5 貧民街
紅葉が鍛冶屋トールの裏口から飛び出して5分後。
「ふんふんふ、フーン♪」
メモを取りつつ意気揚々と出てきたアーサーを、紅葉は後ろから羽交い締めにして捕まえた。
「痛てててて……おやおや、どうした怖い顔して。お嬢さんが胸ぐらなんか掴むもんじゃないよ」
しっかり掴んでいないと、コイツは今すぐ逃げ出すかもしれない。これでもだいぶ弱く済ませている方だ。
「アーサーさん……探したんですよ」
「探した? どういうことだ、モイラ室長から場所を聞いたんじゃ無かったのかい」
——え?
意外な言葉に、胸ぐらを掴む腕の握力がさらに弱まった。
「昼前に、室長から『紅葉さんが探してる』って連絡があって、トランシーバーでね。ここに行くって伝えといたはずだけど」
「……ウソ」
まさか、そんな。ものすごい遠回りをしてしまったようだ。
「ハハ、ひょっとして自力で僕を探しあてたのかい⁉︎ 凄いバイタリティーだねえ、ハッハッハ」
軽く一笑するアーサーに、紅葉は徒労でガックリと膝を落とした。
3月9日、夕方4時半。
市場が休みの水曜日の夕方は、人通りが非常に少ない。
立ち話もなんだからと、アーサーの自宅に行くことになった。
「おうちにって……大丈夫なんですか」
「何がだい? 少なくともオレよりキミのが力は強いよ。ボクぁ片手で洗面台なんて壊せない」
「違っ………壊したのは……片手じゃなく、両手です!」
紅葉はムキになって、なんの言い訳にもならない反論をした。
「まあ『メロウムーン』が休みじゃなきゃ、あそこの2階を借りたんだけどね」
市場内をずんずん進むアーサーに、紅葉は必死でついていく。
中央広場のテーブルを通るとき、「知り合いに見られたく無い心理」が、何となく働いてしまったが、マルセルもマドカも幸いすでに居なくなっていた。
市場の奥の、さらに奥へ。南の出口へと抜けていく。
「──待って、あそこが『ボティッチェリ』ですか」
「フフ、さっきの鍛冶屋で聴いてただろ」
市場の南出口からすぐの通りに、レストランが1軒あった。
看板もドアも小さくオシャレで、一見すると普通の家だ。窓辺には鮮やかな花壇、壁には蔦などが生えていて、華やかで可愛いらしい。2階建てだが、オレンジの三角屋根がとても大きく、階数以上に高く見えた。
ここがレストラン『ボティッチェリ』……たまに聞く有名店だが、紅葉は一度も食事をしたことはない。果たして「甲冑像」とはどんな物なのか。手がかりである「戦斧」とは──?
紅葉は威嚇した眼で店を見つめていたが、アーサーは華麗に無視して先を進んだ。
「今はいい。どうせ今日は閉まってる」
「で、でも……」
「こっちにも用事があってね。後にしてくれ」
アーサーは己の狐の尻尾をパサッと揺らし、東区の奥地「貧民街」へと入っていった。
東区、貧民街。
市場やボティッチェリがあった場所までとは違い、ペンキやレンガがあちこち剥がれ、木材はたわみ釘はゆがみ、増設を繰り返してムチャクチャに伸びた建造物が縦にも横にも広がっていた。空気は湿って淀んでおり、あちこちから水や酒、腐った食べ物、煙の臭いが漂っている。
今日は洗濯日の水曜だ。多くの洗濯物たちが、高層の建物の間にロープで吊り下がってる。服や靴や下着からは、ぽたぽたと水がしたたり落ち、気を抜くと頬や腕にかかってしまう。服はみなどこかしら破れていて、年老いた婆ばが木箱に座り、布の切れっぱしを繕っていた。
物でゴチャゴチャした裏路地では、他にもさまざまな人物と行き違う。下着姿で寝ている女に、太鼓を叩く裸足の少年。気ままに時を過ごす人々の中で……歳は10代半ばだろうか、巻鹿族の人形術師の少女が、自宅の窓から腕と人形を突きだし、練習していた。
《ヤァ、ヤァ、ジュディ。ボクの愛しいパイはどこ?》
彼女の指が動くと同時に、人形の口がパクパク動く。帽子を被った、男性の髭面人形だった。人形師は唇ひとつ動かさず、人形だけが魂を持つかの如く振るまっている。アーサーはポケットから1ドミー硬貨を取り出し、親指をピッと弾いて飛ばした。
《パイだ、パイ、ジュディ。ボクの愛しいパイだ! あっはあああッアハハハハッ!》
1ドミーは部屋の中へと飛んでいき、床に落ちてクルクル転がった。人形師はドミー硬貨に目もくれず、ひたすら両指で人形を動かしている。彼女のキャミソールから見える腕と指は、黒痣と青痣と絆創膏だらけだった。
「…………ご自宅はどこですか?」
紅葉は焦って聞いた。ここに長いこと居ると、頭がおかしくなりそうだ。
「もうすぐだよ」
返事代わりに、アーサーの狐の尻尾がグルンと回った。
建物と建物の狭い間をスルリと抜けると、土地が開けた場所に出た。
絵 https://kakuyomu.jp/users/hourinblazecom/news/16816700427071749155
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます