空飛ぶオオナマズ
武州人也
飛行オオナマズ
滋賀県彦根市――
彦根城にほど近い琵琶湖東岸上空の高度およそ百メートルほどに巨大魚が姿を現したのは、残暑の厳しい九月某日早朝のことであった。東天に太陽が顔を出し、空の青黒さが払われると、それは姿を現した。
――空に巨大なナマズがいる。
人々はすぐに、上空に浮かぶ異物の存在に気がついた。特撮映画の怪獣とも見紛うばかりの巨躯を誇るナマズが、ふよふよと宙を浮いているのだ。その珍奇な光景は、たちまち人の目を引くようになった。
それが現れてから、人々の話題はそのことで持ち切りとなった。現場周辺の住民だけではない周辺には連日のように報道各社が駆け付け、マスコミのヘリがまるでハエのようにぶんぶんナマズの周囲を飛び交うようになった。
全長五十メートルはあるであろうそれは、ただ何をするでもなく、どこに行くでもなく、ゆらゆらと体を揺らめかせ、四本のヒゲを震わせながら、まるで空を湖代わりにするかのように浮かんでいる。まことに不思議な光景であった。一体、それはどこから来て、なぜそこにいるのか……知る手立てを持ち合わせている者は誰もない。
「あれは蜃気楼か何かなのではないか」
という者もいたが、鳥がナマズを避けて飛んでいたり、また時折鳥が衝突して墜落したりしているため、少なくとも実体を持っていることは明確である。
ヘリに乗り込み空中からナマズを観察した動物学者の青年は、マスコミのマイクの前で、
「あれはビワコオオナマズではないかと思う」
という見解を述べた。どうやらあの巨大な浮遊ナマズの身体的特徴は、ビワコオオナマズに酷似しているらしい。
ビワコオオナマズというのはその名の通り琵琶湖水系固有のナマズであり、一般にナマズと呼ばれるマナマズとは同属であるが異なる種だ。全長五十センチメートルから六十センチメートルほどになるマナマズよりも大きくなり、全長一メートル以上、体重も二十キログラムを超えるほどまでに成長する。日本在来の肉食淡水魚の中ではかなり大型の部類であるといえよう。
青年曰く頭部の形状などがビワコオオナマズにそっくりであるそうだが、当然ながら如何にビワコオオナマズといえども五十メートルの巨躯に成長などするはずもないし、空中を浮遊することもない。巨大ナマズの正体は、依然として雲の中に隠れてしまっている。
そうして、二週間が経った。相変わらず彦根市の琵琶湖沿いはナマズの見物人で溢れかえっており、商魂たくましい者が「オオナマズ饅頭」「オオナマズ煎餅」「オオナマズ一口ケーキ」などの便乗商品を露店で販売する始末である。市の商工会議所も本格的にオオナマズ特需を狙っているようで、新しくオオナマズのゆるキャラを作り、既存の彦根城のゆるキャラと共演させるという計画まで動き出そうとしていた。
その日、彦根市では台風の影響で、早朝から天気は荒れ模様であった。暴風が吹き荒れ、大雨が降りしきる中、人々の心配はあの巨大ナマズに向けられていた。
荒れ狂う嵐のせいで、屋内からナマズの姿を見ることはほとんど不可能であった。それでもナマズ付近の住民は、祈るような気持ちで窓からナマズのいる方角を見つめていた。もし万が一、台風によってナマズが怪我をしたり、死んでしまうようなことになったら……彼らは自分たち自身以上に、ナマズのことを真剣に心配していた。
奥田家も、そんな家の一つであった。父と母、そして小学一年生の一人娘は、二階のリビングから不安げな様子でナマズのいる方を眺めていた。昼だというのに空は黒々としていて、酷烈な風雨が窓や屋根を叩いて激しく音を鳴らしている。
「わっ!」
突然、娘が叫び声をあげて、腰を抜かしてしまった。驚いた両親が窓の方を見ると、両親は娘が何に驚いて叫んだのかをすぐに理解した。
目が、光っていた。
窓のすぐ外から、大きな丸い目がじっと中を覗き込んでいた。こんな大きな目を持つ生き物は、相当大きな体躯をしているはずだ。目の正体について思い当たるのはただ一つ……
――あれが、家のすぐ外にいる……
次の瞬間、ふっと目が消えた。そして少し間をおいて、がしゃんという衝撃とともに、屋根が崩された。
悲鳴をあげる一家……最後に見たのは、大きな口を開けた巨大ナマズの顔であった。
台風が過ぎ去り空が晴れるまでに、実に三十棟の家屋が押し潰され破壊されていた。ナマズが家屋を押し潰したという目撃証言が複数人から発せられたことで、この家屋破壊の犯人はほぼ確定的となった。そして、自衛隊による救助活動も虚しく、破壊された家屋の住民の遺体は一つとして発見されなかった。
――恐らく、あのナマズが食べてしまったのだ。
捕食に関する証拠はなかったが、そう考えられても仕方がなかった。
晴れた空の下でナマズは元のポジションに戻ってふよふよ浮いていたのであるが、人々のナマズを見る目はがらりと変わった。悪魔、人食い怪物、凶暴な化け物……この巨大ナマズは、そうした恐怖と憎悪の対象にすっかり様変わりしたのであった。かつて巨大ナマズに愛着と親しみを持った市民の姿はもはやない。ナマズに便乗して商売していた露店は姿を消し、商工会議所によるオオナマズのゆるキャラ計画も中止となった。
当然、自衛隊による早期の駆除を求める声が市民から上がり出した。そうした声に後押しされて、とうとう害獣駆除の名目で陸上自衛隊の攻撃ヘリ部隊が出動した。さしもの巨大ナマズも、現代の兵器が相手では無力だ。ほとんど抵抗らしい抵抗をしないまま、巨大ナマズはミサイルの飽和攻撃を受け、湖に向かって墜落した。
引き揚げられたナマズの死体は、原型を留めぬほどぐちゃぐちゃになっていた。死体が解剖に回されると胃袋の中から人体がいくつも発見され、このナマズが嵐の夜に人間を捕食していたことが明らかになったのであるが、それ以外のこと――なぜ巨大化したのか、なぜ空中を浮遊していたのか、その真相に迫るようなことは何も分からない。
空に浮かぶ巨大なナマズの正体は、ついぞ分からずじまいであった――
空飛ぶオオナマズ 武州人也 @hagachi-hm
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