
「えーなれないよ」
「……そうか、なれないよな」
「だって下の名前まだ聞いてないもん」
「え?」
「兄弟って下の名前で呼ぶもんなんじゃないの?」
「そういう、もんなのか?」
「そういうもん」
いたずらっぽい笑みでたぶんね、と付け加えてやった。
「……ハヤト、奥原ハヤトだ。改めてよろしくな」
「よろしくね、ハヤトおにーちゃん」
件のハヤトおにーちゃんは盛大なプレイミスで返事をした。
「あー奥原さん今のとこミスっちゃダメでしょ!」
またああだのこうだの言いながらゲームを再開した。
ゆるやかなしあわせ、を知った。
***
「ねえ佐藤君、今度印刷所に行くんだけど一緒に来ない?」
サークルで寄り合っているいつもの空き教室で、久遠さんが言った。
「もうすぐ文化祭あるでしょ? そこで売る部誌を印刷するんだけどさ、ほら、私もう卒業しちゃうからさ。今のうちにいつもお世話になってる印刷所さんを紹介しとこうと思って」
「いいですよ~。何日に行くんですか?」
「えーっとね、まだ持ってくデータができてないから、まだ少し先になるかな……」
「了解です! 自分はいつでも平気なので作業がんばってくださいね」
「うん、ありがとう!」
という話をしたは良いが、冷静に考えて入稿データを作るところから入稿の手続きまでひとりでやるとなると、とんでもない手間がかかるはずだ。なのに久遠さんはそれをひとりで全てやっているのが当然、といった口ぶりで話していた。そこに引っ掛かりを覚えた途端に、ぬるっとした暗い感情が襲ってきた。一撃で命を持っていく類の怖さではないが、ゆるりと真綿で首を締めていくような、しっとりと絡みつく恐怖。
誰かに手間を押し付けるのは良くないし、なにより怖い。僕の知っている誰かが僕の知らないところで苦しむのは、本能的に怖い。それが僕の知っている誰かの負の感情に成り得るからだ。負の感情を持たれるということは、誰かに気に入られるように振る舞うという行動原理を真っ向から阻害するからだ。つまり、僕の存在意義が根元から引き抜かれるのでは、という恐怖が首をもたげるからだ。
サークルのライングループから「久遠茜」のアカウントを友だちに追加して、ラインを送った。たぶんこれは久遠さんへの心配であると同時に、自己保存のためのエゴでもあった。
『おつかれさまです!
部誌の話なんですけど、もしかしてデータの作成から久遠さんがぜんぶやってるんですか……?
あの、なんでも手伝うので言ってくださいね……? ひとりで抱え込みすぎちゃだめですよ……?』
返信は五分ほどで来た。
『お疲れさま~
心配してくれてありがとうね
部誌ね、去年までは一個上の先輩が二人でやってたんだけど、今年は担当者がいなくて
でも発行は年一回だし、今年は単位も大体取って暇してる私がやれば済む話だから』
この人はなんでも抱え込んでがんばり過ぎる人なんだ、と確信した。周りのことを観察して、誰も気づかないうちに面倒事を引き受けて、抱え込んだ案件を自身のスペックで誰にも言わずに片付けてきたタイプの人だ。人のためには気が回るのに、自分には気が回らないタイプ。きっと、僕にも似ているところがあるけれど。
ちょっと悩んでから返信した。
『じゃあ手伝わせてください
久遠さんが卒業したら自分が引き継ぐので
これならいいですかね?』
『んー……
ずるいな~
前から思ってたけど君けっこうずるいよね』
『ずるくてもなんでもよいのです! 手伝いますからね!』
『ありがとうね』
結局、手伝わせてもらえることになった。どこかしてやったり、という爽快感があったのは、人たらしの起点として機能する布石を打てたことに、僕の「異常性」がご満悦だからなのかもしれない。
***
それから、掲載作品の校正をし、それらが栄えるようにページレイアウトを組み、それに添って装丁のデザインも組んだ。一週間、ああでもないこうでもないと何度もラインで言い合いながら作業し、思いのほか早くデータを完成させた。
『できた~! お疲れさま!』
『できましたね! おつかれさまです!』
『ほんとにありがとう たくさん手伝ってくれてとても助かりました』
『こちらこそ
一緒に作業できてたのしかったです』
『またずるいこと言ってる』
『ずるいのか……』
『ずるいよ?』
『だめ?』
『だめではない』
『じゃあいいんじゃないですか』
『そういうのがずるいって言ってるんだけどなぁ……』
一週間毎日話し続けたせいか、馴れ合いが増えた。馴れ合いはしあわせの味がして、その甘さを欲した心が、偶発的なイベントだったものを急速に日課へと変えていく。
『そういえば話変わるけど、君最近明るくなったよね』
『そうですか?』
『うん、なんか身近に大切なものができたって感じがする
彼女でもできた?(ニヤニヤ)』
『彼女ではないんですけどね
お兄ちゃんができました』
『え?
お兄ちゃん……?』
『ワードとかの使い方もいろいろ教えてもらいました』
『そ、そう……?
まあ幸せそうだしいっか……』
などと話していたら当のお兄ちゃんが部屋に入ってきた。
「おーいハルー……ってあれ、またラインしてたのか。彼女でもできたか?」
「ちーがーいーまーす!」
『お兄ちゃん着たのでまたあとで』と急いで打って閉じた。
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十二月最初の土曜日の朝、七時五分ぴったりで現れたのは、見覚えのない研究員だった。
「おはよう。これからいくつか質問していく。毎日やっていることだ、手短に済ませよう」
「奥原さんは?」
「彼は私用で欠勤している。今日と明日の二日間は私が担当者となる」
「あなたは誰?」
「私が君に何か答える必要は無い。君はただこちらの質問に答えてさえいればいい。まず、君の名前は」
「ハル」
「それは俗称だ。我々が与えた番号があるだろう」
「あー、番号で呼ぶ感じの人ね、めんどくさいから先言ってよ。■■■■―JP」
「次。今日の日付は」
「十二月七日」
「最後だ。体調は」
「とてもよいです」
付き合っていてもただただ疲れるだけので、なるべく最短で切り上げようと模範解答を返した。奥原さんは最後の質問のとき、「気分はどうだ?」って訊くのに。
こういう人種はあまり好きになれない。「他者が存在している」という事実に対して「他者が存在している」という感想しか得ない人種。冷徹に、事実をただ等価の認識で返すだけの人種。
言うなれば機械だ。外部刺激による入力を同値の出力で返すだけの機械。そこに解釈とか感情といった無駄を差し挟む余地はない。きっと、こんな人に仰々しいバイザーはそもそも不要だろうに。それでも形式的に邪魔くさいバイザーを装着しているのが、またなんとも腹立たしかった。
奥原さんが帰ってきたらたくさん甘えてやろう、そうだ、しれっとハヤトさんって呼んでみよう、などと考えながら二日待った。
月曜日の朝も、あの機械のような研究員がやってきた。
「彼は今日の昼から出勤するため、朝の問診だけ私が行う」
「はいはい、■■■■―JP、十二月九日、体調は良好。これでいいでしょ?」
「まあよしとしよう。そのまま大人しくしていてくれ」
十二時過ぎに奥原さんはやって来た。
「おかえり!」
「ああハル……。ただいま……」
明らかに様子がおかしい。
いつもは白衣の下にくたびれたシャツをゆるく着崩しているのに、なぜ今日に限ってピシッとした真っ黒のスーツなのか。
なぜ白衣はひどくくたびれているのに、それとは不釣り合いなほど、黒いネクタイはピカピカの新品なのか。
たまにリクルートスーツを着てくることがあった時もめんどくさいからと傷んだスニーカーを履いていたような人が、なぜわざわざ黒の革靴なんて履いているのか。
どうしていつも右手にしている時計を、今日はしていないのか。
「奥原さん……。もしかして……」
出迎えに立ち上がった僕の前で、奥原さんは地べたに座り込んだ。
「俺も、家族いなくなっちまったよ」
線香の匂いがした。
「ハルはこんな孤独の中でずっと生きてきたんだな。その小さな体でこれだけ大きな孤独を抱えて……」
「そんなことないよ! 奥原さんがいるよ! お兄ちゃんになってくれるんでしょ?!」
我ながらずるいな、とは思った。しかし、口から自然と紡がれてゆく言葉を止めなければ、とは思わなかった。
「僕がいるよ! 僕をハヤトお兄ちゃんの家族にしてよ!」
たぶんこれが一番効く言葉なんだろうな、とぼんやり思った。僕の「異常性」というのは無意識に最適解を提示し続ける。
「ハル……」
声が潤んでいた。はじめて聞くが、これがハヤトさんの泣いている時の声なのだろう。
そっと膝をついて、ハヤトさんの頭をゆっくりと両腕で包み込んだ。
「泣きたいときは泣いていいんだよ。邪魔なものは捨ててもいいんだよ」
そう声をかけながら、ハヤトさんの顔を覆い隠すバイザーを、そっと外した。
はじめて目を見た。いつもは身づくろいが雑で服もくたびれたのばっかり着ているくせに、瞳は奥の奥まできれいに澄んでいた。
その澄んだ目は、涙を湛えながらもまっすぐ僕の目を見据えていた。
もう一度ハヤトさんを抱き締めて、いつもしてもらっているように頭を優しく撫でた。
***
結局バイザーをとって目を合わせたところで即死するわけでもなし、ということで、それ以降ハヤトさんがバイザーをつけることはなくなった。
バイザーがないなら堂々と出歩いても不審がられることはない。
「だよね、ハヤトさん」
「まあそうだが、急にどうした?」
「僕が言いたいことがわからないの?」
「すまんが全然わからん」
「つまりですね、これは一緒に外に遊びに行ってもいいというわけですよ! おわかり?」
「お、おう……。なぜに敬語?」
「そんなことよりどっか行こうよ。ハヤトさんは行きたいとこないの?」
「んーそうだなぁ……」
「しかももれなくハルまでついてきますよ? お得なセットですよ?」
「なぜに敬語……。そうだなぁ、なんかうまいもん食いたいかな」
「じゃあおいしいご飯食べに行こうね。ハヤトさんは休みの日じゃなくても遊びに行けるの?」
「んーまぁハルが一緒にいればな」
「じゃあ僕のお陰でお仕事サボれるってわけだ。これはしっかり感謝しなきゃねぇ」
「まぁ一理あるな」
「お、よろしい。じゃあおいしいご飯はおごりでよろしく」
ハヤトさんの右隣に座って、一緒にグルメ本をめくった。
お互いの仲の良さとか愛情の深さとかが一定のラインを超えると、馴れ合いが板についてくる。ようやくそれを理解した。
***
『脱出ゲーム興味ない?』
『めっちゃあります!!!
