2 消臭呪文《パフューム・フレイル》

「ゲッホ、ゴッホ、ガホ……うえっぷシ!」

 もの凄い異臭が、店の経営に支障をきたすレベルで、キッチンから漂っていた。

 どす黄色と黒色のマーブル模様の、泥のように淀んだスープが、大鍋いっぱいにプチャプチャしてる。

「うーん、失敗したなあ。入れすぎた」

 リュカは大きなイチゴ柄のエプロンをつけて、呑気に腕を組んでいた。さっき市場で見かけた珍しい星の形の乾燥した実が、花束のごとく大量にテーブルの上に置かれている。

「ひと枝ぶん入れてみたんだけど、もしかしたら2、3粒でいいのかも」

 星の実はひと枝につき、ざっと100粒はついている。

 それを見て吐き気と寒気が同時にショーンの体を襲った。


「おいリュカ! レシピとか分量とか、店の人に聞いてないのか……!」

「いやぁなんかさ〜、聞いたんだけど、店員がめちゃくちゃ小声でさー」

 客商売で口を覆うのはないよなあと、リュカはのんびり鍋の中をかき混ぜていた。ムワッと刺激臭が漂う。

「ウゲえッ!」

「味は悪くないんだよ。希釈すればいい匂いになると思う」

 リュカが小皿で泥水を啜って飲んでいる。それを見てショーンはさらに吐き気を催した。

 ……あの星の実は、目玉商品として売られていたから、分量を間違えなければきっと美味しくなるのだろう。

 だが過ぎたるは猶及ばざるが如し。塩でも胡椒でも、大量に入れれば劇薬になりうる。毒性学の父・パラケルススもそう言っている。

「うっぷ──」



【消臭はこれでスッキリ! 《パフューム・フレイル》】



 ショーンはたまらず左手のひらを時計回りにクルリと回し、ブワっと周囲に光が舞いあがった。

 モコモコした桃色の靄が光の中から溢れでて、店内中に行き渡り、臭いがシュルシュルと消えていく。

 元凶のスープ鍋はもちろん、最低半月はキッチンにこびりつきそうな猛臭も、完全に取り払われて…………あたり一面、無の世界になった。

「やるじゃん♪」

 ヒュ〜っと、リュカが口笛を吹いて感心した。キャッチボールが上手くいったかのように軽やかに。

 一方、ショーンは全身をつんざくような疲労に襲われ、がっくりと膝を落とした。



 トール中の建物から匂いが消えた。

 1階のショーケースから鉄の臭いはすっかり消え失せ、キッチン横の飾り棚にある、リュカ母の香水コレクションも、すべて無臭と化していた。

「あれっ、リンゴの香りも消えてるじゃん。今夜食べようと思ってたのに」

「…………明日じゅうには復活する」

「ホントにィ?」

「……うっさい」

 ショーンは膝を落としたまま、キッチンテーブル近くのソファへ倒れ込んだ。全身のマナを一気に5分の1近くも失い、貧血のような症状に襲われた。

「クソッ、こんなんで無駄にマナを使っちまうなんて……」

 左手にほんのちょっと残ったマナを感じながら、苦々しく拳を握った。

「くそおおおっ」


 ──失敗した。

 最初に匂いの源のスープ鍋を消臭し、そこから他の染みつき具合を判断するべきだったのだ。いくら《少ないマナで効果は絶大! マダム・ミッキーの家事呪文》といえど、家具から小物まで建物まるごと消臭し、大量のマナを使ってしまった。

 リュカ母のお手製パッチワークキルトを、リュカにそっと掛けられながら、ショーンは己の勉強不足を痛感し、拳で顔を覆ってギュッと目をつむった。

(とっさに出す呪文の中身が、甘すぎる!)

 呪文を使うときは、いつも【星の魔術大綱】を熟読し、失敗のないよう計算し、慎重に丁寧に唱えてる。人命を相手にするなら、当然そうすべきことなのだが……

 それが今のような咄嗟の判断ミスや、仕事が長びく原因にもなっていた。

 ——ハァ。と、ショーンはため息をついて頭の上で腕を組んだ。

 愚直にアルバに従事して3年目。そろそろ自分の欠点と長所が浮き彫りになってきた。次のステップに進む必要性を、近頃とみに感じている。


 時刻は昼の3時40分。

 キッチンで匂いのないアップルパイを作り始めたリュカに、別れを告げて、ショーンは先約していた場所に向かった。

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