14 拾肆 ~ 出会いと別れ ~
午前三時。左腕に巻いたバイブレーションアラームが設定した時間を告げ、自分は目を覚ます。ヨリを起こさぬようそっと布団を抜け出し、アラームを腕から外して座卓の上へ置くと、広縁から猫の抱き枕を持ち出して、自分の寝ていた場所にそっと突っ込む。この偽装にどの程度の効果があるかはわからない。まあないよりはましな気もするので、形ばかりではあるが一応置いておく。
昼間注文しておいた双眼鏡と、シュノーケリングセットの袋を持って廊下に出ると、その場でウェットスーツへ着替え、頭にゴーグルとシュノーケルを装着し、空いた袋へ双眼鏡を放り込んで社の外へ出た。玄関先で双眼鏡を取り出し、対岸にあるうらへ向けてピントを合わせる。次に手前の祭壇にピントを合わせて、供物がまだ届いていないのを確認してから、桟橋の先端へ行き海へ飛び込んだ。祭壇付近にある岩の向こう側へ回り、昼間見つけておいたいい感じの足場から岩によじ上った。そこから双眼鏡を構えて村の監視に入る。
しがらみ衆は、三時から四時の間にやってくるとヨリは言っていた。腕時計を見ると現在時刻は三時五分。彼らには申し訳ないが、これはどうしても見定めておく必要がある。今回だけは許してほしいと、心の中で謝罪しつつ、再び沖のほうへ双眼鏡を向ける。しばらく海を眺めて、意外とうねりがあるなと思っていたとき、視界に変化があった。
「えっ……いつの間にあんな近くに?」
かなり集中して注視していたにもかかわらず、気づけばかなり近い位置に小舟は近づいてきていた。近いとは言っても、まだ四、五百メートルほどは離れているようで、双眼鏡の
「おいおい。あの舟……少し速すぎやしないか?」
小さな木造と思しき舟は、どういうわけかかなりの速度で桟橋へと近づいてきていた。あまりの速さに慌てて岩をおり、静かに水中に入ってゴーグルを装着すると、シュノーケルをくわえて水面下に隠れる。そうして桟橋からは死角になる位置に陣取り、舟が接舷するのを息を殺してじっと待つ。やがて水面を滑るようにして小舟は桟橋へと到着し、乗っていた三人の男たちが積んで来た供物を祭壇へ上げはじめた。そこで自分は更に深く潜り、船底をくぐって舟の反対側へ回る。程よく距離を確保してから、そっと水面に顔を出し、彼らに見つからないよう慎重に観察を続ける。殆ど音もたてず、一言の会話もない男たちは不気味だ。その一方、厳格な場での規律をしっかり守っているようにも見えたため、これもしきたりの内なのかもしれない。
暗さにも慣れてきたため、目を凝らすと、空の星々が放つ光に照らされて、男たちの顔をはっきりと見ることができた。だがしかし。その顔を見て自分は絶句した。あろうことか、彼らは全員同じ顔をしていたのだ。注意深く観察すると顔だけでなく、背格好までもがまったく同じで、まるきり三つ子のように同一の存在だった。
やがて最後の供物を祭壇へ積み終わり、桟橋で荷の受け取り役をしていた男が、舟に乗り移ろうとしたときだ。折からのうねりが一際大きく桟橋を揺らした。その煽りをまともに受けることとなった男は、バランスを崩して海へ落ちてしまう。
とはいえ水深は大して深くもなく、大人が立てば顔が水面に出る程度なので心配はないが、次に自分は、さらなる奇妙な光景を目にする事になる。舟上の男たちは、海中に落ちた男を
一方置き去りにされた男はというと、海面から頭を出し、沖へ向かって海中を歩きだす始末である。異常な行動に呆気にとられてしまい、そのまま成り行きを見守っていると、徐々に水深は深くなり、やがて男の頭は海面下へ没したきり見えなくなった。これはまずいと思い、自分は水中に潜って男の行方を捜索するが、驚いたことに男はそのまま海底を歩き続けており、寡黙に沖を目指していた。その後も男は一度も浮上することはなく、奇怪な光景は自分の視界が届かなくなるまで繰り広げられた。
