第17話


 井上恵は、娘の沙織が中学校に上がった頃、2、3度話したことのある程度のママ友から、PTA本部役員へと推挙された。


「え。私には無理です。仕事もあるし、」

『仕事があるのは皆一緒よ。大丈夫。大した仕事じゃないから。』


 何度断っても勧誘の電話は鳴り響き、根負けする形で本部役員を引き受けた。

 

 任期は2年。

 

 2年後、井上は役員の後任を決めるために、知り合いと言う知り合いのママ友へ打診した。しかし、誰も色好い返事をくれなかった。


「どうしてっ、私ばかりがこんなに苦労しなくちゃいけないのっ」


 中には疎遠になっていくママ友もあった。


「お願い、末安さん、…後任、引き受けてくれない?後任が決まらないと、私、来年も役員をしなくちゃいけなくなるの。でも仕事もあるし、ちょっとしんどくて、」


 そんな中、井上がすがる思いで何度も何度も懇願した相手が、末安雫枝だった。


『えー、でも、ごめんなさい、私も仕事があるし、』


 一度目の打診でそう告げられ、雫枝にやんわりと断られた。二度目は娘の塾の送迎が忙しいと断られ、三度目は旦那にダメだと言われたと断られた。


「…どうして、そんなの私だって同じなのに。」


 雫枝の上げたその理由の全てが、井上自身にも当てはまる。それでも自分は2年間、役員を務めあげたのだ。


(なのに、なんで?どうして?)


 参観日で雫枝と顔を合わせて談笑していても、井上の心の奥にはずっと淀んだ何かが渦巻いた。


 結局、後任を見つけられず、井上は三年間、本部役員を務めることとなった。



 やがて娘の沙織が地元の公立高校へと進学し、ようやく役員から解放されたと安堵の息を漏らした入学式。

 しかし式の後、帰ろうとしていた井上に、見知らぬスーツの中年女性が声をかけてきた。


「いたいた。井上さん、探したわ~。あなた、中学の時に三年間本部役員をなさったんですってね。すごいですよね!私ほんと尊敬しますよ。」


 にこやかにそう声をかけられ、おののく間もなく井上はそのまま数人の女性に取り囲まれた。


「あ、あの、」


 それは育成会という名の、保護者会本部役員の面々だった。


「……あの、でも私、仕事があって、」

「仕事があるのは皆一緒よ!仕事をしながら家事もしながら、みんな頑張ってるのよ。それはみんな一緒!」

「…そう、ですよね、」


 結局井上は今回も断ることができずに、高校の本部役員を引き受けることとなった。



 そんなある日、懇親会も兼ねた役員の会合が小さな町の繁華街で行われることとなった。

 普段から酒の匂いを侍らせて帰宅する旦那にその旨を伝えると、眉をしかめ、怪訝に口許を歪め、


「くだらん。主婦が亭主の金で飲みたいだけだろう」


 と唾棄せんばかりに言い捨てられた。

 それでも井上は「付き合いだから無下にはできないわ」と微笑みながら、会への参加を頼み込んだ。

 頭を下げながら、井上は小さく濁った息を吐く。


 

 一年間の行事日程を決めるだけの会合が終わったのは午後11時。ほとんどの役員が乗り合わせてタクシーで帰る中、井上はわざとバスで帰ることにした。


「………」

 

 初夏の足音も聞こえる季節ではあったが、夜風は冷たく、上着の前をぎゅっと閉じながら、暗いバス停でなかなか来ないバスを待つ。


「…………」


 できることなら、このまま家とは反対方向のバスへ乗りたい衝動に駈られた。


「………!」


 そんな重たい気持ちを抱えたまま、ぼんやり反対車線へと視線を投げた時、井上は自らの目を疑って何度も瞬きを繰り返した。


「…嘘でしょ、」


 道路向かいの歩道を、一組の男女が親しげに歩いていくのが見える。


「………末安さん、」

 

 暗がりではあったが、女の方が末安雫枝であることははっきりとわかった。しかし、男の方は、明らかに末安の旦那ではない。末安の旦那は背が低く、少し小太りだった。だが今目の前を通りすぎた男は細身でとても背が高い。


「………」


 連れの男が兄弟だったとしても、親戚だったとしても、友人だったとしても、そんなことは井上にはどうでもよかった。


「…どうして、私ばっかりしんどい思いしてるのに、」


 ただ楽しそうに夜の町を闊歩する末安の幸福そうな顔が、目に焼き付いて離れなかった。




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