人生で一度は行きたいとこリストの上から三番目くらいにあります!!!』
『ちなみに一番上は?』
『猫カフェ』
『なにそれかわいい
話がそれちゃったね
ずっと気になってて行きたいやつがあるんだけど一緒に行かない?』
『行きます!!!
どんなやつなんですか?』
『ほら、秋の批評会の時に私ミステリー出したでしょ?
それの元ネタにした漫画があるんだけど、アニメ化記念で脱出ゲームとコラボするんだって』
『それはたしかに行きたい
行きましょー!』
『ありがとー
で、日付なんだけど、今から予約取れるのが十二月の二十二と二十六だけなんだよね
どっちか空いてる……?』
『自分は両方空いてますよ~
あれ? 久遠さん二十七日は内定者のなんとか会があるって言ってませんでした?』
『あーうんあるね、内定者懇親会』
『じゃあ二十六日はゆっくり休んでください!
そしたら二十二の日曜でよいですか?』
『うん! ありがとう!
って明後日か! 楽しみにしてるね!』
そんな一昨日深夜のやりとりを見返しながら電車に揺られていた。十二時に待ち合わせ、の一文は楽しみな感情を増幅させる。待ち合わせの約束をした駅名が読み上げられたので、上部に「久遠茜」と表示されたラインの画面を閉じた。電車に乗っている時間がいつもより短く感じた。
お互い約束より十分ほど早く駅に着き、合流したらそのままお目当ての脱出ゲームに直行し、でもやっぱり早く着きすぎたので入り口で五分ほど待った。
楽しい時間は一瞬で過ぎる、とは世の常で、制限時間五十分を使い切ってしまい最後までクリアできなかった脱出ゲームをあとにして、本屋さんで例のコラボ元の原作漫画の布教を受けたり、ふらっとカラオケに立ち寄って点数を競い合ったり、パンケーキの看板に惹かれて入った喫茶店でフルーツパンケーキとチョコバナナパンケーキをはんぶんこしたり、食べ終わった後も話が楽しくてジュースを飲みながら話し続けたり、そんなことをしているうちに日は暮れ、夜も深まっていく。気付けば二十三時を回って喫茶店が閉店する時間になってしまったので、帰ることにした。駅までの道で寒そうにしていたら、久遠さんが「マフラーいる?」と差し出してきて、「やっぱ久遠さんのほうがずるいじゃないですか」「いーや君の方がずるいね」などとじゃれ合いながら駅まで歩いた。
それまでとても楽しそうに歩いていたのに、いざ別れるとなるとお互い急に寂しそうな顔をして、「ほらやっぱりそっちのほうがずるい!」とか言いながら名残惜しそうに小さく手を振って別れた。
帰ってから『今日はたのしかったです、めっちゃしあわせでした』と送ったのと同時に、『今日はたのしかったありがとう! また一緒におでかけしようね』と久遠さんからラインが来たので、笑ってしまった。
***
一度ハヤトさんとおでかけしたら、歯止めが利かなくなってしまったのかほぼ毎週一緒に外出するようになった。平日にふらっと夜ご飯を食べに行くだけの時もあれば、しっかり下調べしてから日曜日に動物園に行くこともあった。
月一くらいで久遠さんと遊びに行くこともあったけど、ハヤトさんは毎回「俺とはいつでも遊びに行けるんだからそっちを優先しな」、と言ってくれた。
すっかり春休みに入ってしまったので、施設に併設された寮に住んでいるハヤトさんと寮の消灯時間ギリギリまで遊び、ハヤトさんが寮に戻った後は久遠さんと話し、しあわせを謳歌していた。
その大半が無味乾燥な人生を送ってきたが、間違いなく今が一番しあわせだと思えた。
その日も、そんな貴重でありふれた、二月最後の日曜日だった。
二十三日は一緒に遠方の美術館に行こうね、と計画を練り、ハヤトさんの運転で出かけた先で交通事故に遭った。
