2 弐 ~ おいでませ ! 神様御一行 二名様ご案内 ~

 先ほどまでずっと楽しそうに話をしていたヨリは、突然静かになってしまった。だが、それも束の間だった。彼女は何事かを思い出したらしく、いきなり大きな声をあげて立ち上がった。


「あーっ! いけない!」


 ここに至るまで、この子がこんなに大きな声を出せるとは微塵にも思っていなかったので、ギャップに驚きぽかんとしてしまう。


 勢いよく立ち上がったヨリだが、ふと我に返ったようにまた正座に戻り、三つ指ついて頭を下げる。なにやら忙しい。頭を下げたきり彼女は無言なので、どうしたものか困惑していると、ようやく口を開く。


「大変申し訳御座いません神様! すぐにお社の方へご案内いたしますので!」


 自分の知っている弱々しいヨリはどこへ行ってしまったのか……。彼女はまるで人が変わったように芯が通り、実にしっかりとした態度へ変貌していた。


「へ? あっはい」


 あまりの変容に、自分は間の抜けた返事を返すしかないい。


 ヨリは自分へついてくるよう促すと、傍らに置いていた肩掛けの手荷物を持って高台を降りはじめる。彼女と出会ってから交わした会話は、時間としてはそれほど長いわけでもなく、感覚的にせいぜい小一時間程度の事だろう。神様問答のときにも感じたことだが、今も自分は奇妙な違和感に包まれており、ころころ変わる彼女の態度には不自然さを感じざるを得ない。

 さほど広くもなく、危うい足場を跳ねるようにして下って行くヨリを追うのは、おじさんの身だと結構しんどい。彼女は案外怖いもの知らずなようで、躊躇いなく足を進める姿は年相応の元気な子供にしか見えなかった。彼女の態度には疑念が残るが、追及するタイミングは今ではないと決めたばかりである。まあ、実際大した問題ではないだろうし、悩むだけ無駄な気もする。それに、どうせこれはなのだから、深く考えなくともいいだろう。

 高台の頂上から続く足場は、九十九つづら折りの階段状になっていて、下を覗いた限りでは結構な高さに感じていた。しかし、ふもとである海岸から見上げてみると、実際には三階建てビル程に見え、あまり高くは感じない。どうやらこの高台は一つの巨岩でできているらしい。


「下からだと上から見るより低く見えるなぁ」


 そんなことを言いながら周囲を見回していると、向こうの方で自分を呼ぶ声がする。声の方向にヨリの姿を認めて、海と平行に海岸を歩いて行くと、左手の岩肌は徐々に雑木林へと変わっていった。二百メートルほどは歩いただろうか。やがて海岸線は緩やかに左へカーブしはじめ、さらに道なりに歩いてゆくと、磯場のある開けた入江のような場所についた。見れば、砂浜とやや沖に突き出た岩との間には、桟橋がしつらえてあり、先端部にはなにやら祭壇めいた物がもうけられているようだ。

 その祭壇の向こう。さらに沖の方へと目をやると、目測で大体八百メートルから一キロメートル程度先に対岸があり、そこにも複数の桟橋と、数隻の小舟が係留されているのが見えた。遠目に見える対岸には集落があり、木造の建物ばかりが並ぶその様子は、まるで時代劇に出てくるような小さな漁村だった。


「あの村が私の生まれたうらです」


 ほーっと対岸を眺めていると、横合いからヨリに声をかけられる。いつのまにか隣に立っていた彼女は、どこか寂しそうな表情で村を眺めていた。恐らく彼女もとっとと家に帰りたいのだろう。そりゃあそうだ。こんなおっさんとなんて、一秒たりとも一緒にいたくないに決まっている。などと勝手な想像をしてちょっぴり悲しくなったが、この時は彼女の心境をそのくらいにしか考えていなかった。


「すぐそこにお社が御座いますので、早くいらしてください」


 ヨリはそう言って自分の手を取り、ぐいぐい引っ張ってゆく。


 なんだかヨリの行動が大胆になってきている気がする。仮にこれが現実であれば、おっさんによる少女接触罪で即逮捕からの審議拒否。豚箱直行便で間違いないだろう。くわばらくわばら。


「こちらが本日より、神様と暮らすお社で御座いますっ!」


 胸を張ってそう言った彼女は、ちょっとドヤっている気がした。


 女の子の細腕にぐいぐいと引っ張られ、たどり着いた先にそれはあった。そこは、岩壁にできた岩窟を利用して家屋をはめ込んだような、立派な岩屋だった。いや嘘だ。全くこれっぽっちも立派などではない。見るからにボロいほったて小屋であり、誰がどう見ても、どこをどうひっくり返しても、あばら家にしか見えなかった。

 薄汚れて朽ちかけ、今にもはがれて落ちてしまいそうなみすぼらしい鎧壁よろいかべ。表層の漆喰がはがれて内部の竹小舞(たけこまい)が露出した土壁と、間口が狭く建付けの悪そうな引き戸の玄関。その引き戸にはひびの入った摺りガラスがはめられ、その横には塗装が剥げてサビだらけになった郵便ポストが付いている。そんな、とても見すぼらしい昭和初期の古民家のような建物を見て、自分は苦笑してしまう。朽ちかけた見た目も酷いが、それに劣らず時代考証的にも明らかにおかしい。とは言え所詮は夢だ。気にするだけ無駄だろう。そう思いつつ、風が吹いただけで崩れそうなぼろぼろの土壁にそっと触れてみる。しかし、そこには見た目にそぐわぬ異様な感触があったため、すぐ手を引っ込めた。

 朽ちかけている土壁に触れた指を見ると、そこには何も付着していない。ここまでボロボロなのだから、土くれの一粒くらい付着してもいいはずだ。まさかと思いもう一度、今度は崩すつもりで力を籠めて表面を擦るように触れてみるが、ぼろい土壁は全く損傷を受けない。それどころか、逆に指の皮へ擦り傷が付く程強固だった。こんな奇妙なものを見せられると、職業柄の悪い癖がムクムクと湧き上がってくる。どこまでの強度があるのかという強い興味をひかれた自分は、肩のポケットからスケールを取り出し、かけ穴のある方で壁を軽くひっかいてみた。すると案の定土壁は無傷で、逆にステンレス鋼製のスケールの方が負けて削れていた。少なく見積もっても、この土壁は砥石程度の硬度はありそうだ。

 さらに詳しく材質を探ろうと、手のひらを壁面に当てみる。だがそこにはざらざらした感覚があるだけで、温度差などが一切感じられない異様な感触がする。それはまるで、感触のある空気に触れているような感じで薄気味が悪い。比較のために触れた他の部分もまた同様で、ポストや鎧壁よろいかべ、そして摺りガラスと、全て質感と感触は一致しても温度が感じられないのだ。またかなりの力を込めても、変形したりする様子もなく、本格的に気味が悪くなった自分はしばし呆然としてしまう。

 ふと見た隣では、不思議なもので見るように、ヨリが自分の行動を眺めていた。


「あの、中へはいりましょう?」


 玄関先で奇行に走り、一向に中へ入る様子がない自分に業を煮やしたのだろう。彼女は遠慮がちな声を掛けてくる。


 見た目通りに立て付けが悪い引き戸を、ヨリはえっちらおっちら開けて行く。そうしてようやく踏み込んだ建物の内部は、薄汚い外観とはまるで異なっており、そこには旅館のような作りをした広大な玄関が広がっていた。外観とのあまりの格差に困惑して後ろを振り返ると、やはりそこにはみすぼらしいすりガラスの引き戸がある。混乱しつつとりあえずそれを閉めるが、頼りなさげな見た目とは裏腹に、引き戸はやけに重かった。それは、建付けのせいで重たくなっているのではなかった。扉自体が質量の大きい物質でできている感じで、力を込めてから動きだすまでにタイムラグがあるほどだ。一度動けばなめらかに滑る扉だが、うっかり指でも挟まれようものなら、容易よういに切り飛ばされそうな印象を受ける。さらに戸を閉め切ると、外の音が一切聞こえなくなるところも不気味だ。本当に気味が悪いこの扉をもう少し調べたいという気持ちもあったが、あまりここでもたもたしているとまたヨリに面倒をかけてしまうので、探究は一旦切り上げ奥へ足を進めた。

 改めて見回せば、自分の立っている場所は広大な玄関の隅っこだった。足元には、鏡のように磨き上げられた御影石様の床があり、すぐ左横にはそれを囲う上がりかまちの一辺がある。屈んでよく見てみると、それは相当な樹齢を重ねた巨木から切り出されたような、分厚い一枚物の板であり、表面は黒漆くろうるしで仕上げたかのようにピカピカに輝いている。傷や曇り一つない表面は、高級な懐石料理に使われる漆器めいた、深みのある輝きと透明感がある。そこでふと引き戸の感触を思い出し、足元の石貼りやかまちにも触れてみるが、こちらは普通に木と石の感触で、相応にひんやりとした温度を感じられた。

 目の前の壁は、大小さまざまな扉と鍵が付いた無数の下駄箱が埋め尽くしている。しかしそのどれもが鍵を残しているため、誰にも使われていないことがわかる。反対側を見ると、同様にかまちが走っていて、それと並行になっている無人の受付カウンターもある。壁や天井に据えられている照明が煌々と室内を照らし、玄関先も塵一つないほど綺麗に掃除が行き届いている。ここの内装は、どこをとっても大層豪奢な作りだが、自分たちの立てる音以外はまったくの無音だ。それでいて、今しがたまで従業員が働いていたような、なにか人の気配のようなものは感じる。今にも従業員がひょっこりと現れて、自分たちを出迎えてくれてもおかしくはない。そう思わせる程度には、人間の営みを感じることができる。


「なんか扉よりもこの雰囲気の方が気味が悪いな。どうして誰もいないんだ……」


 見えるものすべてに気を配り、どんな小さな音にも耳をそばだてる。そのくらい今の自分は警戒している。何か起こればすぐにでもヨリを連れて逃げ出そう。そう思っていたのだが、気づけば今しがたまで隣にいたはずの彼女の姿がなく、自分の緊張は高まる。


「神様ぁ~、こちらで履物を脱いでおあがりくださいませ~」


 不意に声を掛けられて目を向ける。すると、いつの間にか広大な玄関の奥にいたヨリが、こちらに向けて手を振っている。しかも、彼女はすでに履物と脚絆きゃくはんを脱いで上がり込んでいた。

 自分のいる位置から、ヨリのところまでは数十メートルはありそうで、ただでさえ小柄な彼女が一層小さく見える。ヨリの立っている場所と、その先の床は、総畳敷きになっていた。彼女の背後には、さらに奥へと通路が続いているようだが、そちらは見通すことができない。というのは、目隠しとなるよう巨大な衝立が二枚そびえ立っていたからだ。高さは五メートル程あるだろうか。巨木を輪切りにしてできた衝立が作るわずかな隙間からはでは、ほとんど奥の様子がみえないので、しっかりと役目を果たしている。


「いや~ごめんごめん。よそ見しててまたおじさん迷子になったかと思ったよ。めんぼくない」

「いえそんな! 私こそ至らずに申し訳御座いません! 何卒お許しください!」

「いんや、ほうけていた自分が悪いんだから、そんなに気にしないで!」


こっちがしょんぼりしちゃうからネ。


 畳敷きの左右はロビーのような構造になっており、座卓と座椅子のセットが十くらい置かれているようだ。見える範囲にあるすべての床は畳で構成され、また恐ろしく広大だ。

恐縮し通しなヨリがいる上がりかまちに近づいて、靴を脱ごうとしたとき、傍らにちいさな立て看板が置かれていることに気づく。

”こちらで はきものをぬいで おあがりください”。まさにお約束といった文言は、恐ろしく達筆な毛筆体で綴られている。


「そっか。ならば、こちらも従わねば不作法というもの……」


 立て看板の文面を見てベタな悪戯を思いつき、自分はおもむろに上着を脱ぎ捨てる。


「ああ神様っ! 履物をっ! どうか履物を~っ!」


 次いでベルトを緩め、いざズボンを脱ごうかという頃合いで、慌てたヨリの制止が入った。


「あれ~? だって着物を脱いでって書いてあるよ?」


 お巡りさんこの人です。早くなんとかしてください。


「えーっ!?」

「“ここでは きものをぬいで おあがりください”ね?」


 いや、「ね?」じゃないが。


 立て看板をヨリへ向け、あえて間違えて音読してみると、彼女は喰い気味に看板を覗きこむ。その勢いが手伝い、若干前かがみになったヨリの胸元から、ペンダントのように紐で吊られた緑色透明の六角柱がこぼれ出た。エメラルドのように美しく透き通ったそれは、細い首元で揺れながら周囲の光を反射し、煌めいている。不思議な装飾品だ。


「ほんとだーっ! 私も脱がなくちゃ~」


 あたふたと慌ただしく、腰の結び目に手をかけて帯を緩めはじめるヨリ。だめだ、この子は純粋過ぎる。


「おうまてぃ! 冗談ですよごめんなさいゆるしてくださいなんでもしますから」


 帯を緩めようとする手を慌てて抑え、彼女の脱衣行為に待ったをかける。いい大人がこんな幼子をたぶらかして、一体何をやっているのだろう。


「えーっ!?」


 あらやだこの子、めちゃくちゃかわいい。


 驚愕から納得し、さらに驚愕へと、ヨリの表情は短時間のうちに目まぐるしく変化した。愛らしい少女のちょこまかした仕草は、見ていて本当に楽しい。好き。


「いやいや。これは“履き物を脱いで”だから、ヨリちゃんは間違ってないよ。嘘をついてごめんなさい」

「あ、いえ……。私めが至らぬばかりに粗相をしてしまったものかと……思って。……私」


 なぜかヨリは青ざめた顔で震えだす。豹変したその様子に自分は息をのむ。


「申し訳ありません神様……申し訳……えうっ……」


 だーっこれはいけない! 泣かせてしまった!