海から上がって真っ直ぐ社へ戻り、廊下の端に寄せておいた衣類を持って、大浴場へ向かう。浴衣などの衣類を適当な篭へ放り込んでから、ウエットスーツ姿のまま浴場へ入り、そのまま湯船へ飛び込んだ。海水ですっかり冷えてしまった体に、熱めの湯は心地よく、動揺していた気持ちも徐々に落ち着いてくる。湯の中でウエットスーツをこすり、砂などを落としてから裏返す形でスーツを脱いで、風呂の外へ放り出す。次いで、頭についてるゴーグルとシュノーケルを湯船の中ですすぎ、ウエットスーツの上に置いた。それからしばらく湯につかり、先ほど海岸で起こった怪事について、何度も記憶を反芻してみる。
「あれは……間違いなく人間じゃない」
普通の人間が、息を止めたまま延々と海底を歩き続けることなど、到底できるはずがない。
フリーダイビング競技で、潜水深度の記録に挑戦しているような人でも、水の中で歩行運動をしながら長時間息を止めるなどという事は、困難なはずだ。なぜなら、筋肉は稼働させる際に、大量の酸素供給を継続的に受ける必要があるからだ。息を止めたまま水中で歩行などをしようものなら、重たい水の抵抗も相まって、肺や血液中の酸素はあっという間に消費され、とても息は続かないだろう。たとえそういった訓練を受けていたとしても、四十分近くもの間無呼吸で水中を歩き続けるのは、間違いなく無理だ。あんなものは人間業ではない。
「だとすれば。人の形をした別の何かだと考えるのが妥当だよな……」
うらに住む村人も、あのしがらみ衆の三人と同じような存在なのだろうか。ヨリの家族も皆あんな風に同じ顔をしていて、呼吸の必要もなく水中活動ができるというのか。
「本当は村なんてないんじゃないのか……。ヨリちゃんも……実は人間じゃ……」
しかし、まだ村人全員に接触したわけではない。
疑いはじめればキリがないことを延々と考えるのは無駄だ。それはスマホを発見したときに納得済みである。やはりこれ以上考えるのは悪手だろう。
程よく体も温まったので、そろそろ部屋に戻ろうと思い、放り出していたウエットスーツを力いっぱい絞って入念に水分を落とす。脱衣場へ行き、今度はシュノーケリングセットの袋に入れておいた双眼鏡を取り出して、付着した海水や砂などを洗面台で丁寧に洗いながした。いくら高耐久な軍用規格準拠品と言えども、汚れなどからくる無用なダメージなどは、極力与えないに越した事はない。道具はきちんと手入れをしてこそ、性能を発揮するものだし。
浴衣に着替え、急いで髪を乾かして部屋へ戻ってみれば、腕時計は四時十分を指していた。注文品が届いたときのように、クローゼットスペースを開いてそっと荷物を置き、寝ているヨリを起こさないようゆっくりと襖を開く。すると、ナツメ球の頼りない光が照らしだす薄暗がりの中にたたずむ人影が見え、ギョッとなる。
「ヒェッ!」
「……神様。このようなものまで御用意なさって。一体どちらへ行っていらしたのですか?」
胴長猫の抱き枕をぎゅうと抱きしめて、顔を半分ほど覗かせている彼女は、恨めしそうな口調で問いかけてくる。
「あ、あははぁ……えーと……ト、トイレ?」
まさかの事態に動揺を隠せない自分は、適当な言い訳を疑問形で答える。
「半……いえ、一時間近くも、で御座いますか?」
静かな口調ではあるものの、言葉の端々からは怒気のような物を感じる……。ヨリは怒っている。いやむしろ、俺が布団を抜け出してすぐくらいには、ヨリも起きていたという事か。うそ、まじで?
「どうしたのかなヨリちゃん? 何だかすごく怒っているような……?」
あまり刺激をしないように、極力無難な声掛けを行う無様な神様おじさんである。
「いえ。別に怒っているわけでは御座いません。私はただ、神様にお尋ねしているだけで御座います。よもや神様は、私が怒るようなことをなさっておいでなのですか?」
「いえ……滅相も御座いません……ハイ」
鼻から下は枕の陰になっているし、部屋も薄暗いため、ヨリの表情は良く読めないが、状況的には誰がどう見ても、確実に怒っていると見ていいだろう。しかしながら、今しがた自分が見てきた事の顛末を、正直にヨリに伝える事など到底できはしない。ならばここは、恐らく彼女の疑念の元と思われる行動に出ていたと認める事で、やり過ごすしかないだろう。ええいままよ……。
「ゲ……ゲームコーナーに行っておりました」
ああ。これでまたあの場所が遠くなっちゃうんだろうなぁ。
「はあ。やはりそうで御座いましたか……。神様。私があれ程いけないと申し上げたにも拘らず、またあのような場所へ赴かれたのですか!」
なんでゲームコーナーの事となるとこんなに怒るのかなヨリちゃん。
まるで親の仇のようにゲームを憎んでいるかの如く、お説教をはじめるヨリの姿を見て、自分は中学時代、学校帰りにゲーセンへ寄って、教師に発見されたときのことを思い出していた。あるときは、今帰れば担任には言わないでおいてやるから、などという甘言にまんまと乗せられて、翌日登校してみれば、しっかり担任にも怒られ……。大人の汚いやり口に反感を持ち、その場で口論となったこともある。しかし、生活指導の教師に騙されたことを伝えると、担任はそのことについてはきちんと対応をしてくれた。またある時は、調子よくスコアを伸ばしているタイミングで先述のブラック教師に見つかり、注意を受けるものの、「今いいとこなんで勘弁してください」、などとうっかり口を滑らせ、「お前舐めてんのか!」と首根っこを掴まれて、ゲーセンの外へ引きずり出された事もあった。まったくあの野郎め。
本当は途中で寄り道などせず、一度帰宅してから行けばいいのだけれど。自宅の方角や学校との距離的な関係上、なかなかそれが難しかったのも事実。改めで思いだすと、学生時代のゲーセンの思い出ってろくなものがないな……。高専時代も、どこぞのヤンキーに絡まれたりしたし。
「神様っ!」
自分が上の空な様子を察したのかヨリが声を張り上げる。
「はい!」
うわーんおかーちゃーん。ヨリがこわいよー。
「私の話をちゃんと聞いておいでですか?」
「はい。それはもう。一言一句漏らすことなく……。はい」
夜も明けきらない早朝に、歳の差がふたまわり以上もある女の子から、いいおっさんが説教を受けているという度し難い状況は、この後二時間以上続いた。だが、このままでは絶対良くないので、どうにかしてヨリのゲームに対するイメージを、改めてもらう必要がある。これは、可及的速やかに執り行うべきだろう。やらなければならない事がまた無駄に増えていっている気もするが、こればかりは疎かにするべきではない。と思う。
実際の優先順位的に見ると、どうでもいい事なのは言うまでもないけれど。
思ったよりも長時間に及んだお説教の末、再び寝るに寝れない時間となってしまった。それなら今日はこのまま起きようという事で、ヨリとふたり洗面台の前に並んで歯を磨く。彼女も慣れた調子で歯ブラシを使い、器用に歯を磨いていた。この子は、教えれば不思議と何でもすぐに覚えて、そつなく
「……忘れていることを思い出しているような。なんて」
「なんでしょうか?」
ヨリがハンドタオルで顔を拭きながら返事をする。
「いや独り言です。何でもないですよん。それよりもご飯ご飯」
