5. 夢は壊れた心の叫び

 時々、夢を見る。

 誰にも信じてはもらえない。自分でも信じたくない。信じきれてない。

 私だって最初は正気か狂気か、疑った夢。

 憧れでも願いでもない、あまりにも現実的で、だけど現実じゃない夢。


 それは、私が、もう一人の「私」に会う夢。


「オールドクロック」。

 この前まで住んでいた、東京の喫茶店。

 時計が沢山ある。動く時計も、動かなくなった時計も、表示板にヒビが入った時計も、その一つ一つが生きているように、呼吸するように、秒針音を鳴らす。

 だけど、夢の中は、秒針の止まった時計だけが、ポツンと佇む、

 店内には、誰もいない。

 正確には「私」以外、誰もいない。

 だけど、「私」だけは、そこにいる。

 そこだけに、確実に、存在しているのだ。

 

「……ばーか」


「……えっ?」


「――すごいよね。話しするとき、『えっと、あの』とか、『ごめんなさい、すいません』とか、いっつも口から出してるのに。そんなこと、ここでは言わなくていいんだよ」


 怯え切った目。だけど、怯えや恐怖を通り越して、全てを放り投げた、諦観の色にも見える。

 もう一人の私は、何もかもがどうでもいいと感じているような、ふざけた笑いを浮かべている。

 こんな表情、私には嘘でも出来ないから、きっと彼女は私ではない。


 私は、もう一人の私に、そっと尋ねる。


「……あなたは、誰?」


「私は、小牧エリカ。あなたも、小牧エリカ。だけどあなたは、私じゃない」


「ちょっと、ちょっと、待って。意味がわかんない」


 あまりにも唐突すぎて、分からない。

 嘘でしょ。というか、夢、なのか。


 大抵の場合、夢ふわふわしすぎて、意思は辛うじてある。だけど、すぐに信じきってしまうほど、心は脆い。

 だから、目の前が偽物だって分かっていても、私は自分自身に話す。


「……意味がわからないよね。でももう諦めなよ」


「……何を?」


 そう言ったら、私は舌打ちをした。チッ、と、唾が飛沫するくらい、大きなものだった。だけど、唾液も息の感触も、肌にはつかない。ついたのは、ただ空気みたいに軽い、だけど触れても残る、いやらしい絶望みたいなものだった。


「そういうとこ、ほんと大っ嫌い」


「……えっ?」


「自分で分かってるのに、はぐらかして知らんぷりをするとこ」


「……そう、だね」


「あなたには、何も無い。何も無いから、何者にもなれない。何者にもなれないから、誰も傍にいてくれない」


「……そう、かも、しれない。だけど、私は――傍にいてくれる人がいて、美味しい食べ物を『美味しい』って感じれて、それに――」


 次の言葉。言おうとしても、言えない。

 心がいたずらするみたいに、言葉を封じていく。

 後、何を言おうとしてたっけ。


「じゃあ、軽くテストをしてみよう――あなたは、今、どんな気持ち?」


「……気持ち悪いよ」


「まあ、そりゃそうか。じゃあ、この夢から覚めると、どんな気持ちになる?」


「……つまらない。いつも駄目駄目な私に、いつも飽き飽きしてる。でも、ここに――北海道に来てからは、ちょっと楽しい」


 何故だろう。何も思わなくても、何も言いたくなくても、自分のことは否定してもいいけど、私の周りにいる全ての否定したくなかった。


「じゃあ、あなたは『私』じゃない」


 だけど、もう一人の私は私自身を否定する。私を取り巻く環境と、傍にいる全ての人たちを嫌うみたいに。


「……どういうこと?」


「私が『私』だったら、そんなこと言わないよ」


 そうか。本当の私は、「楽しい」なんて言わない。言えないし、言いたくないのだ。


「……ああ。そうだね」


 夢はあまりにも曖昧で。その曖昧さに、心まで脆くなって。自分による自分自身の自己否定のレッテルも、心にすっと溶けていく。

 だけど、溶けても、残り続けていく。いつまでも消えないから、ただただ苦しくなる。


「……私が『私』になるためには、どうすればいいの?」


「あなたは、『私』じゃない。だから、あなたは何者にもなれない」


「……じゃあ。いいや。あなたが――私自身がそう言うなら、もういいかな。ずっと、変わらなくても」


 何もかも投げ出して、それがずっと変わらないままでも。

 私の好きな、ブラックコーヒーみたいに。

 ずっと、色褪せた純粋さのままで。


 私じゃない私がそう言うと、夢は覚めていく。ただじっくりと、何も始まらない、普通の日常が目の前に広がっている。そんな朝が来ると、夜明けの寒さで正気になり、朝食のスープで完全に眠気が覚めていく。


