後ろ向き連続辞退

 駅構造物のエスカレーターに乗って覆われたプレハブの屋根から陽の当たる清らかな晴天の地上に出た。波飛沫を描く舗装タイルで曲部を合い紋しているのが道路を伸ばしていくビルディングの路地表通りに立ち並ぶ消灯中の照明柱を追いかける。小脇に植えられた子供二人分の低木の茂みが駅構内に導き入れる織り交ぜの車線沿いで凡そ五メートル置きに反復することを左の焦点で捕まえながら雑居ビルで光り輝く塗料の白光に瞬く。昼過ぎの天の照射が熱まで跳ね返しているような炎暑に焼かれる緑を伴う大通りを人の流れに逆行すると信号機の審判する横断歩道が間近に接近してきた。上空の開けた先の地帯に準せず庶民派飲食店や薬局、携帯ショップ他が十字路を始点として熾烈に市場を押さえる建物群落の日影に囚われて街道源の放熱のみが宙に赴く締まりのない空調を覚える。それでも一定に吹かれるビル風が水気の含む停留を洗い流してくれるので不快指数は上昇を断絶する。電子板の人柱が鮮血に染色した後代わる代わる白黒の標識に従い、轢死の愁いも杞憂に終わる安寧を経てガラス張りのカフェテリアや新開店の居酒屋を右手に行進し近傍が溜池と川の中間層になっている陸橋の上に踏み入れる。橋上になれば周りもある程度解放され高純度の斜陽が髪に沁み、八月半ばの盛況と退行が一挙に降り注ぐ。停滞した川流れに同調した私は橋梁を越え、次の駅へ挿入するレールを網フェンスから観覧しつつ植込みの延長へ歩行した。短いトンネルすら潜って出没した曲がり角、改札出口による混雑の過密を会社勤めの暑苦しさと酸味に巻かれて行く。街路樹が転々と生える道中駅の交差点で乱れる人を置き去りに、牛丼屋と文房具店で間隔を空けた土地、遥々やって来た私の到着地がある。学習塾、格好つけて言えば予備校。壁面錫色の屋舎で往来の富んだ通路に会合するのはアナログな手動ドアを玄関口に設けており上方には塾と歯科医の名称が発光する看板が突出して全体景観は年季が嵩んだように映る。私の姉も通塾していたことがその歴史を裏付ける。早速分厚い扉を手に触れ入館すると塾特有の受験案内の記事や参考書の掲示、そして熟成された紙の芳芬が漂う。受付のお姉さんの挨拶に首を前傾させる体重移動に乗ってエレベーターには乗らず手摺率いる螺旋階段を昇りゆく。私の選択する講座は四階にあり至るまでの勾配に足を引っ張る。

 すると、私の動悸に不整が発症する。私の脈拍が不規則に搖れ出す。昇るにつれ体内の圧迫感が激化し、口呼吸と鼻呼吸が迷路になり息切れの吐息が私を中央に広がっていく。無理せず昇降機を利用すればよかったかもしれないと後悔する暇を荒い二酸化炭素に溶かす私は歯科の待ち椅子を素通りし三連続の階段を昇り切る。肺循環の壊れたまま二つに分岐した教室の手前を捉え、塾生が敷き詰められた十五坪の網目を切り進む。接合した二列の机が四縦隊弘まる佶屈な室内は話し声が消え入り遅刻しかけの私の着席音と生活音だけが立った。二十八名居る中で誰一人喋らない。私の来る前は喋っていたのかもしれないが、現状唇の隙間から出る言葉がない。静かで冷たい。私が原因なのかどうかも分からず、授業担当の講師が入る。それまでの間、無軌道な空間が私の存在を脅嚇した。

 私が塾に通い始めたのはつい最近のことだ。受験で成功した姉の踏襲もあり、親の提案と推薦で今居座る塾への在籍は決定した。勉強することに社会進出以上の利益を見出していない私だったが、歳を重ねて固陋となった親の教育観念は簡単に顛覆できなかった故だ。猛反発ではなかったけれど反旗の素因を語るとすればそれは矢張り私の特異体質だ。私は誰かと近距離を築くと息が混濁する体質を持つ。一旦呼吸が暴走すると私自身ではコントロールできなくなるという悪癖だ。平常時、一人で暮らす時間は機能させるまでなく和順で居られるのに、教室を代表とする閉所で人が固まると特に内蔵した症状が鼻腔より拡散する。他人に自分が見られているのかいないのか自分は見ているからもしかしたら他人は見ているのではないか見ていない振りをして見ているかもしれないが見ていないかもしれないのではないかそしたら自分の呼吸が他人に見られているんのではないか見られていたら呼吸を見られている中でするのではないか見られていなかったら呼吸はできるのか見られていても呼吸はできるのか、呼吸することが自分の鼻から口から何処から出ているのか分からないけど分からないからと言って呼吸が止まる訳じゃないから呼吸はする所呼吸の方法がよく分からなくなり呼吸を今しているのかしていないのか。段々分からなくなって無意識ではいられなくなって吐く息と吸う息が頻繁に往路復路するから意識の霧散により気体濃度が減る。私産の狂った調子は私の居る場所と人に伝染する。健康診断における心電図で異常と診られた経験はない私だが、この特別な現象は階段の昇降に依拠せず何処でも何時でも今現在も発現する。要約すれば、私の訪れた所の人々は高確率で黙りを決めるということ。

 だけれど私は通塾する。水曜と金曜、週二体制で受験必須科目を受講する。入塾した当初以来無遅刻無欠席で通う私だ。私の惑乱を犠牲にしてまでそうするのは、学習塾が漠然とした将来の保険としての受験を補強する物だからに他ならない。学歴優位の世間、学習以外の何かに秀でた質のない私にとって机に向かうことが安定の望める生活の導引だ。しかしその私の都合を優遇させれば教室一つ分の学生が供犠となる。私がここに居ることで生徒と生徒の繋がりが途切れる。この何ヶ月かで痛い程繰り返したことだ。

 講師が壇上に立ち、新学期の教材を配る。二列毎に束になった朱色のテキストを後ろへ回してゆく。最後列の私に手渡されると、不要な一冊があることに気付いた。「余りました」指摘する私に、講師は「辞めてしまったのだった」声を漏らす。瞬間、自身で心臓が抉られる。

 そう、先日終に塾から一人抜けた。退塾、恐らく転塾だ。

 辞めた彼女の名前は笹森と言った。背が高く、女子だったら誰しも憧れるだろう容姿とセンスを備えており、塾内において頭脳も良い方だった。そして何よりよく喋る人だった。私が塾に参入した始めの頃、教室の端から端へ会話の架け橋を作り、豊潤で軒昂な交友の輪の中心に座っているような人物だった。この私も入塾初日、座席を探していた折に友好的な振る舞いで話し掛けられた程だ。しかし私の塾への定住が進むにつれ彼女は喋らなくなっていった。言葉を交わすとしても前後の席のみという狭小に留まるようになった。私独特の体質が彼女を困憊させていったのだ。直接口実を耳にした訳ではないけど、きっとそうだ。

 笹森が辞めた時、私はただのアンニュイに終わっていた。責任や罪悪感は背負わず、辞めるなら辞めればいいと割り切っていた。素より塾とは勉学の為の施設であるから、多少の異端なんて気にする方が不適切だと。

 私は深く考えないようにしていた。


 二学期の終わり、新たに四名が脱退した。

 三十人近く居た教室は二十四人になった。二学期の間ずっと欠席している二名を数に外せば二十二人だ。これにより当初二つのクラスに分かれていた数学の授業は三学期から一つに統合されるらしい。編成に合わせて片方の講師はこの塾を退職し別の学習塾に移動するという旨も、職務室で耳にした。

 変わらない私は相変わらず塾に通う。見慣れた人の疎らな街路の上リュックを肩に下げて虚ろに歩く。風で削られた外壁も眺めず、扉を押し込む。受付のお姉さんは休勤のようで校舎の中は相変わらず音が少ない。私が居るから声が聞こえない。

 胸を弾ませて教室に入ると、空白だらけの座席が見える。私は左右の消えた席で微かに寂しく思った。

 まぁ全部他人のことだから知ったことではないのですが。

 私のせいですか。私が消えればいいんですか。

 辛い。

 何処に居ても辛い。

 誰も居ない場所で、過ごしてみませんか。


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