朝食を食べているときに“IMAKUL”を起動し、ヨリの新たな自転車を注文しておいたので、きっと今頃部屋の外には自転車が置かれていることだろう。そこでヨリへ、体格にあった新しい自転車が部屋の外にあることを伝え、残った十六インチ自転車の処遇について考える。
社内は広いので、邪魔になるわけでもないのだが、何らかの処理法を考えねばなるまい。しかし。あれだけ訝しんでおいて、すっかり“IMAKUL”の世話になっている自分ときたら。斯くも人間とは現金なものか。だが、これに頼りきりになるのは、やはり危険な気もする。今後は何でもかんでもという使い方は避け、使用には注意を払っていこうと思う。
◆ ◆ ◆ ◆
ヨリの新しい自転車を試すために出てきたはずなのだが、なぜか社の玄関先には、二ストローク八十CCのエンジンを搭載した、青いオフロードバイクが置かれており、調子に乗ってふたり分の保護具一式もそろえてある。もちろん、ヨリも自転車を乗り回して楽しそうにしているが、その間おじさんは暇を持て余してしまう。そこで“IMAKUL”の登場となるわけだけど……。
舌の根も乾かぬうちに、またこういう物をぽこぽこ注文しているダメな神様が、Tシャツとハーフカーゴパンツに着替え、うきうき気分でヘルメットをかぶり、肘膝にプロテクターを付けてブーツを履き、グローブをはめ、ほぼ完全装備でバイクに跨っていた。これは、雀百まで踊り忘れずというやつだが、本当に駄目なおっさんだ。
「ヨリちゃん、ちょっと一周だけ島の周り走ってくるね~。すぐ戻ってくるよ~むひょ~」
言うが早いか、思い切りキックレバーを蹴り込んでエンジンをスタートさせたおっさんは、一気にスロットルを開き、マフラーから響く二ストロークエンジンの乾いた音にしばし酔いしれる。続いてギアを入れてクラッチを離すと、ブロックパターンの後輪が派手に砂を蹴飛ばして、青い車体は颯爽と走り出した。OH YES!!
島の全容が気になって、調査のためにとオフロードを注文したのだが。その実自分が遊びたいだけだった。
外周には岩壁などもあるだろうし、すんなり一周はできないかとも思っていた。しかし実際はそんなことはなく、全周に渡って砂浜が囲っていたため、二十分弱程で簡単に島を一周でききてしまった。走行距離を見ると、約九千二百メートルとなっていたので、これが真円であれば直径約三キロメートル程の島になるだろう。さき島の大まかな形は、走った感覚ではあるが、二つの異なるカーブを持つ卵のような楕円をしているようだ。
社前に戻ってエンジンを切ると、自転車を片付けたヨリが、何か言いながら駆け寄ってくる。彼女は抗議をしている様子だっため、昨夜から怒ってばっかりだな、などと間の抜けたことを考えてしまう。全部自分のせいなのに。
「神様! 突然おかしな格好で外へ出て来られたかと思えばそのような乗り物であっという間に行って仕舞われて! 心配いたしましたよ!」
自分はまた心配をかけてしまったようだ。それにしてもこれは、自分が心配をかけすぎているのか、ヨリが心配性なだけなのか。果たしてどちらなのだろう。
「ごめんねヨリちゃん。あ、ちょいとここで待ってて」
ヨリの抗議を制するように言って社の中へ走って戻り、ヨリのために用意しておいた保護具を取ってくる。
「はい、ヨリちゃんこれ被って、はいこれ付けて、これ履いて、これはめて。はいかわいい!」
彼女があわあわしているうちに、自分と同様の装備を矢継ぎ早にヨリにも着けさせてもらう。ヨリくらいの体格では、子供用ヘルメットでもだいぶ大きく見えるため、そのアンバランスな見た目がまた非常に愛らしい。
各保護具の装着状態を再度確認し、ヨリを持ち上げて先に後ろへ跨らせ、彼女の前に自分が乗る。本当はヨリを前に乗せようかとも思ったのだが、チャンバーの位置が前方寄りの外側へと意外に張り出していたので、足にやけどを負わないよう後部へ乗せることにしたのだ。
「やっぱり4ストにしときゃ良かったかなぁ」
一人でぶつくさ言っているとヨリが声を掛けてくる。
「神様、一体どうなさるおつもりですか?」
「そうだね。とりあえずヨリちゃんはしっかり俺に掴まってて欲しいかな」
再度踵でキックレバーを起こし、力任せに蹴り下げてエンジンをかける。やや開き気味のスロットルでそっとクラッチを繋ぎ、ゆっくりバイクを進めた。さしたる速度は出していないが、後部のヨリはキャーキャーと声を上げ、自分の腰に必死にしがみついてくる。急な操作はしていないから、ヨリが落っこちるようなことはないだろう。
「取り回し優先で八十CCにしたけど、砂地をふたり乗りじゃますますトルク不足を感じるなぁ。むしろ、ジュニア競技ベース車にふたり乗りする方が間違いなんだろうけど」
ヘルメットの中に独り言を吐き出し、時速二十から三十キロメートル程度の速度で、ゆっくり海岸線を走る。すると、バイクに慣れはじめたためか、あまり声を上げなくなったヨリが、シャツをぐいぐいと引っ張って何かを主張しはじめる。何事かとバイクを止めて後ろを向くと、彼女は思い切り涙目になっていた。これはやばい。
「え? ちょ、ヨリちゃんごめん! もしかして怖かった?」
「はい……。すごく」
このところ、ヨリ的には刺激的なイベントも少なかったので、すっかり忘れてしまっていたが、臆病な所は相変わらずのようだった。
適当な石の上にサイドスタンドを立て、ヨリをバイクから降ろしてヘルメットを脱がせると、ひどい目にあったと言った様子で、その場にへたり込んでしまう。計距離を見ると丁度道半ばという程度で、あと四キロメートルちょい走らなければ、社にたどり着くことはできない。ヨリの状態次第では、このままバイクを押して帰宅する事もあり得るが、その時はその時。この子をシートに乗せて、ひーこら押して行きますよ。無理に連れ出したのは自分だしね。
「神様……。何かをなさるときは、私にもお声掛けください。そうして頂ければ、私は必ずご一緒致しますから」
懇願するような目でヨリは言ったが、その真意はよくわからない。
「ああ……。うん。ほんとにごめんね……。ヨリちゃんのそんな顔は久々に見た気がするよ。でも、ヨリちゃんこれに乗るのは怖いでしょ? 勝手に乗せて来ておいてなんだけど、ヨリちゃんが怖いなら、もう無理強いはしたくないんだよね」
「いいえ……。私は、神様に
全幅の信頼なのか、あるいは依存と言うべきか。彼女のこの辺りの心理はなかなか理解が難しい。
「それは、俺が頼んだら、ヨリちゃんは我慢できるってことなのかな?」
いまいち要領を得ないため、ここはきちんと聞いておかなければと思い、彼女の真意を確かめる。
「いいえ。我慢ではなく、覚悟で御座います……」
覚悟と言ったヨリの表情からは、無理をしているという様子はなく、なにか強い使命感のようなものを感じた。これにも例のしきたりとやらが絡んでいるのだろうか……。
「そっか。わかったよヨリちゃん。今度からは前もってきちんと話をするね」
「はい」
半べそながらも、明るさを取り戻したヨリの様子に気をよくした自分は、畳みかけるように一つ大事なお願いしてみる。
「じゃあヨリちゃん。早速なんだけど、社に戻ったらさ、俺ゲームコーナーに入りたいんだよね」
「駄目で御座います」
ハイ駄目でした。駄目でしたが、なぜかヨリはにこやかな笑顔を向けていた。残念。
それからしばらく浜辺に座って話をしたら、彼女も落ち着きを取り戻した。そこで改めて、バイクに乗ってくれるようお願いすると、ためらいなく自分から座席の後部に跨ってくれた。しかし自分は、内心気が気ではない。
帰り道は、さらに慎重を期して加速をはじめ、穏やかにバイクを走らせて社へ向かう。ヨリを怖がらせないように丁寧な運転を続けると、十五分くらいでで社前に到着した。スタンドをかけると、ヨリはバイクの後部からぴょんと飛び降りる。なぜか元気な彼女の様子が気になって、小さなヘルメットのフェイスシールドを覗くと、奥の方で愛らしい笑顔が輝いていた。
「慣れれば楽しい物で御座いますね♪」
ヘルメットを脱がせてあげると、ヨリは嬉しそうにそんなことを言った。やっぱりヨリは順応性が高い子だ。
「なら、今度はヨリちゃんが運転してみるのもいいかもしれないね。また機会ができたときに教えてあげるからさ」
「そうで御座いますね。神様にご指導して頂けるのであれば、直ぐにでも上達してご覧に入れます!」
「いいね~、頼もしいよ」
ヨリの形のいい頭を撫でて、談笑しながらふたり仲良くひよこの間に戻る。
◆ ◆ ◆ ◆
部屋に入ると、時間的に丁度お昼時だったため、座卓の上には膳が配置されていた。今日は海鮮丼が置かれており、副菜として大小様々な鉢も添えられている。よく見ると、自分の席に用意されている丼はやや大きめであるため、また食べ過ぎになってしまうかもしれない。
「たべる~、わらう~」
自分は小鉢にわさび醤油を作りながら、ずいぶんと前に見たアニメの挿入歌を何となく口ずさむ。
「それはお歌で御座いますか?」
「うん。本当はふたりで掛け合いになるところなんだけどね」
可愛い娘子と談笑しながら、昼食を一通り平らげた後。デザートのプリンを食べて目が星になっているヨリへ、手を付けていない自分のプリンを渡して、食後のお茶をゆっくりと味わう。思いがけずふたつ目のプリンを得た彼女は、益々目を輝かせて幸せに満ちた表情になっていた。いつ見ても、何度見ても、子供が喜ぶ顔というのはいいものだ。
「このプリンというお菓子は、心が豊かになるような美味しさで御座いますね♪」
「ほんとだよね。なんでプリンてそんなに美味いんだろう」
確かに。プリンは食べるだけでしあわせになる魔性の、いや、魔法のお菓子である。だが、ヨリが嬉しそうにプリンを味わう様子を見るだけで、自分も幸せになれるのだから不思議だ。
「本当にふたつも頂いてしまってよろしいのでしょうか?」
自分が渡したプリンを食べながら、罪悪感にさいなまれたような顔で、ヨリがそんなことを言う。
「俺はヨリちゃんがプリンを食べて幸せそうな顔をしているのを見るのが好きなんだよね。だからそんな顔しないで、もっと嬉しそうにしなきゃ。主に神様のために!」
そう言うと、ヨリはいつもの嬉しそうな笑顔になる。あ~本当にかわいい。
自分はゆっくりお茶を飲み、ヨリはたっぷりと時間をかけてプリンを味わう。気づけば時間は十四時近くとなっていた。
最近この時間になると、ヨリはよくテレビで午後映画を見ている。本日の放映内容は、ベトナムで囚われている米兵の捕虜を救出するというストーリーで、ひげ面の主人公が片っ端から敵をなぎ倒して行くという、破天荒な作品だった。それは特に視聴年齢制限もない地上波で放送されているのだが、こんな映画をヨリに見せてもいいものかは、正直疑問である。今後の彼女の成長に悪影響を与えなければいいのだが……。
そんなオヤジアクションの決定版的映画を横目に、昨夜紐を伸ばした首飾りを掛け、自分は決心する。
対岸の村うらへ行ってみよう。今朝の出来事を反芻して出した答えはそれだった。それは、分からないなら確かめに行けばいいという、単純明快な答えからの決意だ。そして、うらの探索にはヨリにも同行してもらおうと思っている。計画の実行にあたって問題になると思われるのは、ヨリの言っていたしきたりの中での二点だが、これはすでに問題にはならないはずだ。
ひとつは、供物が島から離れるのを禁じるというもの。
もうひとつは、供物が村への上陸を禁じるというものだ。
ひとつ目は、自分がヨリに指示をし、一緒に行動することで解消すると思われる。これは、全裸での添い寝を禁止できたことで、神の指示がしきたりよりも上回ると言えるためだ。
二つ目は、単純に上陸しなければいいだけの話だ。今回は、あくまでも確認ができればいいだけなので、上陸の必要もないと踏んでいる。今朝方あれだけの怪ことを目撃しているので、もう村人がいようといまいと、結果にそう違いはないだろうし。またいるならば、そのときはそのときでまた考えよう。
対岸へ渡るには海を越える必要がため、足が必須となる。この島に舟などはないようで、午前中に外周を一周してみた時も確認したが、陸が続いていたりするような場所はなかった。となると手段はひとつしかなく……。自分は“IMAKUL”を起動して救命胴衣二着と水上バイクを注文する。
早速部屋の扉がノックされ、荷物が届いたことを知らせてきたので、見に行くと段ボール箱のみが置かれ、中には救命胴衣が二着入っていた。その足で玄関へ向かい、ボロい引き戸を開けて桟橋を見れば、予想通り。首尾よく水上バイクが係留されていた。どうやら、荷物はちゃんと相応しい場所へ、届けられる仕組みになっているようだ。目的の物も確認できたため、部屋に引き返しヨリに声を掛ける。それにしても、このアプリの利便性はいやに高くて不安になる。痒いところに手が届くのは助かるのだが、かえって届き過ぎている嫌いがあるようにも思う。本当にこのままこれに頼り続けていていいのだろうか。何かと不安は募るが、ほかに手段もないので、今は信じるしかないだろう。
「ヨリちゃん、ヨリちゃんは俺が行くところには必ず付いて来てくれるんだよね?」
「はい! もちろんで御座います!」
テレビを見ていたヨリは、またシュババっとそばまでやって来きて、きちんと正座をしてから答えた。ヨリの目には、元気な返事に勝るとも劣らない光が宿っている。そんな彼女の目を見て、じんわりと胸が温かくなった自分は、小さな体をそっと抱き寄せる。
「えひゃ!?」
またもや、突如としておっさんに抱き着かれ、動揺するヨリの体は脱力気味だ。
「ヨリちゃん、俺はうらへ行ってみようと思う」
「へ?」
抱き寄せたヨリの背中から、腕に伝わる動悸は早い。しかしうらへ行くと言った途端身を固くして、鼓動はより高まる。この子がしきたりに対していだく感情は、やはり複雑なようだ。
「今……何と
ヨリはかなり動揺している様子で、自分の言葉を聞き返す。
「俺はね、ヨリちゃんの故郷の村、うらへ行ってみたいんだ」
再びそう伝えると、ヨリの体はは小刻みに震えだし、さらに鼓動は早鐘のように加速する。
今迄に感じたことのない変化があったことで、自分は不安になるが、重要な事なのでここで止めるわけにはいかない。
「まだ詳しくは言えないんだけど、俺はどうしても確かめなくちゃならない事に気付ちゃったんだよね」
無言になったヨリは小さく震えている。小さな背中をやさしくなでながら、自分は話を続ける。
「行くと言っても村へ入るわけじゃなくてね。ただヨリちゃんの生まれ故郷を近くでみてみたくなったんだ。それからしきたりのことだけど、島を出てはいけないって事については、俺の言いつけで出ていくことにして、常に行動を一緒にすれば平気だと……ヨリちゃん?」
そこで、明らかにヨリの様子がおかしい事に気づく。抱いていた彼女の体を離して顔を見ると、目は虚ろなまま焦点が合わず口は半開きの状態だ。さらに呼吸は過呼吸のように、荒く短い物に変わっていた。
「なっ、ヨリちゃんどうした? ヨリちゃん!?」
声を掛けて体を揺するが、いつものような反応がない。ただならぬ様子に自分は激しく動揺した。
「ヨリちゃん? ヨリちゃん!」