 いつもなら、夢はすぐに終わる。普通なら、二、三日程度は記憶に残る。

 だけど、それは――その夢だけは、忘れられない。消えるどころか、再び夢に現れてきて、現実にまで現れるのではないか、と、そんな風に思えた。


 正直に言うと、消えてほしい。

 信じられないのだ。というか、信じてはいけないのだ。

 私が、もう一人いるなんて。

 私は私だ。もし二人もいたら、どちらかが偽物になる。

 私にとってはあっちが、絶対に偽物だ。

 だけどあっちには、私が嘘なのかもしれない。


 私は、「私」じゃない。

 私が、「私」であるために。

 いつも、考えている。そして、時々、口に出してみる。


「私は、私のことが、嫌い?」


 心の中で言う。


 私は、私が、心の底から、大嫌いだ。

 勉強や運動、その他多くのこと。頑張っても報われないところ。

 すぐに落ち込んだりしてしまうところ。

 学校に行く直前に、タイミングよくお腹が痛くなるところ。

 会話の第一声が、「あっ」とか「すいません」で始まるところ。

 いつも人の目線を気にしすぎて、給食が美味しく食べられないところ。

 心はいつもギリギリなのに、人に素直に甘えられないところ。


 きりがない。

 自分を褒めることはできないのに、こういうところだけは人一倍言える。心をやきもきして、呆れて笑う。


 ――私は、私が嫌い。

 だから、私は、私だ。


 私を肯定してしまうと、なんだか私自身を否定してしまうような、不思議なジレンマがある。だから、自分自身の存在証明を確かめるものが、こんなどうしようもない嫌悪感になってしまったのだ。


「あなたは、『私』じゃない」


 何回も思う。何度でも願う。

 ――私は、私が嫌いだ。

 だから、私は、私だ。

 そして今朝も、そんな自己否定とともに、目が覚めていた。


「おはよう、エリカ」


「入学式まで、あと三日だよ。もう生活リズムを整えないと」


「……あー、うん」


「……でも、なかなか起きれないときは、お姉ちゃんが起こしてあげるから。心配しないで」


「あー、うん。ありがと」


 ❀


「ねえ、みゆきち。あたし、考えてるんだ」


「……桜、いきなり唐突だね」


「HPSは、それだけじゃないんだってこと」


「……? ちょっと何言ってるか分からない」


「なんだろ。もしHPSであるなら、きっと他に、何かしら抱えてるんじゃないかって」


 自閉症。多動症。注意欠陥。自閉スペクトラム症。学習障害。双極性障害――


 どれだけ調べても、聞きたくない名前しかない。

 断定も、仮定も、したくない。

 それでも、考えなきゃならない。


 もしエリカが――あたしにとっては、ただの優しい少女だと思ったとしても。

 エリカは、そんな不特定多数の誰かが持ち込んだ、「ただ」の曖昧な基準に、苦しめられている。


「……抱えてるよ、そりゃ。だって、人間だもの」


 そうだ。きっとこれが答えだ。

 人間なんだ。みんな。あたしも、エリカも、みゆきちも、リラも。

 だから、今更、何があったって、気にすることでもない。

 だけど、それでも、心の何かが――変わらなければいけないと、あたしを急かす。

 会話は、ただ、そこで途切れた。


 ❀


「エリカって、スマホ持ってるでしょ?」


「うん。持ってるよ」


「じゃあ、連絡先、交換しよう」


 そう言ってライカを開く。ちなみにライカとは、現在最もメジャーなトークアプリのことだ。


「バーコード見せて」


「……よし。出来た」


 リラのアカウントが友だち欄に表示される。


「私があなたの最初のお友達。……姉で友達って、なんか不思議な関係……」


「友だちって、増やすべきものなのかな?」


「別に、増やす増やさないは自由だよ。でも、二人は寂しいね。他にも信頼できる人と友だちになれば?美雪さんとか」


「……そうだね」


「……エリカ、じゃあ一緒に写真撮ろっか?」


「……えっ、いや、なんで?」


「だって、初期アイコンのままだし」


「……ああ、そうだね」


「……どんな風に撮るの?」


「……うーんと、じゃあ、こういう風に」


 リラは私の後ろに回ると、私の肩にひょこっと顔をのっけた。

 髪からは柑橘系の匂い。それに仄かな潮の匂いが、後からくるように混ざっている。

 私の姉。リラは、アイスコーヒーに付く水滴みたいに、飽和している。

 可愛くて、優しくて、頼りになって、いい匂いだってする。

 そんな彼女に、そんな姉に、私は辟易する。

 なんで私は、彼女になれないんだろう。


「……ねぇ、今、ドキドキしてる?」


「……うん。まあ、多分」


「私も」


「どういう風に?」


「口説きとか、苦しい緊張じゃなくて、ただ、傍に誰かがいて、それが、ただ温かいんだよ」


「お姉ちゃんって、体温低めだよね」


「……そういうことでもないんだけど」


「まあ、とりあえず、写真撮ろ」


 前だけを見た。パシャッ、とシャッター音がなる。

 その後、私達は、しばらく画面を凝視した。


「どうかな?」


「なんか、私がエリカを守ってるみたい」


「ほんとだ。お姉ちゃんって、結構スタイルいいよね」


「167センチって、結構身長高い?」


「すっごく高い。私なんて148センチしかないよ」


「……まあ、女子だから、特別大きくてもいいことなんてないと思うよ」


「でも、やっぱりいいね。なんかお姉ちゃんって感じがする」


「そう思ってくれるのなら、自分の身体を褒めるしかないね」


「ねえ、エリカ」


「何、お姉ちゃん?」


「あなたがするとき、私のことを『お姉ちゃん』って言うの、なんか、すごい――」


 リラは言うのを躊躇うように、だけど言い淀んだ声で、そっと囁く。



「好き」



 まったく。純情なのは、一体どっちの方だ。


「……そっか、ありがと」


 この「好き」を肯定してしまうと、自惚れみたいて嫌だ。だけど、否定もしたくない。

「嫌い」ではないが、乗り切れないでいる。


「……妹なんだからさ、もっとお姉ちゃんに甘えてもいいんだよ」


「いや、妹だから甘えるのが嫌なんだよ」


「……ふーん。我慢強いね。じゃあ、こうしてあげる」


 彼女は私を抱きしめた。いつもは冷たい彼女の体が、今は温もりに満ちている。


「ありがと。エリカ」


「なんで、ハグしたの?」


「……うーん、何となくだけど……もしかして、嫌だった?」


 なんで、抱きしめられてるんだろう?

 彼女は、どんなことを思っているのだろう?

 何か、特別な意味でもあるのかな?


「……嫌、ではないけど、なんかね、わかんないの」


 抱き締められることは、ごく普通の女子高生にはボディータッチみたいなものだ。だけど、私には違和感があるのだ。あまりこういうこと、したことがない。というか、したことがない。

 それに、抱きしめられるほど、褒められることもしてない。それなのに、いきなりされると、なんだか大袈裟に褒められているようで、それが妙に、気持ち悪いのだ。


 もしかすると――なんて、期待しすぎて、考えてしまう。

 それも、気持ち悪すぎて、夢みたいに吐き気がするのだ。

 あと一歩踏み込んでしまうと、変わってしまう。

 それにちょっと、早すぎるから。


「お姉ちゃんは、もっと妹を、甘やかしたいけどな」


 そして今日も、お姉ちゃんがいる。

 お姉ちゃんはいつも、私をいやおうなしに肯定してくる。その肯定感が、缶の底で溶けている赤色のドロップみたいなのだ。届きそうで届かないむず痒さと、甘すぎて毒にもなるような優しさが共存してて、彼女を想うと、常に心が苦しくなる。

 

 ❀


「美雪さん。ライカ交換しませんか?」


「……別にいいけど。でも、友だちとか、そんな人達を優先した方がいいんじゃない?」


「あっ、友だちは……」


 なんて、言えばいいだろう。


「……友だちは、いませんでした」


「……そう。いろいろ大変なのね、あなたも」


「……」


「……友だち、できるといいね」


 友だち、二人目。


「……何この画像?二人で撮ったの?」


「あっ、えっと、これは……」


「フフ、青春してるのね。あなたたちのこと、ずっと見ていたい」


「青春」ってなんだろう。

 美雪さんみたいな大人には、その言葉はすんなりと入ってくるのだろうか?でも、私達当事者からしたら、ベールは被ったままで、本当の意味は分からないでいる。


「桜さん。ライカ交換しましょう」


「えっ。ライカ?そういえばアタシ、もう三週間くらい開いてないわ。そもそも、まだあるのかなぁ?」


「えっ……」


「あたしなんかに構わない方がいいよ。だって基本見てないから」


「でも、連絡先持っといて損はないと思いますから。それにほら、分からない問題とか教えてもらいたいし」


「そこまで言うならするけど」


 そうして、私には今日、三人の友だちができた。


 ❀


 制服は、確かに可愛いかった。

 ただ、私には可愛すぎた。

 なんで都会から来た女が、ちょっと華奢な制服を着ただけで、こんなに田舎臭くなるんだろう。結局、この子たちをそつなく着こなせる権利なんて、一部の特権階級的な位の人間だけなのだ。


「……制服、鞄、ローファー……準備よし」


「……」


「……エリカ、大丈夫?」


「……あっ、うん」


「もう、うち出るよ」


「……ごめん。ちょっと、待って」


「……どうしたの?」


「……トイレ。……ちょっと、お腹、痛い。だから、先行ってて」


「……あっ。待つよ。多分次のバスでも、間に合うし」


 今日は入学式。最初は期待と不安が入り混じる。それは私だけじゃなくて、誰もが経験するのかもしれない。


 ――友だちできるかな、勉強ついてけるかな、部活入ろうかな――

 普通の人は、そんなことを考える。


 だけど、私は違う。

 気持ち悪い。

 痛い。

 おさまって。

 今だけ、我慢して。

 私は、突発的にくる腹痛のせいで、そんなことばかりが頭の中で交差する。交差するから、痛みのことばかり考えて、苦しいがはち切れそうになる。苦しさが紛れないよう、ぜーはーぜーはーと、何度も呼吸をする。

 

 こんなの、「普通」に生きてたら、ならないのに。

 だから私は、普通じゃないのだ。


 トイレの中、痛みが収まって、ようやく一息つく。

 深呼吸をする。それと同時に、脳は心にいじわるをする。


 入学式。

 ――誰かに嫌われること、ないかな。


 私は私が嫌いなのに、誰かに嫌われるのには敏感なのは、やはりどうかしている。


 空は青空だった。最近よく見る、絵の具を薄めたパステルカラーの水色。そこに、真っ白な雲が乗っかっていて、気持ちのいいくらい透き通った空。

 綺麗すぎるから、私には澱んで見える。

 青くて綺麗な空も、甘くて赤い誘惑も。否定したくはない。だけど私にはやけに、皮肉めいて見えるのだ。


 ❀



「――皆さん、ご入学、おめでとうございます」

 


「……こほん。えー、今年度からあなたたちの世話をすることになった、担任の汐見桜です。高校の一年というのは大変で短くて辛い。でもその分素晴らしい。そしてあたしはそれを全力でサポートしたい。一年三組のみんな、よろしくね」


 担任が桜先生って。嬉しいような、嬉しくないような。いや、頼もしいけど。頼ってはいけないような感じがする。

 これから三年、私は何をするのだろうか?

 深呼吸のようなため息のような、自分でもよく分からない呼吸をする。それでも、喉仏の上らへんはスッとした気がする。サイダーを一気飲みして、その後に来る爽快感と、残されたプチプチと弾ける泡の刺激が混じったような、どこか胸に苦しさの残る清涼感だった。

 

 夢は、壊れた心の叫び。

 なら、夢なんて見なければいい。


 高校生活という名の旅路はようやく始まり出した。地図はまだ、虹色の夢を描くよりも、白紙のままにしておきたい。

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