第2話 藤崎結と、こじれる前に
この関係が、こじれる前に、離れる前に、私はきっと、結ちゃんと向き合わないといけないんだと思う。
結ちゃんと葵との勉強会から帰宅したのは、時計の針が18時を回った頃だった。
今日の夕飯は何にしようかと、冷蔵庫の中身を思い出しながら部屋着に着替える。
夏休みに入ってからは、実家にもちょくちょく帰っている。
けれど、こうして高校の友達との予定があると、片道数時間かかる実家に帰るよりも、一人暮らしのこの部屋に帰る方が楽だった。
着替え終わったタイミングで、携帯電話のメッセージ通知が点滅しているのに気づく。
画面を開くと、結ちゃんからのメッセージで、思わず顔がにやけてしまった。
好きだなぁ、と思う。
今日の帰り際、結ちゃんに抱きつかれたときの感触が、まだ残っている。
柔らかくて、ぎゅっと抱きついてきて無邪気に笑う顔がとても可愛いくて、あの子の全部を手に入れたいと思った。
ふと香った、結ちゃんのミルクのような甘い匂いに、胸が苦しくなった。
状況にいっぱいいっぱいになり、せっかく「今度お家に来てください」とお誘いされたのに、「ご両親へのご挨拶ですかっ!」だなんて返してしまった。
色々と手順をすっ飛ばし過ぎた。
そして結ちゃんは意味をよく分かっていなかった。
頭が良いはずなのに、何でこんなに鈍いのあの子。
結ちゃんからのメッセージに返信し、長い髪を一つにまとめる。
夕飯作りの開始だ。
冷蔵庫を開け食材を確認し、オムライスでいいか、と卵と余っていたベーコン、玉ねぎを取り出し、まな板の周りに並べる。
一人暮らしも2年目になると、料理の手際も良くなるもんだ。
実家にいた頃は全く料理はしなかったものの、 いまの学校への進学が決まった際に母親から叩き込まれた。
まあ、それでも結局、好きなものばっかり作って食べるんだけど。
とんとんとん、と包丁とまな板が触れあう音が部屋に響く。油をひいて熱しているフライパンから、パチパチと音が鳴る。
ここに結ちゃんが来て、一緒にキッチンに立っていたのだと思うとほっこりと胸が温かくなる。
結ちゃんは、お泊りしたあの夜に自分がなんて言ったのか、覚えていないみたいだった。
もしくは、 あの子にとってはとるに足らない出来事だったのかもしれない。
『……私は、先輩の特別な人になりたいって思っているから…』
静寂のなか、ふたりの体温、すぐ傍には少しうとうとしている結ちゃんがいて、彼女の頭を撫でていた私の手は、その言葉で動きを止めた。
「えっ、それってどういう…」
そう返したものの、もう結ちゃんは瞼を閉じて夢の世界へ旅立った後だった。
規則的な静かな呼吸に、もう寝入ってしまったのだと項垂れる。
結は寝つきがいいからお泊りしてもすぐ寝ちゃうと思うよ、と教えてくれていた彼女の幼馴染に、本当にそうだね、と心のなかで答える。
「言い逃げなんてずるいじゃん…」
これは告白ととっていいのかな、いやでも、寝ぼけていた可能性もあるよね。
詳細は明日、本人が起きた時に確かめるとして、一度昂った鼓動はなかなか収まりそうもない。
ええい、と自分の寝る位置を上にズラし、仕返しのつもりで結ちゃんを抱きしめる。
そうすると、寝ながら自分からすり寄って来たので、その状況にまたもや私がダメージを受けた。
翌朝、案の定、目を覚ました結ちゃんは私の腕のなかで目を覚ましたことに驚いていて、内心私は面白くてたまらなかった。
「結ちゃん、昨日の夜のこと、覚えてる?」
「昨日の…よる…ですか……?」
「そ、寝る直前に、私に何て言ったのか」
暫く待ってみるも、顎に手をあてて考え込む姿を見て、あーこりゃ覚えていないな、と苦笑いする。
徐々に結ちゃんが不安そうな顔になってきたので、「ごめんごめん、凄く寝ぼけてたみたいで、可愛かったからさ」と返すとまた顔が真っ赤になっていた。
「もー!やめてください!」なんて言って彼女が動く度、ベッドのスプリングが軋んで音を立てる。
覚えられていないのは悲しいけど、一緒に目覚めることができたこの時間が幸せでたまらなかった。
この時間がずっと続けばいいのに、と心の底からそう思った。
切った具材をフライパンに放り込み、その間に冷蔵庫から冷やご飯とケチャップを取り出す。
飛び散る油に換気扇を付けていなかったことに気づき、慌ててスイッチを押した。
具材を炒めながら、先日の学校でのことを思い出す。
『この子は、藤崎結。――私の特別な子』
ひとつの賭けだった。流石に思い出すかなって。
もしくは、私の気持ちに気づいてくれるかなって。
失敗したけど。
たぶん、何か勘違いしてるんだよなぁ。
出来上がったケチャップライスを皿に移して、次は溶き卵をフライパンに流し込む。
お腹が空く、いい匂いが部屋に充満する。
勘違いしているし、無防備だし、無自覚なんだよなぁ。
普通、言う?年上の男子に「照れた顔、可愛いですね…」なんて。
ぐいぐい迫ってくる様子には驚いていたけれど、田辺も頬を染めていた。
結ちゃんが走り去った後、絶対に好きになるなよ、とわざわざクギを刺すくらいには、心中穏やかじゃなかった。
結ちゃんの他人との距離感を、初めて知った瞬間だった。
誰にもとられたくない。
こじれる前に、離れる前に、私はきっと、結ちゃんと向き合わないといけないんだと思う。
お皿にのせたオムライスをテーブルに置く。
ケチャップで何か絵でも描こうかと視線を彷徨わせていると、冷蔵庫に貼っていた花火大会のチラシに目が留まった。
そういえば、8月に入ってすぐにあるんだよね。
花火大会といえば、カップルや告白のベストタイミングじゃないだろうか。
結局はテキトーにケチャップをかけただけのオムライスを食べながら、メッセージアプリを立ち上げる。
ああでも。
「結ちゃん、葵なしでも一緒に行ってくれるかなぁ…」
ちいさな部屋のちいさなキッチンに、私の弱気な呟きが溶けて消えた。
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