鏡のない国
最高の友達って誰だ?
あたしはあたしだと思う。あたし自身だ。
自重せずに言えば、あたしはあたしのことが大好きだ。あたしの顔は可愛い。あたしの身体は小さくて可愛らしい。そして何を差し置いても、あたしの脳構造が好きだ。全人類の中で最も優れていると思う。歴史を振り返って、アインシュタインだとかピカソだとかそういう世に言う偉人の百億兆倍は天才だと思っている。所詮彼らは学術や芸術の域で名高いと言われているだけだ。あたしとは比べる必要もないよ。
根拠はいらない。言うまでもない。あたしが神の領域であることはあたしの中で揺るがない公理だ。あたし以外から見ても分かる人には分かると思う。分からない人には分からない。細かく説明し出すと長くなるし面白くはないから割愛するけど、あたしは誰かからの理解を求める余地もないほどあたし自身に絶対の信頼を置いている。簡単に言えば意志が強い。意志が強いから大概のことは出来る。誰かの首を締めろと命ぜられれば瞬時に実行できる。まぁその場合は命令した奴を絞殺しそうだけど。
あたしがあたしを好きな理由には、あたし以外の人が嫌い、というのもある。あたしを好む度合いよりはあたし以外を嫌う度合いの方が低いけど、何にせよあたし以外が嫌だ。だってあたしじゃないから。あたしはあたしであるから嫌うはずもないけどあたし以外はあたしじゃないからあたしじゃない奴のことなんて嫌うしかない。あたしと違うという点であたしのあたし以外への興味はマイナスに働いてあたし以外があたし以外であることに呆れてあたしはあたしだけを見つめてあたしが最高だと再認識してあたし以外はあたしの中から消える。嫌いと言っても嫌いになるのはわたし以外と出会ったその時のみで、その後はずっと無関心だ。負の値に零が延々と加算されるだけの存在。まぁ先ず以てわたし以外と遭遇する機会は無いんだけど。
そんなことを思い浮かべていたら、玄関先からあたしを呼ぶ声が聞こえた。お母さんの声だ。
あたしはお母さんと二人暮らしの生活をしている。生まれた時から周りを森林に囲まれた家で暮らしている。故にあたし以外が訪問してくることは滅多にない(お母さんはあたし以外の判定から除く)。家自体も自然を大いに取り入れた造りになっていて、未加工の丸太 で組立てられた床や木々と一体化したベランダが備わっている。整備された玄関付近以外はほとんど手付かずの環境で、ぱっと見で家と外の区別がつき辛い。森の奥深くには湖畔もあるらしいけど、子供のあたしには危ないと言って近寄らせてもらえない。あまり興味もない。
お母さんの声に応えて部屋を脱し、玄関に降りると二本の杖を片手に持ったお母さんがいた。またいつものように山菜採りに出掛けるのかと思って採取用の籠を取りに引き返そうとすると、お母さんに止められた。制止するお母さんのもう片方の手には確かに普段使いの鎌もなければ手袋もしていない。それじゃあ一体何をしに、何のためにわたしを呼んだのかと勘繰ってお母さんの顔に正答を求める。
するとお母さんはちょっと来なさいと言いながらわたしに一本の杖を手渡し、突然道無き道を歩き始めた。あたしがあたしであることに満足しているあたしは、新しい物事、ここでは未知なる道順を憶えなければならない兆候を感じて萎縮する。あたしとお母さんがこの家に住んでいるだけで十分充実しているのに、余計な知識は増やしたくない。しかしお母さんの指示は無闇に断る訳にもいかず、黙って杖片手に進むことにした。
家から外れると、膝の高さまである草木と頭髪を掠める枝垂れた樹木の生息地に入る。空気が澄んでいて虫も意外と多くはないけど、視界だけは凄まじく劣悪だ。気を抜いていれば地面の蔓植物に足を掬われてしまうので、常時杖で一歩先を確保しておかないといけない。お母さんは背丈がある分あたしより大変そうに歩いている。そんなお母さんの背後にくっ付いて邪魔な枝葉を掻き分けてゆく。ここまでは常日頃の探索と変化なかった。
しかし歩き続けて少時、足下に違和感が生まれる。踏みしめる本草と突き刺す腐葉土から締まりのない質感が伝わる。皮製の靴底には経験したことのないぐったりした感触が宿る。足を取られる方向が前後から上下に変様したような感覚だ。引き続き注意を払いつつお母さんの後続を行く内に、植物群の影に怪しい帯を見た。進路に沿ってそこに向かうにつれ、段々と足場が下方へ急勾配を描き始め、杖の調整が余儀なくされる。途中足を滑らせて転びそうになり、お母さんに心配されながらも懸命に荒地を下降する。そうして森林の冥暗に映ったのは、細長く展開する一繋がりの透明な流路だった。違和感の正体はこの流動によるものらしい。これは巷に聞く川という代物なのだろうか。でもそれにしては小規模な気がする。じっと注視して、どういった自然現象なのだろうかと不明瞭な目的地と照らし合わせて思いを募らせるあたしとは別に淡々と進むお母さんはいつの間にかあたしの遥か先端を行っていた。こんなものに見蕩れている暇はないと思い改め、ぬかるんだ地面を越える。相変わらず行く手を阻む葉や茎を避けて前進するに比例して殊更不安定になる斜面の道中、お母さんの声がまたも届く。その知らせ曰く、どうやらもう直ぐ到着らしい。ならば頑張るしかないと活気付き、お母さんのいる場所まで残りの乱雑な土砂を一気に駆け下りた。
林から出ると、目の前が明らかになる。
漕ぎ着けた景色には、銀色に輝く世界があった。
隣に立つお母さんがそれを指さして、眺めてきなさいと言う。
言われた通り近付いて、覗き込む。
するとそこには、もう一人のあたしがいた。
「!?」
驚いて、思わず後ろに飛び跳ねる。あたしが、あたしがもう一人。二人目のあたし。あたしがあたしだけだと思っていたあたしが、あたしの前に存在している。試しに過去にもあたしであったあたしの顔を
再度見つめても、そこにあたしがいる。あたしとほぼ同じあたし。言わばあたしの分身。常軌を逸しているし驚愕すべきことだ。けれど落ち着いて頭を整理すれば、天才のあたしにとって把握は容易い。何故ならあたしの目に映るものに違いはない。あたしが信じているあたしは、あたしを疑うことはない。何より、あたしが見ているのはあたしだ。あたしがあたしを欺くことはあり得ない。だからあたしはこのあたしを認める。あたしがあたしでありあたしがこのあたしでありこのあたしがあたりでありあたしがあたしであることを公理に組み込む。あたしとあたしの違いを消去する。これからはあたしとあたしの識別はしない。本質的にはあたしがあたしである以上あたしからあたしに何か取り組む手間もないはずだけど、あたしがあたしであった過去はあたしがあたしに会う以前なのであたしの中でしか秘めていないから一度きりの手続きとしてあたしがあたしであることを認証したまでだ。認証してしまえば、あたしがあたしであることにあたしは拘らない。あたしがあたしであると確認はしてもあたしがあたしなのかどうかと立ち返ることはない。敢えて表現するなら、今まで見えなかったあたしが見えるようになったに過ぎない。だけどそれによりあたしが可愛いことや幼い体付きであることがあたし自身の視覚で分かることができる。あたしがあたしという姿を保っている様があたしがあたしで解釈できるのはあたしにとってあたし冥利に尽きる。それにあたしはあたしを大好きだからあたしがあたしを見れているのは恋人と鉢合わせているに等しい。あたしがあたしを大好きだということはあたしもあたしを大好きに思っているということでそう考えるとあたしは更にあたしを大好きになるようで愛情の累乗計算があたしの頭で織り成される。頭の良さも容姿も動作もあたしと同じあたしが居てくれることにあたしは幸せしか感じない。感極まってあたしの前であたしが踊ってみれば、あたしと一緒にあたしも音頭に乗ってくれて楽しそうな笑顔を魅せるものだからあたしの心も森のセラピーを奪い取るように癒されて顔が喜ぶ。これがもしあたし以外があたしだったとしたらあたしはあたしとあたし以外の間を彷徨いあたしがあたし以外を嫌うこととあたしがあたしを好きなことが拮抗してあたしが崩壊するか、あたしがあたしを嫌う気持ちが風化して中途半端にあたしを好きだと思い込んだままあたしが終わるだろう。するとあたしがあたし以外になっている様子をうっかり思い浮かべてしまったがために、あたしが沈んだ表情をあたしに訴えてきて、そんなあたしを見たあたしはより気分が沈殿する。せっかくあたしがあたしに会えたのにあたしがこんな顔ではいけないと思い直し、あたしが両頬を叩くとあたしも両頬を叩いてきたので、あたしの憂いはあたしに吹き飛ばされてしまった。
こうして日が暮れるまであたしがあたしに夢中になっていると、お母さんがあたしの肩を触って言った。あなたはもう大人だから自由にしなさい、そう告げた。その言葉が意味するのはきっとこの場所への立ち入りの認可だろうけど、あたしは何だかあたしがあたしであることを遠回しに認められた気がした。まぁ素よりあたしはあたしが第一だから、何の意味もないんだけど。
あたしはその後も少しだけあたしを眺めて、お母さんがあたしにそろそろ帰らないと危ないと忠告した時点であたしは見つめるあたしを諦めてお母さんと共に帰途に着いた。流石にあたし自身が危険に晒されたら、あたし的に不幸だ。あたしがあたしと顔を合わせるにはあたしがあたしを大切にしなければならない。そして何よりもあたしがあたしを大事にしなければならない。
そんな過程を経て、今日、あたしはあたしと会えた。
それからというもの、あたしは何度もこの場所へ訪れた。ここに来れば、あたしがあたしに会えるから。切っ掛けをくれたお母さんも特に口を差し挟むことなく見送っていた。お母さんもあたしがあたしを愛してることは既知だから、あたしの安全管理を信用しているのだろう。まぁどうでもいいけど。
森の中、あたしはあたしと色々なことをした。
森の奥から搾取した鋭い樹皮や泥の微生物を見せ合いっこしたり、家からポケットに入れて持ってきた夕飯のおかずを一緒に摘み食いしたり、近くにいた熊を鉈で殺して死体を解剖したりして遊んだ。中でも楽しかったのはじゃんけんだ。パーを開いてもあいこで、チョキを差してもあいこで、グーを向けてもあいこで、何回出しても何回勝負してもあいこで、あたしはあたしだからずっとあいこになって、楽しかった。あたしがあたしなことを何回も続けてられてよかった。
あたしがあたしであることは、何回実感しても飽きない。むしろ回を重ねるにつれてあたしのあたしへの愛は高まっていく。あたしが神になるのもそう遠くないと確信する。もちろん、あたしはあたしだけど。
今では例の場所への粗野な道のりも全く苦にならない。慣れてきたこともあるだろうけど、あたしに会う楽しみが気力体力共に無限へ拡げているのだと思う。有り余って、あの湿地帯を跨ぐ際にはスキップもできる。そんなあたしも好きだ。全てのあたしが好きだ。あたしの全てが好きだ。
最高の、恋人だ。
そして今日も、あたしはその場所を訪れる。
今日のあたしは昨日のあたしよりあたしを愛してる。
風に蠢く森の秘境。樹海が周囲を取り巻く中。
境界に屈んで、あたしを覗く。また会ったねと呟く。
あたしは笑顔になる。
そんなあたしが、とっても恋しかったから。
キスをした。
初めてのキスは、湖の味がした。
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