第52話 グレゴリーの来訪(2)
深呼吸をして、気を落ち着かせる。
「お待たせいたしました、グレゴリー殿下」
ドアを開けると、フルールは完璧な淑女の微笑みを浮かべた。
応接室の上質な革張りのソファには、栗色の髪の美青年が鎮座している。その姿は彼女がいつも目にしていた堂々とした王子ではなく……どこか儚い印象を受けた。服もゴテゴテと装飾過多なジャケットではなく、シンプルなシャツを身につけている。
「少し、お痩せになられましたか?」
かつての婚約者を労るように眉尻を下げる令嬢に、グレゴリーは力なく笑った。
「まあね。君は相変わらず綺麗だね、フルール。聞いたよ、辺境伯を振ったって」
「あら、お耳の早い」
品行方正な王太子の元婚約者は、今やクワント社交界注目のゴシップガールだ。しっかり貞節は守っているというのに、恋の噂が絶えなくなってしまった。
「まさかあの腑抜けた教師のミュラーが辺境伯だったなんて」
「ミュラー先生はとてもしっかりした方でしたわ」
元担任を蔑む発言をする同期生を、令嬢がやんわり嗜める。グレゴリーは自嘲混じりのため息を吐き出した。
「本当に、君とは同じ物を見ていても見え方が全然違っていたんだな」
……だから、こんなことになった。
「殿下、今日はどのようなご用件でいらしたのでしょう? お付きの方もいらっしゃらないようですが」
基本的に、王族が単独で外出などありえない。ましてや王太子なら秘書官や護衛官が常に数人付いているはずなのに。グレゴリーは一人で公爵邸の門の前に立っていたという。
「ああ、今日は一人で来た。初めて乗合馬車というものに乗ってみたんだ。小切手で払ったら使えないと御者に怒られて、危うく憲兵を呼ばれそうになった」
憮然と眉根を寄せるグレゴリーに、フルールの背後に立って警戒していたエリックは思わずずっこけそうになる。王宮から公爵邸までの運賃はせいぜい小銭程度、そんな金額の小切手など換金するだけ手数料の無駄だ。
王族は世間知らずだなと内心呆れていたら、
「それは災難でしたね。たまたま銀行嫌いの御者さんだったのかしら?」
……うちのお嬢様も引けを取らない世間知らずだった。
「一人で乗合馬車に乗るなんて凄いです。わたくしも今度乗ってみようかしら」
生粋のお嬢様育ちのフルールも、勿論公共交通機関を使ったことがない。……乗りたがっても全力で阻止しようとエリックは心に決める。
そんな執事の決意など気づきもせず、貴人達の会話は続く。
「でも、グレゴリー殿下がお一人で外出なんて、お付きの方はお止めにならなかったのですか?」
フルールのもっともな質問に、グレゴリーは紅茶を一口飲んで、
「いない」
「え?」
「秘書官も護衛も、もういない」
「……どういうことでしょう?」
首を傾げた元婚約者に、グレゴリーは伏し目がちに零した。
「僕はもう、殿下ではない」
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