響く遠吠えと

 それは雄叫びであり、感動であり、吐露とろだった。自信に満ち溢れ、勇ましさをまといながら雪の積もる森の中を響き抜けていく。俺はただただ圧倒された。そこまで大きい音ではない上に、狩りで聞き慣れている音であるにも関わらず。


 しばらくすると、冬狼スノルフは口で獲物を引きずりながらこちらへとやってきた。どうだ、見たことか____そう言いたげだった。くわえられているのはあの鹿だ。禍々しく曲がりくねった角と大きな図体を武器に長らくこの銀世界を生存してきたのだろう。喉元を無惨に食いちぎられて、なおその貫禄は失われていなかった。


 そして同時に俺と冬狼の狭間にあった何かが外れたような気がした。今までただの動物としか見ていなかったが、奴もまた俺と同じように狩猟者なのだと認識する。冬狼は俺の前までやってくると鹿を咥えることをやめ、どっさりと前に死体を置いた。お行儀よく座って待機している。


 俺は腰のベルトから解体用ナイフをするりと抜き、皮の剥ぎ取りから始めた。後ろ脚の付け根辺りから刃を入れて、そのまま前足の方へとナイフを動かしていく。なるべく出血を押さえながら皮を取り終えると、白く薄い膜で包まれた内蔵群が姿を現した。そして、四肢の関節を折ってから脚を切り落とす。そのまま皮を巾着きんちゃく代わりとして鹿の亡骸なきがらを包み、四本の脚と一緒にリュックに入れる。荷物を少なめにして確保したスペースはすっかり鹿に占領されてしまった。


「よし、帰るかな」


 俺は一度、冬狼と一緒に戦車に戻ることを決めた。なんだかんだ言ってやっぱりこいつがいなくてはならないと思っていたのは俺の方だった。それは狩りにおいて役立つという理由だけではない。なにか足りないものをひっそり埋めてくれるようなそんな存在。それに反応するようにして冬狼は可愛らしく唸る。冬の雪を溶かしてくれるような温かさがそこにはあった。雪を踏みしめながら、木々の間を縫うようにして歩く。思いのほか旅の仲間ができたことに喜んでいるようで、枯れた叢樹そうじゅすら祝福しているように感じた。




 _____血の匂いを嗅ぎつけてくるというものはどこにでもいる。それはどんなに極限の環境でも当てはまる。人間の一億倍の嗅覚を持つ犬よりも更に10倍の嗅覚があるとも言われ、生物の中でも群を抜いて鼻が利く動物。腹に響くほど低い声でこちらを威嚇し、獰猛どうもうな爪を光らせている。全身が黒い毛に覆われて、胸元辺りだけが白くなっていた。そんなに詳細な特徴が分かる程に近づかれていたのだ。


 そう、それは冬眠中のはずの大熊カムイだった。どこまでも執念深く追跡して、狩りのためだったら簡単に木にすら登ってみせる。先日出会った巨牙猪ファングと双璧を成すような森の王者の一体である。


「早く匂いを消しておくべきだったな」


 運悪く、水飲みか何かで目覚めていた時に血の匂いを嗅がれたのだろう。熊よけの鈴なども持ち合わせおらず、正に絶体絶命だった。熊も人間を怖がっているので、背を向けて逃げ出したりしなければ安全に帰れる、というのが通説だが果たしてこいつがそれを許してくれるかどうか。


 明らかに血走った目でこちらを凝視している。十中八九、お目当てはバックの中身。急に走り出されたら間に合わない距離。後ろの冬狼も唸ってはいるものの身動きが取れていない。俺は内ポケットから弾を取り出してバック横にあるモノローグに素早く装填した。慣れた動作のはずが酷くのろいように感じる。


 普段の狩りに比べれば外しようがない距離だったので、狙いも殆どつけずに発射。弾速はかなり遅く、飛んでいく様子が少し視認出来るほどだった。その弾丸はそのまま熊の右脇腹に突き刺さる。一瞬動きが固まったかと思うと、そのまま熊は横に倒れてしまった。雪がクッションとなり無傷のまま横になってしまった。


 昔から伝わる薬草たちを決められた配分で調合して作った麻酔薬を注射針のついた弾丸に仕込んでおいたのだ。言うなれば麻酔弾。薬草はかなり値が張るので乱用は出来ないが、こうした場面で即効性のある麻酔というのは重宝する。最小限の傷だけで無力化させることで、無駄な狩りを行わないようにすることも狩人には求められるからだ。そしてそこが密猟者と狩人の違いなのかもしれない。


 そっと寝ている熊に近づき銃弾を再利用の為に回収する。麻酔の威力は折り紙付きだが念には念を入れて慎重に行う。無事に針を抜くことが出来た。熊はまるで死んだように眠っている。狂暴だった時の姿が嘘のように眠っている姿は赤子そのものだった。麻酔には万全を期しているつもりだが、この図体の大きさではどこまで持つか分からない。俺はそそくさとその場を後にするのだった。


「あぁ…………死ぬかと思った」


 ぽつりと出たのは、安堵から来る一言だった。


「そろそろ、お前にも名前を付けなきゃな」


 そういえば今までこの冬狼のことは「こいつ」とか「お前」とかしか呼んでこなかった。ふと漏れた言葉の責任は俺がとらなくてはならない。奴が言葉を話せないのなら尚更。

 

 どうしようかと迷っているうちにとうとう目的地に着いてしまった。装甲をよじ登り、ハッチをこじ開けて中に入る。冬狼は慣れた動作で俺と一緒に入ってきた。取り敢えず、着ていたダッフルコートを脱ぎ、ベッドに放り投げておく。タオルで冬狼の体を拭いてやると、最初は嫌がっていたもののおとなしくなった。見る限り傷は綺麗に塞がっており、口元で凝固していた血を丁寧にふき取ってやる。改めて顔を凝視すると、野性的ながらもどこか足処気あどけなさがある瞳に狼特有の高い鼻、小さく閉じた口の中には恐ろしい歯がずらりと揃っているのだろう。


「お前の名前さ。『スプル』ってのどうだ? 俺の故郷の言葉で、『狼』っていう意味があるんだよ」


 ふと思いだされたのは、家族の顔。こんな寒い時期はともに食卓を囲みながら、ゆっくりと団欒だんらんしたものだった。今、家族は元気に過ごしているのだろうか。もうしばらく会っていない。冬狼スノルフは言葉の意味を理解したのか、友好の印とばかりに体をり寄せてきた。距離が縮まったのは勘違いではなかったようだ。


 鹿の入った包みを丁寧に床に置き、更に解体を行う。少しナイフで傷を入れて金属製の桶の中に血を注いでいく。その後、内蔵も同じ要領で取り出す。内蔵はなまぐささを抜けば勿論、血すら料理に使うことが出来る。そして中身を抜いたあと、再びナイフで幾つかの塊に切り分けておく。どうせ一気には食べきれないので、殆どが干し肉になる。


 その塊を更に薄くスライスしたものをスプルの方へと放ると、落下点に素早く入り込んで上手に口でキャッチした。口を懸命に動かして肉を食らっている。そんなに焦らなくても肉は逃げないと思ったがどうせ伝わらないので心中に留めておくことにした。






 暗く立ち込めた雲は何層にも折り重なって、二つとないグラデーションを作り出していた。雨のような頻度で降る雪はやがてその強さを増して、この地の生命に等しく寒威かんいもたらす。さて、今宵こよいは幾つの息の緒が途切れてしまうのか。閉ざされた銀世界の中で、その問いに答えてくれる者は誰一人としていなかった。






 暗がりの中で、目が覚めた。戦車は朽ちた大木のように沈黙している。まだ太陽は昇る気配すら見せていない真夜中。月光がハッチの隙間から漏れこんでくる以外、まともな光源はない。横に目をやるとすっかり安心しきった様子で豪勢ないびきをかきながらお休みになっているスプルがいた。このところ、態度はますますでかくなっていくばかりだったが、数日前に名前をつけたあたりから指数関数的に太太ふてぶてしくなっているような気がする。一体、誰の許可を得て寝床によだれを垂らしているのだろうか。


 しかし、こいつのおかげで格段に狩りがしやすくなっているのも事実。その類稀れなる嗅覚を生かして俺では気づけないような距離から獲物を狩ることができるようになった。しっかり分け前は与えるようにしているし、最初に比べたら懐いている。備蓄も次の国に着くまで贅沢しなければ問題ない程度には増えた。


 俺は二度寝に入ることなく、すっとベッドから抜け出す。寝間着を脱いでお気に入りのダッフルコートの代わりに、薄手の作業着に身を通す。ありとあらゆる獣たちが寝静まる夜だというのに、目がこれ以上ないほどに冴えていた。そして、車内の床に設けられた『もう一つのハッチ』を開ける。通常であればその下のスペースには保存食などが詰め込まれているはずだが、俺の戦車の場合は違った。


 人一人がなんとか入り込める大きさしかない地下とも呼べるその空間にあったのは幾つかの『火器庫ガンロッカー』だった。特に危険な武器らを仕舞っておくために用意した特注品。外から見るだけでその禍々しさが伝わってくる。溢れ出すその異様さに空間が曲がっているかのような錯覚を覚える。


 開けた瞬間に伝わってきたのは『熱』。そのエネルギーのうねりからは生を感じさせてくる。


「テトラロニア、出番だ」


 そこに鎮座していたのは、人をかたどった武骨な金属塊。つまるところそれは強化外骨格パワードスーツの一種だった。遊び半分で作ってみたものの、あまりに出力が強すぎてこの火薬庫行きになった。俺が手を触れると久しぶりの目覚めを喜ぶかのようにして、全身が勢いよく半分に割れるようにして開いた。背を向けながら背負いこむようにして装着していく。俺が着込んだと認識するよりも早く、テトラロニアはその殻を閉じた。外で遊びたがる子供のような無邪気さがそこにはあったが、同時に恐ろしいまでの凶暴性を秘めている。自分の体にぴたりと馴染んでくれる。何度か、手を握ったり足を動かしてみるが、全く動きを阻害してこない。


 見た目よりも装備自体の重さはなく、軽々と『もう一つのハッチ』を抜け、その勢いのまま戦車のハッチも開けて、凍てつく冬空へと飛び出した。この格好だと外気温が顔からしか伝わってこないため、首から下との温度差に少し違和感を感じた。


 外に出る前から、意識はただ一点にしか向いていない。そして相手もそれは同じようだった。後脚で器用に立ち、前脚を伸ばして自分を大きく見せる威嚇の姿勢を取っている。その後どっしりと前脚を下ろし、強く低く唸る。臨戦態勢に入った証拠だ。


「お前も懲りないやつだな。血の匂いをわざわざ追いかけてきてここまで来るなんて」


 その正体は先日麻酔弾で眠らした大熊カムイだった。傷の位置も全く同じ。見紛うはずがない。あそこまで明らかな敵意を向けられてはこちらも挑む他は無い。狩りという上下関係のある戦いは終わりを告げ、どちらかが死ぬまで闘う「死合」の火蓋が切られようとしていた。


 相手にとって不足は無かった。

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