 ちょっとからかうつもりだったのだが、明らかに浅慮な行為だった。なぜ自分などが神としてここまで祀り上げられているのか。その理由はわからないにしても、逆の立場で考えてみれば分かるだろう。

村総出で絶対的に崇拝し、敬うべき相手に対して、ほんの些細な無礼でもあれば、それは大変な不敬行為となる。そして本来ならば、きちんとした大人が事に当たるべきところを、あえて幼い少女に任せるのには、相応の理由があるはずだ。そんな重大な責務を、彼女はまだ未熟な精神と小さな体で背負っているのだから、それに伴う緊張やストレスは尋常ではない。こうした極度のストレスは、大人でさえそう耐えきれるものではないだろう。

 なんてことをしてしまったのだろうと自分は後悔し、同時に怒りもこみ上げてくる。村の事情などは分からないので、あまり勝手なことも言えないが、そもそもこんな子供に辛い責務を負わせる行為が許せない。しかし、その責務を必死に全うしようとしている彼女を、浅はかな行為によって追い詰め、傷つけてしまったことは、それ以上に許せなかった。たとえこれが夢の中の出来事であっても、幼い子供を泣かせるような真似をしていいはずがないのだ。


「あああいやあの……ねぇヨリちゃん。神様ね、ヨリちゃんにお願いがあるんだけど。聞いてくれるかな?」

「へっ……ふっ……ふぁい……」


 着物の裾を握りしめ、棒立ちのまましゃくり上げているヨリに、自分は優しく諭す。


「神様はね、その……理由はわからないけれど、それでもヨリちゃんが一生懸命神様のお世話をしてくれようとしている事は、よーくわかるんだ」

「……あっ」


 小さく声を上げたヨリがはじかれるように顔を上げる。何か大事なことを忘れていた。そう言わんばかり表情には何となく気づきはしたが、そのまま話をつづける。


「だからね、たとえばヨリちゃんが本当に失敗をしたとしても、神様は全然気にしないよ。それは全部ヨリちゃんが、心から神様のことを思ってしてくれている事だって解ってるから」

「はい……私はいつでも……いつまでもずっと神様のことを想ってお世話致します」

「うん、本当にありがとう。それでね、ヨリちゃんが泣いてると、神様も悲しくなって泣いちゃいそうになるんだよね」

「ごめ……申し訳……ありません」

「ああいやいや、大丈夫だから謝らないでほしいな。失敗は悔しいけど誰でもするし、悲しくなるよね。そしてこれからも、生きていく間に何度も失敗はあると思う。でもそこは泣くのをこらえて、次は失敗しないぞ! って自分を勇気づけてあげてほしいんだ」

「はい……」

「それで。今回は神様のいたずらでヨリちゃんを泣かしてしまうという失敗をしたので、ダメダメな神様を叱ってほしいと思ったのです。そうしてくれたら、神様はもうヨリちゃんを泣かせるような事は二度としません。ですので何卒ヨリ様」


 その場で立膝になり、下げた頭をヨリの前へさし出す。さあ打ってくれまいか。


「ええーっ!? ……でも……神様は……神様なので……神様だし……あぁ……」


 彼女がまた慌ててしまった。そーゆーとこだぞ。結局また困らせているじゃないかこのおっさんは。


「あーいや、ええと、あのですねヨリちゃん。たとえおじさんが本物の神様だとしても、女の子を泣かせるような悪いことをしたんだから。やっぱりそれは叱られるべきだと思うよ?」


 自分は取り繕うように、ヨリが怒らなければならない理由とその正当性を説明する。


「いいえ! 神様は間違いなく本物の神様でいらっしゃいます! ですから、私ごときがそのような事……」


 天使かな。


「いやいや、やっぱりけじめは大事だからさ。神様はヨリちゃんに叱られたいよ」

「えー……うー……では……神様が次にいたずらをなさっても、泣かないで神様を許します」


 おい皆見ろよ、天使がいるぞ! ヒャッハー!


「それじゃ意味がわからないよ~っ! うわぁぁぁんヨリえも~ん」

「ええーっ!? ではどうすればいいのでしょうか?」

「う~ん、そうだなぁ。仕方ないから、そういう時は笑えばいいんじゃないかな?」


 つい勢い任せで、どこかで聞いたようなセリフが口をつく。いちいちネタが古いのは許してほしい。だっておじさんなんだもの。


「そんな、急には無理で御座います……」


 はにかむような笑みを浮かべて、ヨリはぐしぐしと涙をぬぐう。


「え~。無理ですか~。神様よわったな~」


 とりあえず落ち着いたようでよかった。しかし、本当になんなのだろう。彼女がここまで神とやらにこだわる理由とは。むしろむかつくぞ神。


「神様。……神様にお話が御座います」


 今後は自分の態度にもなにかと配慮が必要かと考えはじめていたとき。突如神妙な顔つきになったヨリが、静かに口を開く。

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