第69話・十津川流域の状況。


西熊野街道 天辻峠 野原頼勢


 二見・いや五條を発したのは巳の刻(9時過ぎ)、生子・富貴を経てここ天辻峠に着いたのは未の刻(15時過ぎ)だ。各集落に数名ずつの連絡要員を置いて一気に来た。


「生子様に言われて天川の方に人を出しましたが、いまだ助けが必要だと言う声は来ていません」

 天辻集落の名主・治兵衛だ。天辻を東に向かうと天川沿いに集落が十五村ほどある。そちらの状況を聞いたのだ。


「ここに人を置いて行くで、知った事はすぐに伝えよ。異常なしの知らせも必要だぞ」

「へえ、承知しやした」


 そのまま急な道を大塔村に降りる。今日はここで野営だ。左の方向・大峯山系から流れて来た天川が濁流となって行く手を遮る。それを葛で編んだ吊り橋で渡る。一度に渡れるのは数人ずつだ、五百が渡り終える頃には夏の遅い日も暮れるだろう。


ここまでは道の崩れもほぼ無く五百の大部隊にも関わらずに行程は進んだ。それも調練された規律の取れた部隊だからということだ。


 五百の兵のうち、三百は宇智郡の新兵だ。百姓・町人に行商人・商家や山師・寺の倅までいた新兵は、雑多な集まりで当初の調練では笑いが込み上げるほどのへっぴり腰だった。それが、毎朝の一刻の調練と普請仕事が彼らを変えた。みるみるうちに体の動きが決まってゆき、たったひと月で以前の野原城の兵を凌ぐほどになったのだ。


 普請だけでなく、手先が器用な者は物づくり、算用が得意な者は物資の工面方、字が上手い者は帳簿方など得手によって仕事が与えられた。上役の者でも奢ることなく自ら汗を流し走り回って泥まみれになる。そうして想像を絶する大普請が止まる事無く進んで行く。我らでは出来そうで絶対に出来ない事だろう。つまりこれが山中家の力なのだ。

今思えば、国人衆の集まりなどで到底対抗出来る訳が無かったのだ。


「吊り橋では、物資を運ぶのに難儀しますな」

 中林殿が呟く。中林殿は二百五十を率いて来た小隊長で五條総奉行の藤内殿の腹心だ。若いながら慎重な考えの持ち主で、切れのある挙動が武芸達者である事を感じさせる。


「作右衞門、何か方法は無いか?」

「へえ、水が少しずつ引いておりますので、もう一日ほどすれば木橋が架けられると存じます」


 阪本村の名主・作左衛門が宣託した。水の流れた跡から見ても、この辺りでは確かに水は引いているようだ。後からくる部隊は、重い兵糧や物資を運んでくるのだ。この吊り橋ではらちが明かない。


「ならば、荷を背負った者が楽に渡れるようにして貰えるか」

「へい。道は村の者にとっても大事です。総出で整えまする」



 小代・中原などの近くの村は無事だが、辻堂・堂平と崩れている所が散見され道を急いだ。その先、宇井村に先行していた生子の部隊がいた。


「野原殿、宇井・清水村と水で家が流されております。引土村は土砂崩れに五軒が巻き込まれて兵が捜索中、舟川沿い五村のうち手前三村も被災しており兵を向かわせておりますが、物資と人員が不足して何とも・・」


 生子義澄どのは土に汚れて憔悴していた。


「相分かった。山中隊は我ら五百の後にも兵糧・物資を持った五百が向かっておる。まずは交替して兵を休ませよ」

「一千もの兵が・・忝し」


 この対岸の清水・宇井村に兵五十を、舟川沿いにも五十の兵を派遣して、この辺りの被害の状態を後方に人を走らせて知らせた。

 それから先は進むごとに川の水位が高くなってゆく。宇井村から一里半ほどで左手から旭川が流れ込んでそれが顕著となり水位が上がり、急激に川幅が広がっている。


「この先の村で川が堰き止められているだよ。このままでは村の家が皆沈んでしまうだ・・」

 土地の老婆が力無く呟く。

「十津川はこの先で何度も厳しく折れ曲がっておって、流れた木材でしょっちゅう堰き止められるのです」

 村名主が水位の上がる理由を話す。


「堰を切れば良いのだな」

「駄目だべ、そんでは下流の村に被害が出るだよ」


「・・ならば下流から順に堰を切って行くまでだ。何処まで行けば良い?」

「へえ、六里程先の平谷まで行けば川幅が広くなっているだよ」

「六里か、分った。すぐに向かおう」


 我らは村の者に案内して貰って二隊に別れた。真っ直ぐ平谷に向かう一隊を中林殿が率いて、我らは川を確認しながら進んだ。


 中林殿が率いた一隊が平谷に到着したのは翌日の昼頃だった。堰がある場所は十二に及んだ。一箇所に五十の兵を置き、下流から順番に少しずつ堰を切って行く事にした。

溜まった水を流すのにはかなりの時間が掛かる、上流で被害が出ないように短い時間で水位を減らせるのにはそれしか方法が無かった。既に後続の部隊が到着して人員と物資の輸送が始まっている。



「よし、下流の水位が下がってきた。堰を切れ!」

 命綱を付けた兵五人が水面の下まで降りて堰き止めている木を切り始めると、水が壁から勢い良く吹き出した。思いっきり鉈を叩き込むと更に水量が増える。遣り過ぎると危険だ。地面ごと崩れる恐れもある。


「戻るのだ、綱を引け!」

 兵一人を五人程で引き上げる。さらに水量が増して、不気味な音を発して濁流が流れ落ちて行く。見ている某の肌に泡が生じる気分だ。下に降りて作業する兵は、まさに命懸け決死の覚悟がいる。

上がってきたら、すぐに次の兵と交替する。この作業を何度も繰り返しなければならない、上の堰を切れば新たな草木が流れて来て堰を作る。

故に完全に堰を取り去るのには何日も掛かると思われる。手の空いた者は小屋を建て食事の支度を、また道の整備をしている。


「水量が減ったら、そちらも堰を切るのだ」

 某がいるのは十二の堰の六番目と七番目、ここは川が何度も折れ曲がっていて連続して堰が出来ている箇所だ。そこにも一隊が張り付いている。その少し上流にもそういう箇所がある。一箇所に一隊ずつ、全部で十二隊が堰に張り付くのだ。

 新たに後援に千の兵が来ると連絡があった。堰に張り付く以外の後援隊は、崩れた道の整備や被災した村人の小屋作りなどの復興の作業が待っている。


 それにしても思いもよらぬほどに手厚い救援だな。奥吉野は米も採れず税もほぼ無い山間だ。宇智郡が惣国のままであったのなら、生子の救援だけで終わったであろう。二千を越える兵と大量の物資を躊躇いもなく出す大将は、一体何を考えているのか・・


 ええい、今はそんな事より堰だ。堰を切って早く水位を下げなければ新たな被害が出る。上流には水がどんどん流れ込んでくるのだ、一刻を争う時間との戦いだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る