膝下電車
十六歳になった途端、わたしを取り巻く話題が彼氏がどうの頭がどうの機械的反応に縛られた嘲罵と冷笑へ様変わりした。それを当たり前と信じて疑わない、描けば棒人間で済むようなマッチ棒の火に今日も炙られ、「早く帰ろ」別クラスで肝臓付近の机にクララが置いた手をレバーにして下校する。
クララは特段変わっていないように見えた。行きつけの一号車に邪魔し、クラスで販売された三文以下の小噺を転売すると、クララは「そんなこと言う奴いるの?」と顰蹙とわたしの価値観を買ってくれた。わたしが過敏なのか隣にいる子が鈍感なのかは明日にでも電撃移籍すれば比較できることだが、わたしの眼に映る世界を肯定してくれることが鍵だった。クララと居るとわたしの縮こまった自己を取り戻せて安心した。
校舎と各々の家を結ぶ運命の十両編成は左右に広がる田園地帯に目もくれずただ走る。わたしも変わり映えのない風景には興味はないが、遮るもののない明るい日差しは隣人の肢体を見やすく照らしてくれる。クララの脚をバレないように且つまじまじと見つめる。最近、何気なく築いてきたこの隣同士という距離感を妙に意識し始めた。これまで座席の列に対し十二時の方向を主張していた膝を時計回りに十秒、十分、長く見積もれば一時間程経過させる。本体である腰の座標も多少右側に掛け違える。もっと時が経てば、クララと隙間なく密着し、直に体温のやり取りができ、手を握れたりもして、その先まで遂げられるかもしれない。そこまで至急求めている訳ではないけど。クララはどう思うかなと近付けた頸から捉えるとあまり変化は表れない。つまり嫌がる気配はない。気付いていないだけだろうか。気付かせるのはまだ早いかと躊躇している内に、最寄駅の看板に迎えられたクララは「じゃあね」と小さい手を振ってわたしと別れた。去り際の脹ら脛のしなりと会話の余韻に二駅分離れたわたしだけが浸る。臀部の跡地に手を置いてみると温もりが尾を引いていた。未だ味わえるのは余薫に限るが、クララとの最短距離を記録しているのはご家族を除けば恐らくわたしだ。そう思うとわたしが特別な人間であることに説得力がついて気分が良い。
それから、わたしの思考をもっと知って欲しい意識と好きなものより嫌いなものの方が口から出やすい無意識を原因に、暫くクラスの愚痴が続いた。
周りに邪魔で消えて欲しい奴らがいる。量産型の発想汲み交わしわたしのような個人を踏み潰すどの映画監督が製作しようが悪役側の思想を軽快に口遊む。審美眼どころか日本酒漬けの魚類が発酵した眼を埋めてつまらない話に盛り上がる。わたし以上に性質の悪い自分のこと以外考えられない風貌の前髪を散らかす。表向きを整える能力さえない様だ。笑い声に当てられてトイレに逃げた先の鏡の顔は黒ずんでいて否定された。何故わたしが動かなければならないのだ?あいつらが出ていけわたしの隣から。わたしの生きる行程に割り込む奴はさっさと死ね邪魔だからあーもう殺したい。自分勝手に現れる小学生ならランドセル背負って帰ればいいのに。教室から出ないなら死ねや。
苛々した結果クラスに戻り「お前ら出ていけ」と初めてアドバイスしたら混じり気を知らない白い目で遠ざけられた。けれど黙ってくれたからわたしとしては得をした。わたしが喋っただけで形を潜める程度か。どいつもこいつも凡人ばかり。凡人は漏れなく死ねよ。機械が作業しているのと変わらないんだからさ。人的資源に値しないよ。人間じゃないもの。その内わたしの手で裁いてやろうと実直に思った。
「どいつもこいつも屑ばかり。そう思うよね?」
チャイムと同時に手を引っ張って連れ込んだ電車の中でここ数日恒例の確認を取った。クララの最近の口開きが鈍いのは言うまでもない同意を示しているんだよね。
「ほら、わたしとかクララはこんなにマトモなのにさ。異常なのってわたしの周りにいる奴らだけだよね」
勿論クララは屑じゃないよと窓明りを参考にした明るい気色を加えた。けれどそのフォローにクララは満足いかない表情を浮かべる。何、もっと褒めないと駄目かい。これ以上は恥ずかしいんだけど。
「あーあ、あいつら早く死なないかなぁ」
「……それは酷いよ」
遠回しには既に言ったに等しい本音を改めて紹介するとクララの重い口唇が小刻みに震えた。クラスの奴らのことを言ってくれているのかなと嬉しく思う。わたしを取り囲む余りの劣悪な環境にクララは前を向いて呆然とした。
だが以来、クララはわたしの意見に対し無反応に留まらず反駁をするようになった。他の凡人とは異なるはずのクララの意見も尊重したいからその時はわたしも軽く流したり無視したりするようにした。だけれどその反抗が約三ヶ月続くと単なる偶然の不調和には思えず、クララの変貌ぶりを察知した。
ある時クララの態度が特に悪かったので注意してあげようとクララの膝を抓った。身体が弱く対抗できないのは運命だから仕方ないと思えばいい。「痛」と小言を吐いてわたしの心の痛みを共感してくれたと予想したら「お前の方が屑だよ」隣の愚か者は身の程知らずに言葉を返し、口角を曲げ「お前」などとわたしを呼称してきた。
だから一発殴った。満足出来ずもう何発か殴った。自分の部屋の壁を殴っていたように目の前の鼻に拳を叩きつける。殴られた加害者は頭をフラつかせて殴り返す余裕を欠いた。やっぱり弱いじゃん。わたし達と毎度同乗しているかどうかは調査が面倒で確かめられていない乗客達が切られた火蓋に興奮し、あわよくばわたしを止めようとする前にクララは一号車から蹌踉めきながら脱け出した。素直に頷いていればこんなことにはならなかっただろうに勿体無い。
それから一緒に帰ることはなくなった。期待外れもいいところだった。
不躾に隣に座ってきて大きく咳払いする二十代後半の男の手元に呪いをかけた。ホームから転げ落ちて轢死する理想の未来を描く呪い 。男は頭の悪そうなビジネス書を開いて無味乾燥な文章に舌鼓を打っている。商業がばら撒いた悪習に塗れた世界のごっこ遊びに満足するお前らの世界でわたしは無視され続けて過小化された存在が惜しいよ人類にとってあーあ。お前達が間違っているからね。もう少し自分を疑った方がいいよ怖くて出来ないんだろうけど。
わたしの周りには屑しか寄ってこない。運命の出会いは基本的に起こらない。教室の中はその象徴だろ。どいつもこいつもわたしを無視する。良い子振って、いるつもりも無いけど、わたしが何かを与えても誰も何も返さない。口先取り繕う利益だけを求める屑共。わたしは謙虚になり過ぎた。お前らおかしいよわたしが折角語りかけてやってるのに。それでも律儀に登校するのは真面目が抜けないわたしの性格か。そんでもって朝から視界の端が見慣れた脚を捉えてしまうのは間抜けな運命か。今は関わりないから画面を切り替えた。
どうでもいいけどクララはわたしの元を離れてから性格が豹変した。身体の弱さを包み隠すように煩くなり、廊下ですれ違う際には友達らしき連れに時折わたしの噂話を聞かせ、わたしの方は学校で黙らせる訳にはいかないとクールに前を向いた。今もちらっと映せばスカートの裾でさり気無い中指を立てている。やることが肝っ玉と同じで矮小なのだ。お前の羽虫の如き手の挙動なんて何の意味も為さないけど。かと思えば時々妙に背筋を萎縮させるから苛々する。早く不登校になってくれないかなぁ。
この駅に着けば確率でクララの膝下が乗車する。学校まではこの路線しかないからやむを得ない。移動するのも癪だから下方を向いて脚を組む。来たら殴る近付いたら殴る今度は手加減せず殴る。わたしがどれだけ苦しんでいるかきたか、そのフラフラした脚を引き千切りたい咳する声煩いから踏み付けたい。
クララとは中学一年生からの関係だった。クララはそれまで友達と呼べる友達がいなかったらしい。わたしには沢山いたが卒業を機に消失した。そんなものなのかわたしの付き合いに問題あるのかその場その場で隣に誰かいる限り気にならなかった。わたしは自己紹介すれば明るく優しく誰からも愛される子。ただその愛は儀礼上のもので深い友情には結びつかない。今ではクララは連れがいてわたしは一人、この差は何だろう。運かな顔かな。何でもいいけど不公平であることは分かる。わたしの有り余る魅力を差し引く程に。
嫌わずとも話す内容のない隣の席の奴などは休み時間になれば他の教室へ逃げる。わたしと親睦を深めるつもりは毛頭ない。わたしの周りはこういう人間ばかりだ。何処に行っても同じだろうが。わたしもわたしでお前と話しても楽しいことなんてない。話すことは無駄だ。黙っている方が人間として正しい。だからわたし以外とも話すなよ。何が面白いのだろう他人と話して。
まぁ世界がわたしを無視するんだからわたしも無視して当然だ。別にこのまま一人でいい。老いても死んでも変わらない。人間元来一人、話しても唾液と時間を飛ばすだけで意義ない。お喋りが楽しいのはそれだけ幼いということ。大人になるとはそれを理解することだった。だから出て行け消えろ。この学校から出て行け。街から出て行け。お前の居場所も失くしてあげるよ。わたしにそうしたようにさ。
ただ端から拒絶してはいない。わたしの隣にゆったり座ってくる人は待っている。誰か近付いて来ないかな。すぐ追い払ってやるから。無意味なキャッチアンドリリース、これが粋です。そう思って今日の運勢を一瞥しようとすると電車が急停車した。結構な慣性で柄になく崩れたが、わたしの隣には誰もいないので諍いは避けれた。遅刻間際だったので遅延証明書の獲得には率直に嬉々とした。
中指の隆起から暫くの間クララの下半身に邂逅することはなかった。教室の前で覗いても例の机には住民不在で、念願の不登校を果たしてくれたのかと心踊った。確信を得るため隣席の空いた連れに尋ねたところ、クララは転校したようだ。
出て行ってくれたのは素直に有り難かった。最後まで無視して正解だった。中途半端に声を掛けたりしたらわたしに敗北感が残るだけだった。これで漸く完全に一人になった気分だ。
皆に無視される生活も板に付いてきた頃。帰りの電車はやはりわたしらしさを回復させてくれる。学校はわたしを窮屈な孤独に縛り、電車は自由な孤独を贈る。一号車は相変わらずわたしの居場所。
今日は気が触れて久し振りに途中の駅で降りてみた。抜け出た瞬間春の空気が気持ち良い。足元にある花が他人とは思えない。こんな日和にはプラットホームを飛び出したくなる。風に煽られて点字ブロックが揺らぐ。試しに片脚出しても注意する人はいない。
それ以上することはなくただ下を見る。次の電車を待った。
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