第228話・武田本隊動く。
永禄七年九月 南信濃伊那郡
「武田と上杉が和睦した」
その報は、織田軍の将兵の心胆を寒くするのには十分だった。信濃・川中島で対峙していた両軍が和睦して兵を退いたことにより、精強な武田軍本隊が伊那に来るのは確実になったのだ。
織田信長は直ぐさま全軍を動かして、太平峠・飯田峠を越えて伊那郡・飯田城の北方に進出した。
飯田城攻略部隊・八千に減った柴田・佐久間隊では武田軍本隊を迎え撃てない。それに本隊七千五百を加えた兵数でも守勢にたつしかない。それははっきりとしていたが、撤退は考えられなかった。織田家の発展の為には武田を喰う道しか残されていなかったのだ。
もう一方の信濃への攻め口である妻籠城には五百の兵を派兵した。妻籠城は木曽川沿いの嶮岨な地形だ、木下・明智・佐々の率いる兵を会わせて合計一千三百の兵ならば、木曽勢の侵入を昼夜に渡って充分に防ぐことが出来ると信長はみたのだ。
「何と雄大な・・・」
信長は切羽詰まっている状況にも拘わらず、目前に見える伊那谷の光景に魅了されていた。
左の高嶺から緩やかな丘陵が天竜の流れに向かう。右手はその流れから無数の山々を経て一層高い峰が連なる天空の堺へと登って行くのだ。とにかく広大で雄大な光景だ。尾張では決して見られぬ自然が織り成す絶景であり気宇壮大な心持ちになる景観だ。
「なるほど、信玄公はこのような風景を見て育ったか・・・」
そう考えた信長は、信玄に対して嫉妬感を抱いた。このような雄大な景色を見て育ち、尚且つ強力な兵を持っている信玄公。儂はそんな恵まれた者達には絶対に負けたくは無い、きっとこの伊那谷は儂のものにしてみせると。
越後の長尾(上杉)と甲斐の武田、強力な兵と巧みな用兵をするこの時代に抜きん出た両雄に対して信長は、強い劣等感を持っていた。
信長は今川義元の上洛戦に対しては、少数の兵を引き連れて決死の突撃を敢行したがそれ以外は常に安全な場所に居て決して無理はしなかった。采配は現場の将が取り、その基本戦略は多勢で圧倒するというもので謙信・信玄のように自由自在に部隊を指揮しての戦術などは到底出来ないのだ。
「急げ、急げ急げ、とにかく急ぐのだ!!」
将が大声で兵を急かしている、濠を掘らせ山を崩して陣城を構築しているのだ。
武田軍は、善光寺平から引き返して塩尻から真っ直ぐこちらに向かっている。急ぐわけでも無く淡々とした行軍らしい。そのジリジリと迫る軍団が織田の将兵の気持ちを強烈に圧迫しているのだ。
信長が陣地に選んだのは、柴田・佐久間隊の陣から北方半里にある山裾だった。ここは大平街道の入り口で、東濃や苗木城・妻籠城に続く重要な街道を確保して、飯田峠から飯田城の西側を流れ天竜川に注ぐ松川を武田軍との境界とした訳だ。
「武田軍、大島城に入りました。その数八千!」
「来たか・・・」
大島城は飯田城の北方二里半、武田家の中伊那の要の城だ。飯田とは既に指呼の位置で、いつ戦端が開かれてもおかしくない距離だ。
ところが織田軍本隊の陣城の構築はまだ始まったばかりだった。信長はもう少し時間が欲しかったが、武田軍本隊の動きは信長の予想よりも早かった。
大島城に到着した翌日には飯田城に向けて躊躇なく進軍したのだ。その動きは善光寺平で二か月も停滞していた軍とは別物のようだった。
「武田軍向かって来ます。その数一万!」
「大島城の兵を加えたな。慌てずに、守りを固めよと皆に伝えよ!」
「はっ!」
織田方の作戦は、守りに徹すること。
濠と土塁・柵で守りを固め亀の様に閉じ籠もり、敵を足止めしてから弓矢と長槍で戦うつもりだった。
攻勢に出るのは多数の援軍と火縄が到着してからだ。少々兵数が多くとも野戦で強力な武田軍に対峙しようとは思っていなかった。
それに対して武田方は、侵略者に痛撃を与えて伊那から排除する事だ。大島城の兵を加えた一万で伊那街道をまっしぐらに進んで来た。
伊那街道は飯田城の南から柴田・佐久間陣地の西を通り阿智村に抜け三州街道となり三河に通じる重要な街道だ。つまり武田軍は柴田・佐久間隊陣地の背後に来たのだ。
柴田・佐久間隊陣地と飯田城の間は河岸段丘で十丈(20メートル)から二十丈(40メートル)の断崖が攻め手を阻むが、背後にはそれはない。濠と土塁・柵で防御しているが高地の利は無いのだ。
武田軍からは一千ほどの部隊が幾つも繰り出して織田陣地に取り付いた。弾除け・矢除けで防御しながら、陣地の障害を取り除き土塁を崩して濠を埋める。
こうして織田軍陣地の防御の皮を一枚一枚剝いでゆく。盛んに砲煙を上げている火縄銃も武田軍の方が多い。
武田の鉄砲隊は、後方から織田軍陣地の鉄砲兵を狙い撃ちしている。つまり腕も良いのだ。
それらの攻防が織田本隊の目の前で行なわれている。高地である織田本隊陣地からは攻防の様子が丸見えなのだ。亀のように閉じ籠もった織田本隊などは無視するかのような武田隊の果敢な攻撃だ。
「御屋形様、突撃の許可を!」
「無用だ。信玄坊主は我らを吊り出そうとしているのだ」
「それは解っており申す。だがしかし、このままでは柴田・佐久間隊が!」
「ならぬ!」
織田本隊の陣地では、滝川一益・川尻秀隆・池田恒興・丹羽長秀などの諸将が地団駄を踏んで堪えている。
「ああ、陣地が!!」
彼らの目の前で、最後の濠が埋められて大丸太を持った武田兵が柴田隊の陣地に突っ込んだのが見えた。たちまち数十・百を超える武田隊が織田陣地に雪崩れ込んだ。
「御屋形様!!!」
「・・・ぐぬぬ。よし出て牽制しろ。但し深入りはするな!」
「「おおおおお!!!」」
信長としてもぎりぎりの状況になるまで堪えていたが、柴田・佐久間隊を見殺しには出来ない。突撃の許可を得た川尻・池田・丹羽など一千ほど率いた五隊が猛然と坂を駆け下って武田隊に突撃した。
しかし、わざと隙を見せて織田本隊を誘っていたぐらいだから武田隊に動揺は無い。陣地攻撃隊とは別に武田本隊から内藤・小山田・土屋の三隊が出て来てこれに備えた。何とその前面には織田軍から奪った馬防柵を置いたのだ。
前に置かれた馬防柵の後から火縄が一斉に放たれた。それで坂を駆け下りてきた織田軍の勢いは完全に止まった。そこへすかさず内藤隊と小山田隊二千が突っ込んだ。柵の後は鉄砲隊と入れ替わった土屋隊が槍を突き出している。
激しい戦闘が始まった。足並みを乱されたものの、数が多く堪えに堪えていた織田方が押している。
そこへ飯田城下の大門が開き、一隊が出て来た。門内で機を伺っていた秋山隊だ。
「ああ、敵が・・・」
秋山隊の先頭は騎馬隊だ。三百ほどの騎馬隊が織田隊の背後へと疾走して、その後には無数の兵が猛然と突撃している。
それを見て織田本隊では味方が挟撃される事を悟り絶句する声が上がった。織田方にとって悪夢のような瞬間だ。
ところが、
「ポン・ポ・ポン・ポンポン・ポポポポポ・・・・」と強烈な火縄の連射音が戦場に・織田本隊のすぐ傍で響き渡ると秋山隊が大きく乱れた。
「味方だ! 援軍が来たぞ!!!」
「おう、味方だ!!」
「味方の鉄砲隊だ!」
尾張からの援軍が大平街道を経て到着したのだ。
多数の火縄が秋山隊の側面から放たれたのだ。まだ火縄の射程には少し遠かったが、止むことのない火縄の音が戦場の趨勢を変えた瞬間だ。
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