頬を軽くはたいたり、背中を叩いたりして刺激を与えてみたが、彼女からの反応はまったくなかった。
「これって、本気でまずいんじゃないか……。どうしよう……どうしたら」
打つ手なく、ただ動揺するばかりの情けない自分の前で、ふとヨリは意識を失い、腕の中へ倒れ込んでくる。ヨリを抱いたまま、押し入れから布団を引っ張り出し、慎重に彼女を寝かせて、とりあえず体温や脈を診る。彼女の心拍はかなり早く、相変わらず呼吸も荒い。幸い熱はないようだが、顔や体は汗ばんでいた。
「ああどうしよう、こういう時はなんだ、えーとどうするんだっけ」
意識を失った者を無理やり覚醒させるのは良くないと、昔何かで読んだ気がする。しかしそれ以上自分には対処法が思いつかなかった。
「とにかく今は対症療法しかないか……」
心を落ち着かせてバスルームへ行き、固く絞ったハンドタオルを持って来て、ヨリの額の汗をぬぐう。この程度の対処で容体が変わるとは思えないが、自分にできるのはこの程度が関の山だ。
「ヨリちゃんごめん、少し帯緩めるよ」
意識のない彼女へ声を掛けながら、腰帯の結び目を緩め、かるく着物をずらして楽な状態に保つ。ずっと荒い息をしているヨリの手を握り、額や頬に手を当てて様子を見ていたとき、荒い息がふっと落ち着きヨリが薄目を開けた。どうやら無事目を覚ましたようなので、ひとまず胸をなでおろす。
「ああよかった! ヨリちゃん大丈夫かい?」
額の汗をタオルで拭い声を掛ける。彼女は虚ろな視線を向けはするものの、反応は薄いままだ。そんなヨリがやが腕を伸ばし、力のない指で引っ掻くように自分の胸元をまさぐりはじめた。
「なんだい? 何か言いたいことがあるの?」
依然として言葉に対する反応はないが、虚ろな目を自分へ向け、もぞもぞと手を動かし続けている。そこで自分は首飾りのことを思いだす。
「あ! これかいヨリちゃん?」
彼女の首飾りを慌てて襟元から取り出し、空を掻く手に触れさせる。すると首飾りに触れたヨリは、緑の石を強く握って自分の方へ引き寄せ、口に含んだ。
彼女の唐突な行動は止める間もなく、瞬間、自分は取り返しのつかないことをしてしまった事に気づいた。
自分の立てた無謀な計画のせいで、ヨリは供物の証の毒による自害の道を選んでしまったのだ。
「ヨリっ!!」
今からでも間に合うかもしれないと思い、咄嗟に結晶体へ手をかけ、取り上げようとする。しかしそうするまでもなく、力なく垂れ下がったヨリの腕の重みでそれは口から離れた。
それきり、彼女は動かなくなってしまった。
安らかに眠るような少女の顔を見た自分は、息が詰まって胸が苦しくなり、目の前が真っ暗になる。
誰かの叫び声が聞こえた気がして意識を向けると、それは驚くほどの大声を上げて取り乱す自分の声だった。自分は、彼女の体を力いっぱい抱き締めたまま泣き叫んでいた。
己の浅はかさに怒りがこみあげ、しでかした事の重大さに対する悔恨の念と、罪悪感で押しつぶされてしまいそうだった。神の命令は絶対なものなのだと、勝手に自己完結し、一人で暴走した結果がこれだ。ヨリにとっては神の命令などよりも、しきたりの方が遥かに重要なものだったのだ。
「ごめんよ! ごめんよヨリ! ごめんよ!!」
いくら泣きわめき謝罪の言葉を口にしたところで、彼女は戻ってこないだろう。
あの愛らしい笑顔も。自分を呼ぶ鈴の音のような心地のいい声色も。暖かな温もりも。何もかも失われてしまったのだ。
握りしめた彼女の掌からは、徐々に温もりも消えて行き、命の火が消えてしまったということを嫌というほど認識させられる。
延々と自分は泣き続けたが、やがて暗闇へ落ちてゆくように、あらゆる感覚が遠のいていった。
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