僕が途中でトイレに行きたいと言ったので、サービスエリアに寄ることになったのだけれど、「俺は一回施設に電話しなきゃいけないから先に降りてトイレに行ってきな」と言われて、車を降りて十歩ほど歩いたところで後ろからものすごい轟音が鳴った。振り返る間もなく後ろから何かに追突されて、数メートル地面を転がった。額から血が垂れてきて、それを拭いながら起き上がったところで、ついさっきまで乗っていた車が横からトラックに突っ込まれて見る影もなくひしゃげているのに気がついた。
いったん頭が真っ白になると、もう冷静さが戻ってくることはない。見ている世界が急速に色を失っていき、今度は白と黒の二色刷りになった世界が明滅し始め、視界が上から赤いものに覆われたところで気を失った。
***
僕にも仲良くしてくれている人がいる以上、浅いながらも負傷した上に突然音信不通になって入院先もわからない、となると施設が怪しまれる。施設を運営している財団とやらの存在が大っぴらになるのはまずいらしい。その程度の理由で僕は一般の総合病院に入院させられていた。
病院で目を覚ました数分後にあの機械みたいな研究員がやってきて、ハヤトさんは即死だったこと、僕は二週間ほどで退院すること、退院後は原則としてしばらく外出できなくなること、新学期からも大学に通わせるかどうかは検討中であることなどを端的に告げて帰って行った。
あとに残った遣る瀬無い感情は、喪失感から苛立ちへと姿を変えた。そしてその苛立ちが僕の中に些細な反抗心を植え付けた。
お見舞いに来てくれた久遠さんに、全てを話した。それから、いろいろ隠し事をしていてごめんなさい、と謝った。久遠さんは泣いてくれた。僕もちょっと泣いた。
でもこれは些細な反抗のつもりだった。些細に留めておくつもりだった。僕の「異常性」とやらが呑気に昼寝でもしてくれていたら、この些細な反抗は、変わり者の奇妙なおとぎ話で終わるはずだった。
「私ね、春から入社するから一人暮らしになるの。三月の四日にはもう引っ越すんだ」
自分の痛みでもないのに流した涙のせいでメイクは崩れかかっていた。声も顔も覇気を失ってふにゃふにゃになっているくせに、僕の右手に添えられたふたつのこぶしだって震えが止まらないくせに、その人はまっすぐな瞳で言った。
「一緒に行こ? 私が匿うから、ね」
どうしてこうなってしまったのだろうか。
「退院が七日の土曜日って言ってたよね。私金曜日に迎えに来るから」
いまさら「異常性」とやらを悔いた。
「新しい私の家ね、都内なんだよ。ふたりで住むにはちょっと狭いかもしれないけど、パパとママは三月からおばあちゃんちに住むらしいから、実家にはもう戻れないんだ、ごめん」
一体なんなんだ「異常性」って。ただ人より少したらしなだけだろ。そんな仰々しい呼び方もうやめてくれ、疲れたよ。
「私が、茜が家族になるから。君の家族になるから」
ありがとうとごめんねを何度も何度も繰り返した。
あとはただ泣くことしかできなかった。
***
「おかえり。今日もお仕事おつかれさま」
ワンルームの狭い玄関で茜さんを出迎える。
「ただいま。ハル君も家事ありがとね」
ぎゅっ、と十秒ほど抱擁をしてから、ご飯できてるよ、と六帖のワンルームまで茜さんの手を引いて行った。
ご飯を終え、今日は金曜日だから夜更かしするんだー、と言う茜さんと一緒にテレビを見ていた。ふたりで寝るには狭すぎるベッドの、茜さんの左隣に腰掛けて、そのままテレビから垂れ流される映画を眺めながら他愛もない話をした。度数の低い甘いお酒を三缶ほど開けた茜さんは、映画が終わるころにはすっかり酔っていて、次週放送される映画の紹介も他所に唇を塞いできた。そのままふたりで倒れ込む。
ここで匿ってもらい始めてから一週間くらいは自制していたのだけれど、酒かなにかの弾みで一度してしまったら、もうお互いのたがが外れて止まらなくなった。
そうして金曜日の夜は、またシングルベッドに沈んでいく。
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