第117話・熊取谷炎上。
雨山が夕日に照らされて赤く燃えている。夕日だけでは無い、熊取谷八村が燃えているのだ。
熊取谷の南東に位置する雨山城に籠もった敵兵はおよそ五百、急な籠城にしては人数が多いのは、予め兵を集めていたからだ。集めた兵の一部を密かに根来に送った。それを生子島野隊が補足したのだ。
補足して追跡した、だが事が不意に起こって止めようが無かった。画策したのはこの熊取谷の領主・成真院・院主の根来大善で、根来寺四家の泉識坊がそれに乗った。
少数となった成真院は釣り合いをとるためか熊取谷から兵を呼んだ。だが、その兵の準備が整う前に泉識坊が事を起こしてしまったのだ。
そういう事だ。
雨山城に付いた俺は、五十人隊を二十隊出して村々を焼かせた。残りの二百で雨山城の西北の村々を背後に陣を敷いて城兵を待ち受けた。
来るなら来いという誘いだ。
陣には僅かな兵しかいない、来るのなら今のうちだぞ。
俺は一刻ほど雨山城に対峙して、燃える村々を救おうと城兵が出てくるのを待った。
だが、城兵は出て来る様子はなかった。
出て来い、根来大善。お前の村を、村人を見捨てるのか・・
まあ、村人に危害を加えてはいないが、家も全て燃やしている訳では無い。
それでも山上から見れば、悲惨な光景だろう。
もうしばらく待った。
だが、奴らはまだ降りて来ない。
その気配すら無い。
時間切れだ。
折角の機会だったのに・・チャンスはいつまでも続きはしない。
雨山城の東に楠木隊五百、南には新介が五百を率いて来たのだ。
明日は・・いや、明日まで待てぬ、待つ必要も無い、
今からだ。
「楠木隊・北村隊に伝えよ。黒蔵の送り火に雨山を燃やすと」
「はっ」
兵が走って、麓一面に火を放った。
火は忽ち燃え上がり、炎と煙が山を包んだ。
巨大な炎が落ちてゆく夕日に替わり、周囲を明るく悲しく照らした。
黒蔵、見ているか。今宵はお主の送り火だ。盛大だろう。裏で散々薄暗い仕事をさせたな。最後は明るい炎で盛大に送ってやるぞ。大きな墓をお前の作った当麻の里に建ててやるからな。
紀ノ川湊、廻船商・佐々木刑部助
難儀な事になった。
うち(十ヶ郷)の土橋の縁者が根来寺で暴走したのだ。
その紛争で大和屋の黒蔵と五條差配の藤内殿が撃たれたらしい。藤内殿と言えば山中家を支える大きな支柱だ。
いきなり津田家の兵が出て来た。
郷外に一千兵を待機させて五百で有無を言わずに踏み込んで来たのだ。率いるのは杉の坊・照算どのだ。とにかく猛烈に怒っているのが分かる。
「佐々木、土橋の一族を殲滅する。山中の殿は相当なお怒りじゃ。異論あれば兵を出して闘え。遠慮はいらぬぞ」
「・・異論はござらぬ」
元々雑賀水軍は津田家が頭領だ。最近は某が采配していたが、津田家の方針に異論など有るはずは無い。それに大和屋の黒蔵とも懇意にしていたのだ。
「案内を出しまする」
「・・好きにするが良い」
五百の津田隊はあっという間に土橋の屋敷に取り付いて、隣の屋敷を有無を言わせずに引き倒し始めた。
その勢いに怖れ、誰も文句も言えずに黙って退避した。周囲に建物が無くなると津田隊は火矢を放った。何百という火矢が忽ちの内に屋敷を焦がした。
屋敷内からは火縄で応戦してくるが、厳重な楯に遮られて効果がない。
深夜になって土橋屋敷は燃え尽きたが、屋敷を囲んだ兵は朝になるまで包囲を解かなかった。それが津田家ひいては山中家の怒りの深さを感じさせて、我々も帰って寝るという選択は取れなかった。
自然、燃え尽きた屋敷の傍に十ヶ郷の寄合いの者が集った。今後の事を話すともなく相談したが、誰も怒れる山中と戦うと言う者はいなかった。板一枚下は地獄という荒海を行く海賊衆が、山中隊の事を冬の蛇の様に怖れて、硬直して怯えていた。
「我ら十ヶ郷は、山中家に臣従致しまする」
翌朝、十ヶ郷の寄合いの総意で山中家への臣従を申し出た。もう憔悴尽くした我らには、それしか選択肢は無かったのだ。
翌日になって、和泉熊取谷に逃げ込んだ霜の一党は、村々を焼かれて立て籠もった雨山城を山ごと燃やされたと言う噂が聞こえてきた。
五百の兵が全滅したのだ、それも立て籠もった山ごと燃やされたという。その怒りの深さと恐ろしさに又しても体が震えた。
・・・・・・・・・・
山中家忘備録
永禄三年秋
兵一千にて小辺路の参詣道整備、本宮大社に達して中辺路を熊野に向けて整備する。新宮の堀内氏虎・精兵百をもって腕試しを挑まれるもこれを破り配下にする。
その後、十市遠勝隊は那智勝浦汐崎城を籠城兵ごと燃やしたのち、尾鷲までの南紀東方を制圧。新宮城の東に水軍拠点の熊野城の大普請をはじめ、新宮差配として赴任。志摩の九鬼嘉隆をそこに迎え入れる。
堀内氏虎に那智勝浦より西を制圧させ、安宅改め日置の差配に任じる。富田が臣従。
奥・百合葉は山本を撃破して田辺由良氏を討伐。田辺差配は舅・木津重右衛門殿に願う。玉置・龍神が臣従。山中水軍隊長は堀内氏虎を指名。
その頃、根来寺が武力放棄、僧兵を受け入れる。さらに高野山で紛争発生、高野山僧正衆の依頼に寄り、護衛隊を向かわせて制圧して僧兵を受け入れる。
根来寺・高野山の武力放棄に伴い、紀ノ川流域を制圧。雑賀五郷の内、東の三郷は臣従、抵抗した土橋城は戦火に焼失。
根来寺に残る抵抗勢力が藤内・黒蔵らを襲う、和泉熊取谷と十ヶ郷の土橋家土橋家を成敗。この騒動で十ヶ郷は臣従。
黒蔵を当麻の里に葬る。意識不明の藤内宗正は南蛮医師を付け、傍に妻の久美が寄り添っている。
残りの雑賀荘と守護畠山・湯浅・湯川を放置して、紀ノ川河口に拠点城を建設中。ここには大隊長の北村新介を置く。
山中家の石高は約百万石。奥の百合葉は懐妊。各地の差配には、我に異変あれば自由にせよと言い置いた。我、年の変る頃に予感あり。
永禄三年十二月晦日 山中勇三郎これを記す。
・・・・・・・・・・
熊取谷から根来寺に戻ると、栄山坊の周囲には五條の兵がびっしりと取り囲み警護していた。藤内の傍にはお銀の娘の久美がしっかりと寄り添っている。
熊取谷から堺の義弟に南蛮の医師と銃創に効く薬を頼んだ。俺には藤内にしてやれることはもう無い。
栗栖城で新介に会い南都に戻る。途中立ち寄った五條城の将兵を集めて今後の事を託した。ここにいた元僧兵たちは一通りの調練を終えて、既に熊野に向けて出発していた。河内の敗残兵を調練している松山右近も、尊敬する藤内の異変に酷く憔悴していた。
南都に戻ると、当麻の里に赴き黒蔵の埋葬を行なった。里の中心の神社を黒蔵神社として祀ることにした。村の老若男女数百人・全員が黒蔵を慕い涙を流して弔った。
その後、百合葉が懐妊しているのを聞いた。すごく嬉しかった。俺にも子供が出来たのだ。百合葉ならば強い母親になるだろう。数日多聞城で百合葉と共に過して密かに我が妻と子との名残を惜しんだ。
年が明けたら戻ってくると告げて、大晦日を前に法用砦に戻った。一年の締めくくりをどうしてもこの法用砦で迎えたかったのだ。この場所は一年前となにも変えていない。そのままだ。
先ほどまで忘備録に今までの事を書き記していた。俺もこれに助けられたのだ。
今は囲炉裏の炎を見ながら酒を飲んでいる。
思えばあっという間の一年だったが、何年分も、それこそ十・二十年も生きたような気さえしている。
そして新年の朝、俺がここにいるかどうかは分からない。いや何処かに行ってしまう予感を微かに感じるのだ。
あの日の朝の様に、
どちらにしても、ここがこの時代の俺の原点だ。ここからこの世界の全てが始まった。
「ゴーーーン、ゴーーーン」
除夜の鐘が鳴り始めた。これはあの時代と変らぬ音だ。
長くのびる鐘の音、それが次第に長くなってゆく・・
俺の意識は、鐘の音が響く度に徐々に薄くなってゆく。
音が次第に遠く薄く、小さくなっていく。
・・・・・・・
・・・・
・・
そして、何も聞こえなくなった。
〈第二章終わり〉
第三章に続きます。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます